日本大百科全書(ニッポニカ) 「服装」の意味・わかりやすい解説
服装
ふくそう
服装の役割と発生について
衣服の項目でも触れているが、日本と西洋の服装の歴史を述べるに先だって、その役割と発生について簡単に述べておこう。人間の服装には大別三つの機能(役割・働き)がある。護身の機能、装身の機能、象徴の機能である。護身の機能とは、暑さ寒さから身体を保護し、外界の危害から人間を守ることで、おもにその物理的・生理的役割の面をさしている。装身の機能とは、美しく飾るという人間の本性としての欲求を充足する機能で、服装の心理的・美的側面の役割をさしている。そして、象徴の機能とは、集団社会での年齢・性別・職業・身分などのほか、広くは民族・時代などのしるしとなる役割であり、集団における社会的機能ということもできる。こうしたさまざまな役割を担う人間の服装は、いつ、どのように発生してくるのか。
人間が服装を身に着け始めた動機については、さまざまな理由が説かれている。前述した保護説、あるいは、人間が裸体であることを恥じたことからとする羞恥(しゅうち)説などは、早くから考えられた説であった。近代になって学問が発達してくると、これらとは別の見方が現れてきた。たとえば、未開種族のなかに人類文化の源泉をみようとした民族学者や人類学者たちは、服装の始まりを呪術(じゅじゅつ)、つまり、まじないや護符(御守り)などの精神的要素にあるとした。また、ある場合は、物を保持するため腰に巻いた腰紐(こしひも)が最初であるとして紐衣(ちゅうい)説をあげ、あるときは、前述の装身こそがその根元だとして装飾説を唱えた。一方、集団のなかにあって、自分を他人や異性に表示し、あるいは反対に他人と同じ服装をすることによって、仲間意識を高揚することにあるとも考えた。こうした説にはいずれにも根拠があるとはいえ、個別の理由だけで説明づけることには無理がある。なぜなら、服装に託す人間の欲求はけっして単一な理由に基づくのではなく、種々複合した理由によっているからである。つまり、ある場合、あるきっかけが重点になろうとも、結果において多様な要因を同時に含んでいることがほとんどなのである。
人種・民族を問わず、人間は基本的に同じ構造をもっている。服装が他の造形と大きく異なるのは直接生きた人間にまとわれる点であり、このことが服装にいくつかの特徴を与えている。まず、服装は一人の人間について一つの形をとる以上、独立した固有の人格表現となり、人間そのものの表現となることである。次に、人体が基本的に同一の形をとっているため、服装には時代・民族を超えて類型が生まれやすい、ということがあげられる。それらの服型を整理することで、私たちは、さまざまに入り組んだ歴史のなかの服装を体系的に理解することが可能になる。これを服装の基本型という。以下のとおり、大きくは3種、小さくは6種に区分される。
(1)懸衣型(けんいがた) 裁ったり縫ったりすることなく、身体に懸(か)けたり巻いたりするだけで成り立つ衣服で、これには貫頭衣形式と巻衣(まきい)形式とがある。貫頭衣とは、1枚の布地の中央部に穴を開けるか切り目を入れ、そこから頭を通して身体の前後に布地を垂らし、身頃(みごろ)にした衣服で、中南米の原住民の外衣にみられる。巻衣とは、身体に巻いたり、袈裟(けさ)状に斜めに懸けたりした衣服で、典型は古代ギリシアのキトンや古代ローマのトーガ、インドのサリーなどにみられる。
(2)寛衣型 緩やかなワンピース形式の衣服で、これには寛袍(かんぽう)形式と、前開(あ)き服形式がある。寛袍とは、緩やかな中国服やヨーロッパ中世のブリオーなどにみられる。前開き服とは、トルコのカフタンや和服のように、身頃を前で開いたままか、またはあわせて着る服である。
(3)窄衣型(さくいがた) 身体にぴったり仕立てた衣服で、これには密着服形式と円筒服形式がある。密着服はシャツ状の衣服、円筒服とはチュニック形式の衣服である。この形式の衣服の典型は北方の寒帯地域にみられるが、活動に便利なところから、部分的には温暖な地域でも着られた。たとえば密着服は古代エジプトの女子や古代メソポタミアの男女にみられ、円筒服は今日の洋服や中国北方の諸民族が着用した、いわゆる胡服(こふく)にその典型をみることができる。
[石山 彰]
日本の服装史
特色
日本はアジア大陸に弓なりに近接した島国であり、そのうえ、中国という高度な文化をもった国が隣接、さらに後世になると、舟運の発達に伴い、南蛮・紅毛・欧米などの外来文化の影響を受けつつ絶えず変転していった。
[遠藤 武]
古代(6世紀まで)
石器時代より日本に人間が住んでおり、彼らの使用した土器、土偶の出土品によって、当時の服装を解かんとする学者もいないではないが、早急にこれを解説することは危険である。紀元前3世紀に入ると弥生(やよい)式文化期に入り、織物の技術が伝播(でんぱ)されたことは、奈良県の唐古(からこ)遺跡や静岡市の登呂(とろ)遺跡からの機織(はたお)りの発掘品によって明らかである。当時の衣服形態は、中国の晋(しん)の陳寿(ちんじゅ)が著した史書『三国志』の「魏志倭人伝(ぎしわじんでん)」のなかに記され、それによると、男子は長い布を体にぐるぐると巻き付け(袈裟(けさ)式衣)、女子は布の中央に頭の出るように穴をあけて、これをかぶって着用した(貫頭衣)という。このような衣服形態は日本ばかりでなく、台湾、インドネシア、ギリシア、ローマ、エジプト、ペルーなどにもみられるもので、原始服装は世界中至る所にみられるものである。5世紀に入って日本は大和(やまと)国家が統一され、これに加えて朝鮮半島を通じて大陸文化に触れるようになると、中国の二部式服飾構成が埴輪(はにわ)土偶のなかにみられ、しかも中国では野蛮な着装法とされた左衽(さじん)(左前)の風習さえ行われた。これが『古事記』や『日本書紀』にみられる衣褌(きぬはかま)(男)、衣裳(きぬも)(女)で、褌はだぶだぶのズボンであり、裳は現代のスカートにあたりこれには青海波(せいがいは)の模様すらあった。上衣の衣は男女共通の形態であり、男は刀を帯びる必要からたらし(帯)を締めた。
[遠藤 武]
中国模倣の服装(7~9世紀)
6世紀に入って仏教文化が朝鮮の百済(くだら)からもたらされ、さらに朝鮮の帰化人が日本に渡来して、日本の文化が高まるにつれて、推古(すいこ)天皇の代(592~628)になって隋(ずい)の都長安(中国陝西(せんせい/シェンシー)省西安(せいあん/シーアン)市の古称)に遣隋使を遣わすことになった。これによって中国文化が取り入れられ、盛んに隋の服制に倣って冠位十二階の制定が行われた。これは日本最初の服制で、朝廷に仕える人たちの服飾は一新した。冠位制度は冠色によって位階の別とし、同時に冠色と服色が同色であることに特色があった。冠色は、青・赤・黄・白・黒の5色を陰陽五行説の木・火・土・金・水にあてた色で、この上に5色を摂する色として紫を置き、これを大小(濃淡)に二分して12色としたのである。この制度はのちに十三階、十九階、二十六階と分化され、ために複雑と繁雑さが加わり、ついに80年も経過しないうちに廃止され、これにかわって位階は服色制度となった。
服色制度は冠位制度と異なり、冠は黒1色に規定され、その服装は男女とも衣褌・衣裳よりさらにゆったりとした構成で、上衣を丈長くしたり、女は裳を二重にする重裳(かさねも)の形跡さえみられた。着装法も右衽(うじん)とかわり、袍袴(ほうこ)・裙(くん)の様式をとった。袍は上衣のことで、領(えり)(襟)は盤領(あげくび)(まるえり)で裾(すそ)には襴(らん)をつけたものとないものとがあり、後世の朝服(出仕服・参朝服)の基となった。袴(はかま)には切袴(きりはかま)と括緒(くくりお)(裾を紐で結び留める)の袴ができた。701年(大宝1)に衣服令(りょう)が制定されると、服装は礼(らい)服・朝服・制服の区別が生まれ、礼服は五位以上の官吏が即位・朝賀などの重要な儀式のおりに用い、天皇の礼服には袞冕(こんべん)十二章(12種類)の紋様がつけられ、皇太子は九章といって9種類の紋様をつけた。朝服は宮中に出仕するおりに着用するもので、夏冬の衣料や階級による色の差別があった。制服は、無官の官吏や庶民が宮中の仕事に携わる際の服装である。国家の中国模倣は平安時代初期に入るとますます激しくなり、天皇は詔勅のなかで「天下の儀式、男女の衣服みな唐様(からよう)を用いよ」という風になった。中国で左衽の服飾着装法は野蛮な風とみなされた結果、遣隋使の帰国後、官吏の間から右衽とかわったが、庶民の間では長い間の習慣が捨てきれず、右衽着用までには時間がかかった。
[遠藤 武]
日中融合の服装(9~15世紀)
平安時代も約100年ほど過ぎると中国(唐)では内乱が起こり、遣唐使を派遣してもなんら高度な文化を吸収することができなくなったので894年(寛平6)菅原道真(すがわらのみちざね)の建言を取り入れて遣唐使派遣を停止した。このためわが国では従来の中国模倣をやめ、日本独自の服装に改める必要に迫られた。荘重な礼服にかわって朝服を礼服として用いることになり、男子に束帯(そくたい)、女子に女房装束(後世の十二単(じゅうにひとえ))が用いられることになった。
束帯は、冠、袍、半臂(はんび)、下襲(したがさね)、袙(あこめ)、単(ひとえ)、表袴(うえのはかま)、袴、石帯(せきたい)、魚袋(ぎょたい)、平緒(ひらお)、襪(しとうず)、履(くつ)、笏(しゃく)、帖紙(たとうがみ)などから構成され、袍・下襲などは身分によって色がわかり、下襲の裾にも長短の区別ができた。束帯は日中の行事に用いたところから昼の装束(しょうぞく)といわれたが、夜の装束つまり宿直(とのい)(殿居)の場合は、石帯、下襲、表袴、笏などが略されて、指貫(さしぬき)、腰帯、扇を持つことになった。日常着として直衣(のうし)があり、さらに簡略されたのが狩猟衣に源をもつ狩衣(かりぎぬ)で、中流以下の人たちには水干(すいかん)、直垂(ひたたれ)が用いられた。
鎌倉時代になると武家は簡素な生活をモットーとしたから13世紀には狩衣、水干は儀式用となり、直垂の地位が高まって袖口(そでぐち)・袴の変化、さらに材料・色彩・文様が実用よりも華麗さを尊ぶようになり15世紀に入ると礼服化するに至った。直垂の礼服化に伴って形態上まったく同じの大紋(だいもん)という家紋をつけたものが公服化し、さらに素襖(すおう)も16世紀から公服化した。素襖も直垂・大紋と形態は同じであるが、菊綴(きくとじ)が革緒であるのと、袴の紐が共裂(ともぎれ)であるのが特色である。素襖の両袖を取り去ったのが肩衣(かたぎぬ)で、最初戦陣における礼服であったのが、しだいにその地位を高めて礼服化していった。
女子の晴装束は、女房装束あるいは唐衣(からぎぬ)・裳、物具(もののぐ)といわれるもので、その構成は唐衣、裳、表着、打衣(うちぎぬ)、衣(きぬ)、単、袴、檜扇(ひおうぎ)、帖紙(たとうがみ)、襪(しとうず)、履(くつ)などであり、盛装の際にはこれに比礼(ひれ)・裙帯(くたい)をつけた。衣は5枚、8枚、10枚、12枚、ときには20枚を重ねることもあり、鎌倉時代に入ると女房装束を十二単と俗称するようになるが、一般には衣は5枚重ねを普通とした。たくさん重ねる衣には匂(にお)い、薄様(うすよう)、襲色目(かさねいろめ)という特殊な名称がつけられ、着用者の好みに応じて四季の草木名を用いた。この服装も13世紀以降になって宮中儀式の衰退に伴って簡略化され、そればかりか、袴の着脱が日常生活のうえで不便なため、袴にかわって湯巻(ゆまき)が用いられ、衣にかわって小袖を着用する機会が多くなっていった。このため、無垢(むく)の小袖に模様ができるようになり、筒袖に袂(たもと)を生じ、外出には壺装束(つぼしょうぞく)といわれた市女笠(いちめがさ)に衣被衣(きぬかずき)姿から、しだいに小袖被衣、とかわっていった。
[遠藤 武]
日本独自の服装
戦乱に明け暮れた応仁(おうにん)の乱(1467~1477)以後、混乱の時世を迎えたため服装界もこれに伴って混乱し、男の世界では被(かぶ)り物は廃されて露頂(ろちょう)の風がおこった。武家服装界の中心であった直垂・大紋にかわって素襖が一般化し、同時に肩衣・袴(裃(かみしも))も礼服化して、近世に入るとまったく式正(しきしょう)の服にまで向上した。小袖も小袖、袷(あわせ)、単(ひとえ)、帷子(かたびら)の区別が、着用する時節によって使い分けられ、さらに麻の小袖は布子(ぬのこ)ともいわれた。武家の晴れ着は熨斗目(のしめ)小袖で家紋をつけ黒羽二重(くろはぶたえ)が式正であった。民間では黒羽二重の紋付が晴れ着で、日常は太織(ふとおり)・唐桟(とうざん)・縞(しま)木綿を用いた。帯は最上が献上博多(はかた)で、まがい物が甲州(こうしゅう)博多で、このほか魚子(ななこ)、琥珀(こはく)などでつくり、これを貝の口に結んだ。羽織は元来、武家の道中の塵除(ちりよ)けとして用いたものが近世に入って防寒着として用いられ、年齢と時の流行によって長短の差を生じ、佩刀(はいとう)する武家には背割(ぶっさき)羽織が着用された。足軽、中間(ちゅうげん)、職人の間から羽織にかわって半纏(はんてん)、看板(かんばん)(武家の中間や小者が着る定紋のついた上衣)、法被(はっぴ)などが用いられた。
女子の服装は、袴の着脱に不便なところから、小袖・帯が登場するようになり、これを礼服化するために打掛(うちかけ)(裲襠(かいどり))が用いられ、これには地白、地赤、地黒の3種があり、桃、萌黄(もえぎ)、紫などは間着(あいぎ)として用いられた。武家の婦女は、夏の正装には腰巻姿で、宝尽くしや松竹梅を総縫いにした黒紅色(紅に鉄漿(かね)を加えてつくった濃い茶)の小袖を腰に巻き提帯(さげおび)で留めた。民間の服装も明暦(めいれき)の江戸大火以後しだいに華美となり、ことに元禄(げんろく)時代(1688~1704)には豪商の間では衣装競べが行われたほどで、幕府は町人衣服が華美になることを恐れて衣服禁止令を再三再四と出したがその効果はなかった。有名絵師による描絵(かきえ)小袖(例、尾形光琳(こうりん)筆秋草模様)や宮崎友禅斎による友禅染めがおこり、模様配置も寛文(かんぶん)模様、三段模様、二段模様、腰高模様、裾模様、裏模様、江戸褄(づま)模様、島原褄模様などいろいろのものができ、帯の発達につれて女の後ろ姿が着物姿を代表するようになった。女に羽織が用いられたのは江戸時代末期で、それにかわる防寒着として合羽(かっぱ)より転じた着物仕立の被布(ひふ)が愛用された。また衽(おくみ)のない羽織を半纏と称したり窮屈羽織とよんで下層の庶民に着用された。
[遠藤 武]
西洋模倣の服装(19世紀以降)
外国船の来航によって鎖国の夢が破れ、わずかながら西洋模倣が軍人や貿易商の間から広がり、文明開化とともに1872年(明治5)礼服を洋服に改めることが決まり、陸海両軍、太政官(だじょうかん)服その他が洋装化した。断髪令とともに帽子が普及した。女の洋装化は男より遅れて鹿鳴館(ろくめいかん)時代になってからである。そればかりか、従来の女性の髪は不衛生、不経済、安眠がとれないところから結髪改良運動が起こり、さらに衣服改良運動にまで発展した。洋服を最初に取り入れたのは東京・お茶の水女子師範を皮切りに、宇都宮と秋田の女子師範であった。東京の大呉服店でも女子の洋装部がつくられたが、大正年代に入って第一次世界大戦後に生活改善の合理化運動が起こり、関東大震災と1932年(昭和7)の白木屋大火災によって、女性の洋装化が急速に高まった。さらに満州事変、日支事変が太平洋戦争と進展するにつれて、和服は第二義的なものとなり、洋装が日本服装界の王座を占めることとなり、第二次世界大戦終結を境にこの方面での流行がファッションとよばれて今日の盛況をみせている。
[遠藤 武]
西洋服装の歴史
西洋服装の歴史の流れは、大局では一般史上での時代3区分に見合う形をとっている。すなわち、古代は巻衣(まきい)の時代、中世は寛衣(かんい)から窄衣(さくい)へと移行する時代、そして近世以降は総じて窄衣の発展時代として位置づけられる。巻衣とは、1枚の布地を身体に巻いたり懸けたり垂らしたりすることで成り立つ衣服で、脱ぐとふたたび元の1枚の布地に戻ってしまう性質の衣服である。温暖な気候の地中海周辺に発達した西洋古代の文明世界では、こうした巻衣形式の衣服がほとんどであった。ところが中世に入ると、これらの衣服は男女とも縫い合わせた緩やかなワンピース形式の衣服つまり寛衣に転化する。中世も後期のゴシック時代になると、衣服は身体にあわせて仕立てたぴったりしたものにかわる。これが窄衣である。西洋の服装はその後、この服型の延長上において、時代に応じたさまざまな変化を展開していくのであり、総じて窄衣の発展時代と名づけられた。
[石山 彰]
巻衣の時代(古代)
巻衣(ドレーパリー drapery)の典型は地中海域を中心とする亜熱帯地域に発達したエジプトやギリシア・ローマにみられる。古代エジプトでは前3000年紀の中王国時代まで、男性は王に至るまでロインクロス(loincloth腰衣。フランス語では、シャンティshentit、パニュpagneなどという。以下イタリック文字はフランス語)を用い、後代もそれが盛装として受け継がれた。これに対して女性は吊り紐(つりひも)のあるジャンパー形式のスカートやぴったりしたチュニックtunicが一般であった。前1500年ごろの新王国時代になると、細かくひだづけした薄地リネンのカラシリスkalasirisやローブ(robe寛衣)が着られ、装飾も豊かになった。清潔を重んじた彼らは男女とも頭髪を短く刈ってかつらをかぶり、鮮やかな色彩のビーズ状の襟輪や胸飾りをつけ、上層人はサンダルを履いて男性はあごに付けひげをつける習わしであった。ナイル河畔には亜麻(あま)が豊かに繁茂したところから、織物はリネン中心で、動物性繊維は、皮革または神官の毛皮を除けばほとんど用いられていない。
3000年以上にもわたって平静な文明を持続した古代エジプトとは対照的に、メソポタミアでは変化の激しい動的な文明を特徴とした。前3000年紀の初期王朝時代の男女は、羊毛が房状に絡み合った毛皮服(カウナケスkaunakes)の腰衣かショール付きスカートを着用した。前2000年紀のバビロニア時代になると、上層の男性は全身を覆う袈裟(けさ)掛けのウールの衣服かカウナケスの螺旋(らせん)状の巻衣を着、下層ではシャツ状のチュニックか短い腰衣が着用された。女性はぴったりした足首丈のチュニックが一般であった。前1000年紀のアッシリア時代になると、男性は基本的には、ぴったりしたチュニックにフリンジ付きのショールを着るか、もしくはショール状の巻衣を着た。女性は、王妃の一例だけであるが、それによると彼女は綿密な刺しゅうを施したフリンジ付きの螺旋状巻衣を着、鉢巻形の重厚な冠と腕輪と耳飾りをつけている。
古代ギリシアの服装の特性は、総じて簡潔でしかも自然な垂れひだの美しさにあったといえる。しかし、それに先だつクレタ、ミケーネの服装には、一部まったく対立的で近代的外形の婦人の姿も見受けられ、これはむしろ異質で例外的といえる。初期にはウール地の単純な円筒状に身体を包むペプロスpeplosが着られた。この服は質実剛健の気風を重んじたスパルタのドーリア(ドーリス)人に踏襲されたところからドーリア(ドーリス)式キトンDoric chitonの別名がある。キトンとは元来身体に直接まとう衣服で、英語のチュニックにあたる。古典期になると、アテネを中心とするイオニア人は、東方より輸入した薄地リネンの優雅な服をまとうようになる。これをイオニア式キトンIonic chitonとよんでいる。彼らはキトンの上にヒマティオンhimationという外衣をまとい、兵士や若者はもっと短く粗末なクラミュスchlamysという外套(がいとう)をまとった。ともあれ、ペプロスは人間の衣服のなかでもっとも簡潔で美しい衣服の一つに数えられる。
古代ローマの服装はおおむね古代ギリシアの踏襲ではあったものの、いっそう形式化し、かさばったものになった。男性はトゥニカtunicaの上にトーガtogaを着、女性はストラstolaの上にパルラpallaを着た。ストラはギリシアのキトンにあたり、パルラはギリシアのヒマティオンにあたる。初期のころは女性もトーガを着たが、共和政になってヘレニズムの影響を受けるとギリシア風に変わった。帝政時代になると、トゥニカはダルマティカdalmaticaという寛衣にかわり、やがて一般ではただそれだけが着られるようになる。こうしてダルマティカは中世服の基本的服型となって受け継がれていく。
[石山 彰]
寛衣から窄衣へ移る時代(中世)
古代ローマの後継者となった東ローマ帝国は、ビザンティオンを首都としてヘレニズム直系の高い教養と文化を身につけ、中世唯一の先進国となっていた。ビザンティン文化の特質はギリシア的優雅さに東方の華美さを加え、キリスト教精神を通じて宮廷中心に開花したところにある。この傾向は、服装上ではローマ的な巻衣形式と北方的二部形式、および東方的装飾のみごとな結合となって現れている。男性は膝(ひざ)丈のチュニックにホーズhoseをはき、パルダメントゥムpaludamentumとよぶマントを右肩にブローチで留めた。女性はくるぶし丈のチュニックを着、その上からローマと同じパルラかまたはパルダメントゥムを着た。チュニックの両肩と裾(すそ)には男女ともはめ込み模様や刺しゅうを施し、上層の男性のパルダメントゥムの胸元には方形の装飾が、また上層女性のパルダメントゥムの肩と裾にはきらびやかな刺しゅうの飾りが施された。
ビザンティンも含めて全体としてみると、中世は強力な東方文化との接触のなかで、キリスト教と古典文化を受け継いで大きく成長していく時期であり、近代に至るヨーロッパ文化の土台を形成する時期であった。とりわけ11、12世紀のロマネスク時代は、キリスト教精神が全ヨーロッパの時代精神として、あらゆる文化のうえに反映し、特異な芸術様式を展開した。その特徴は水平線を強調した重厚な壁体とアーチ型丸屋根構造のロマネスク建築に象徴的に現れている。そしてこの特性はまた服装でも、全身を緩やかに覆い包む寛衣の形式に類型的に現れている。代表的な衣服は男女ともカートル(kirtle、シェーンズchainse)という麻製の下着にブリオー(bliaut, bliaud)という表着で、この上にサーコート(surcoat、シュルコsurcot)とよぶ袖なしの上っ張り、もしくはマントを着た。マントを除けばいずれも緩やかなワンピースで、男性は膝丈、女性は床丈で、ベールや顎(あご)覆いをつけた。ブリオーはやがてコト(cote、コットcotte)という名称にかわり、女性は背側で胴部を紐(ひも)締めにしてしだいに身体に沿う外形になり、一方、男性は腰丈のブリオーにホーズの形式が一般になる。
こうした人間の枠の大きさを越えることのなかった袋のような寛衣も、13世紀から15世紀にかけてのゴシック時代になると、限界を越えた垂直線の強調と、輝くばかりの色彩や装飾を伴った大胆なものに一変する。尖頭(せんとう)アーチと肋骨穹窿(きゅうりゅう)(リブ・ボールト)構造のゴシック建築において、この特徴は象徴的に示されている。十字軍以来の商工業の発達や都市の勃興(ぼっこう)が、かつての封建性から解放して人々に新生活の気運をみなぎらせたからである。初期には引き続いてサーコートが用いられたが、14世紀になるとコトハーディ(cote-hardie、コタルディcotardi)とフープランド(houppeland、ウプランドhouppelande)が現れる。コトハーディとは奇抜な表衣の意で、男女とも上体にぴったりあわせて仕立ててある。男性のコトハーディは腰丈でローウエストであるが、これはやがてダブレット(doublet、プールポアンpourpoint)へと発展する。脚部にはタイツ状のホーズをはき、その結果として上部で過重の外形になった。一方、女性のコトハーディは胴部がタイトなのに対して脚部は極端に緩く、しかも引き裾に仕立てられている。襟ぐりは低くV字形で胸当てがつき、ハイウエストを特徴としている。女性はヘンニン(hennin、エナンhennin, hénin)とよぶ丈高いとんがり帽をかぶり、男女ともクラコー(crakow、プーレーヌpoulaine)というとんがり靴を履いた姿はまさしくゴシック建築との類型を示している。14世紀も後半になると、女性はその上に、両脇(わき)を窓状にくりぬいた形の重ね着サイドレスサーコート(sideless surcoat、シュールコトゥベールsurcot ouvert)を着用した。これに対するフープランドはハイネック、ローウエストのガウン形式で、広袖の縁にはダギング(dagging、フェストネfestonné)という独特の切り込み装飾が施され、シャプロンchaperonという頭巾(ずきん)がかぶられた。
[石山 彰]
窄衣の発展時代(近世)
ゴシック時代に確立した窄衣の形式は、その後の西洋服飾を特徴づけた。そればかりか、基本的にはそれが現代にまで及んでいる。というのも、体形にあわせて仕立てることへの人々の欲求とその技術の発見は、衣服の時代趣好や流行変化に即応した多様な外形変化を可能にしたからである。近世の服飾は、他の芸術と同様次の三つの様式期に区分される。(1)は15、16世紀のルネサンス、(2)は17世紀のバロック、(3)は18世紀のロココである。そして、この三つの様式の間には次のような特徴の推移がみられる。すなわち、ルネサンスの服飾は部分と部分の結合によって変化に富んだ明確な外形線を描き、それだけに銅像のような硬さと、静的な重厚さが特徴になっている。これに対するバロックの服飾は部分と部分の境目がはっきりせず、力強く流動的に連続する。ロココの服飾はいっそう弱々しく女性的で繊細優美なのが特色である。
(1)ルネサンスの服飾(15~17世紀初頭) 十字軍遠征の拠点となった北イタリアには都市が興り、商工業や経済の発達につれて都市貴族が生まれ、思想や生活文化の面にも新しい動きが現れてくる。フィレンツェ、ベネチア、ミラノなどはその中心であった。とりわけフィレンツェは13世紀ごろから毛織物工業で栄え、14世紀には金融業の一大中心地となってルネサンス運動の力強い母体となった。ルネサンスとは元来、再生または復活つまり英語のリバイバルにあたるフランス語で、中世にとだえていた人間性の復活を意味した。この運動はやがてアルプスを越えてヨーロッパ全土に広まっていく。織物工業が経済発展の基盤となったイタリアでは、服飾への関心も強く、優れた芸術家が参画してデザインを豊かなものにした。教会の束縛から解放された彼らは豊かな市民の要求に応じて現実生活に奉仕し、人間の姿を生々しく衣服の表面にうたい上げた。このためダマスク(紋織緞子(どんす))やベルベットなど華麗な厚地の布地を身体に適合するよう部分ごとに裁断し、技巧的に縫合して後代の衣服形成に転機を開くことになった。初期にはイタリア風が流行した。男性はシャツの上にぴったりしたダブレットを着、ホーズをはき、上層ではその上に襟付きのコートやガウンを着た。女性はタイトな袖、ぴったりした胴、豊かにひだづけしたスカートのワンピースを着用した。男女とも紐(ひも)締めなどの手法によって緊密にしたり連結したりした点が特徴である。
続く16世紀前半には、新時代の自由な風潮に伴って切り目装飾(スラッシュslash、クルベcrevé)や寄せ切れ装飾(ペインpane)あるいは膨らみ(パフpuff、プフpouf)などの技法を生かした幻想的な衣服が流行した。この流行はブルゴーニュと戦ったスイスの傭兵(ようへい)間におこり、ドイツを中心に広まったところから、一般にはランツクネヒトLandsknecht(ドイツ語で傭兵の意)スタイルとよばれている。男性服はダブレットとホーズが中心であったが、腰部にはさらにトランクホーズ(trunk hoses、オードショースhaut-de-chausses)が加わり、シャウベSchaube(英語のガウンにあたるドイツ語)という長上着を重ねることもあった。襟元からはシャツをのぞかせ、やがてそれがルネサンス期特有のひだ襟(ラフruff、フレーズfraise)へと発展していく。女性服も初期にはイタリアに倣って襟ぐりも低く袖も広かったが、やがて男性服の装飾技法を部分的に取り入れ、袖や胴部の変化が豊かになってくる。
16世紀後半から17世紀初期にかけては、ドイツ風にかわってスペイン風が流行する。衣服は詰め物によって誇張されたところからボンバスト・スタイルbombast style(詰め物様式)ともよばれた。とりわけ女性服は胴部を細めて、スカートはファーズィンゲール(farthingale、ベルチュガダンvertugadin)という腰枠で広げられた。ファーズィンゲールには初期の釣鐘(つりがね)形をしたスペイン型と末期の車輪形、したがってスカートそのものは太鼓形になるフランス型がある。男性の胴衣は短くなって袖付けにはウイングズ(wings、エポレットépaulette)がつき、トランクホーズも膨らんでくると、ウエストも細まってきて男女ともラフは車輪形や扇形に変わる。
(2)バロック時代の服飾(17世紀初頭~18世紀初頭) バロックとは元来、ゆがんだ真珠を意味するポルトガル語で「奇怪な」とか「異様な」の意の形容詞でもあった。変化の世紀といわれる17世紀は政治・経済・宗教などすべての面でヨーロッパが大きく揺れ動く時期であり、だからこそ流動的で力強い様式が生まれたともいえる。前世紀の新大陸発見以来繁栄を続けたスペインは、その後の植民地政策の失敗から衰え始め、それに乗じてオランダがスペイン支配から独立する。一方、イギリスもまた盛期を迎えていた。東洋貿易で勝利を収めたオランダは、もともと毛織物工業で栄え、17世紀前半の服飾に主導的役割を果たした。スペイン風時代は分節のある服装を特色としたが、この時代になると反動的にぼってりした外形になり、重ね着やひだが目だつようになる一方、色数の少ない暗色調の衣服が中心になってレースの襟やカフスが効果的に使用されてくる。腹部に膨らみをもたせた樽(たる)形のなだらかなシルエットは、この期の男女に共通した特徴で、オランダ民族服にはいまもその特徴が残っている。他方、この時代は「伊達者(だてしゃ)時代」ともいわれるように、男性の間に中世の騎士にみられたような伊達風が流行するのは、三十年戦争(1618~1648)の影響によるものであろう。男性はなだらかなハイウエストの上着に緩やかな半ズボン(ブリッチズbreeches、キュロットculotte)とバケツ形のブーツを履き、女性もハイウエストのなだらかなシルエットにかわってコルセットやファーズィンゲールはみられなくなり、スカートの重ね着やひだが目だってくる。
17世紀も後半以後になると、前世紀以来着々と基礎を築きつつあったフランスのブルボン王朝は、ルイ14世の強力な絶対主義の確立とともに勢力を増し、ついに三十年戦争を境にヨーロッパ全土に君臨するようになる。こうした躍動的な情勢のなかでヨーロッパの勢力地図は新しい色に塗り変えられ、ほぼ今日的態勢が調うことになる。太陽王ルイ14世は重商政策をとるとともに芸術文化に対する保護奨励を行ったから、産業や手工芸が発達し、やがてパリ・モードはヨーロッパでの支配力を確立するようになる。この期の最大の変化は男性服にみられる。1650年代から1660年代にかけて流行したラングラーブ(rhingrave、ペティコート・ブリッチズpetticoat breeches)がそれで、ドイツのライン伯爵Rhein Grafによってパリにもたらされたことからこの名がある。一種のディバイデッドスカートで、裾からシャツがはみ出るような短い上着といっしょにはかれ、腰と両脇(わき)はたくさんのリボンの束で飾られる一方、重々しいかつらがかぶられ、帽子はダチョウの羽で飾られた。こうした度外れの衣装も、1660年代から1670年代にかけてはキャソック(cassock、カザクcasaque)とよばれる軍服から導入した膝丈の緩やかな長上着にかわり、さらに1680年代になると身体にぴったりしていて裾に向かうにつれて緩くカーブしたジュストコールjustaucorpsにかわってくる。この服型はベストveste、ウエストコートwaistcoatとキュロットを伴いながら、その後19世紀なかばまでの男性服の基本となった。ネクタイの祖型であるクラバット(cravate, cravat)の登場も、これと時を同じくしていた。このようにバロック時代の特徴は男性服において著しく、女性服での際だった変化はみられなかったが、それでもオーバースカートをヒップにたくし上げ、長く引き裾にし、そのうえ17世紀末にはフォンタンジュfontangeという独特の頭飾りによってすらりとした外形を強調した点では、男性の場合と基本的に一致している。スカートは段々のひだ飾りや切り抜き装飾によって強調された。
(3)ロココ時代の服飾(18世紀初頭~末) 心地よい響きのロココという呼称は、当時用いられた曲線豊かな装飾用の庭石を意味するロカイユに由来しており、威厳・豪華をうたい上げたバロックという重々しい語感とは対照的である。ベルサイユを中心とするフランス宮廷文化の華やかさはルイ15世において頂点に達し、軽快優美で繊細な雰囲気を漂わせている。この傾向は続くルイ16世の時代にも踏襲されるが、ようやく倦怠(けんたい)の時期を迎え、様式的にも移行期に差しかかる。建築上もさることながら、ロココ様式の特性はむしろ家具や室内装飾、工芸などの小芸術の分野において発揮されるが、その発展過程は通例次の3期に区分される。A摂政(せっしょう)期、B全盛期、C終末期である。
A 摂政期(1715~1723、ルイ15世の幼少期) この時代はバロック様式からロココ様式への過渡期であるとともにロココの黎明(れいめい)期であり、バロック以上に洗練された優雅さが求められてくる。男性は基本的に前代の服型を踏襲したが、はるかに軽快で自由なものになり、サテンが多用されるなど、材質も柔軟で甘い色調のものに変化した。この傾向は女性の服装においていっそうはっきりしている。すなわち、これまではその服で人前に出ることのなかったネグリジェnégligé, negligee(部屋着・寝間着)が昼の服として登場し、やがてそれが流行の主流にのし上がる。ワトーのひだつき服(robe plissée à Watteau, Watteau pleats gown)、アドリエンヌadrieneがそれで、これらはやがてローブ・ボラントrobe volante(ひらひらした固定しない服の意)と名をかえて定着し、さらに、かつてのファーズィンゲールがパニエpaniers、フープhoopsの名でふたたび登場するようになる。
B 全盛期(1723~1774、ルイ15世の親政期) 男性のジュストコールは絹製の淡い色調で、裾は馬毛やゴムびき布を芯(しん)にして波状にひだづけされ、いっそう優美な外形を示すようになる。こうして前開きのままで着られるようになると、ベストの役割はますます重要になり、みごとな刺しゅうを施したり、ジャボをつけたりした。キュロットとともに、これら一揃(そろ)いの服はアビ・ア・ラ・フランセーズhabit à la françaiseとよばれ、18世紀の間着用された。相変わらず入念なかつらが用いられ、トリコルヌtricorneという波状曲線の三角帽が男性にかぶられた。女性服もこの期ほど洗練された美しさを発揮した時代はまれである。中心となったのはローブ・ボラントから発展したローブ・ア・ラ・フランセーズrobe à la françaiseで、胸元を大きく開け、胴をコルセットで細めて、スカートは逆に横広がりのパニエで強調し、前面をΛ形に開いて優美さを保っている。かつらはこぢんまりしているが白い髪粉で和らげられた。こうしてこの期のシックさと社交儀礼は以後西洋の手本として継承される。
C 終末期(1774~1789、ルイ16世の時代) 男性は引き続きアビを着用したが、やがて燕尾服(えんびふく)型のフラックfracが現れる。これには折り返しの襟がつき、それがしだいに高く持ち上がってくる。この服型はすでに1770年代に登場するが、当時は相変わらず絹製で、プリント地が縞(しま)の布地にかわった程度であった。かつらは美しくカールされ、波状曲線の三角帽は脇に挟んだり、手に持ち歩くことが多くなった。しかし1780年代に入ると、イギリス仕立てのウール製が多くなり、シルクハットがかぶられるようになる。こうして、じみでじょうぶな仕立てのイギリス風は、その後の男性服の定型となり、メンズモードにおけるイギリスの主導権が確立する。一方、女性服ははるかに多彩な展開をみせ、とりわけそれは略装に著しい。ローブには、ローブ・ア・ラ・ポロネーズrobe à la polonaise、ローブ・ア・ラングレーズrobe à l'anglaise、カラコ・ローブcaraco robeなどの各種が現れてスカートの長さも短くなるが、かわって髪型が途方もなく高く膨らんで、それが流行変化のポイントになってくる。一種異常ともみえるこの髪型の変化は、そのまま享楽の感情のほとばしりに終わりのなかった王朝貴族階級の心情の現れといえよう。これに対するスカートの短縮は、行きすぎた貴族のおごりに嫌悪を抱く市民階級の心情と、それをはぐくんだルソーの啓蒙(けいもう)思想や新古典主義の反映とみられよう。この期の服飾には明らかに両者の葛藤(かっとう)と矛盾をはらんだ、当時の人々のとまどいがみられ、やがてそこからイギリスの自然主義的方向に結論をみいだしていく。パニエは消えうせ、衣装はしなやかになって頭髪も単なるカールにかわる。こうして1780年代には、ヒップで膨らんだバスルbustleスカートやルダンゴトredingoteというイギリス風の丈長の外套(がいとう)が女性の間にまで普及するようになる。こうしてルイ16世の時代はフランス革命とともに終わりを告げる。
[石山 彰]
流行の世紀(近代)
フランス革命によって華やかな宮廷文化は終わりを告げ、自由・平等・博愛に象徴される市民の時代が開けてくる。一方、18世紀なかばに始まるイギリスの産業革命は、工業的生産によって資本主義を助長し、社会構造上にも大きな変革をもたらす。こうして近代は二大革命を基点に新しい展開をみせる。流行の主権はもはや、一握りの王侯貴族の手から、広く市民階層へと移り、いやがうえにも人々をその渦中に巻き込んだ。こうして19世紀は「流行の世紀」であるとともに「様式模倣の世紀」だともいわれている。とりわけ女性服では、西欧世界がこれまで体験した服装の主様式がほとんど網羅的に、しかもみごとな周期を描いて登場するからである。これに対する男性の服装は、18世紀後半に導入されたイギリス風の簡素で実用的な服型を基本に、はるかにじみな展開をみせる。初めてファッション・ブックが現れるのは1770年代であるが、普及をみるのは19世紀もなかばであり、ミシンの発明や化学染料の発見もこのころである。
こうして近代は次の5期に区分できる。つまり(1)新古典主義時代、(2)ロマン主義時代、(3)クリノリン時代、(4)バスル時代、(5)S字外形時代である。
(1)新古典主義時代(1792~1815) 芸術一般がそうであったように、フランス革命が終わると、うって変わって簡潔な服装になり、女性服はひたすら古代ギリシア・ローマ風を追求する。このことからこの期を新古典主義(ネオクラシシズム)とよんでいるが、これにはフランスの二つの時期が含まれる。総裁政府時代と帝政時代である。
A 総裁政府(ディレクトワール)時代(1792~1799) 革命期に比べると、男性服には基本的な変化はみられないが、襟は高くラペルは法外に大きくなり、首には幅広いクラバットがあごを覆うように巻き付けられた。キュロットは鹿(しか)の脚のようにタイトで、軽快な躍動美が好まれ、二角帽(ビコルヌbicorne)がかぶられた。これに対する女性服は、初め革命直前のイギリス風シュミーズがフィシュfichu(薄地の三角ショール)とともに着られたが、やがて白地薄物のローン、リネン、モスリンなどによるほっそりしたハイウエストのワンピースが、ショールやギリシア風サンダルとともに着用された。革命の反動から若者のなかには常軌を逸した風変わりな着衣によって人目をひくものも現れたが、そうした男性はアンクロワィヤブルincroyable(途方もない人の意)、女性はメルベイユーズmerveilleuse(風変わりの意)とよばれている。
B 帝政(アンピール)時代(1799~1815) ここでは統領時代の5年間を含むナポレオン1世の時代をいう。男性は細身に仕立てた羅紗(らしゃ)地のテール型上着にウエスト丈のジレgilet(短いチョッキ)を着、そしてなによりもパンタロンpantalons(長ズボン)を細身に着用するようになる。円筒形のシルクハットがかぶられるようになるのも、ほとんどそれと同時であった。こうした細身の洗練された男性服は、いわゆるダンディで知られる当時のイギリスのボー・ブランメルによって代表される。また、かつて長ズボンはフランス革命中の貧困市民層によってだけはかれ、これらの人々はサン・キュロットsans-culotteとよばれたことは周知である。女性服では薄物の衣装が廃れて、サテンやビロードなどに置き換わり、形は相変わらずハイウエストの円筒形を保っていたものの、小さなパフ袖(そで)や膨らみを何段にも仕切ったマムルークmameluke袖が流行し、裾には何段もの水平装飾がみられた。それらの上にはスペンサーspencerとよぶ丈の短い上着やカヌズーcanezouという一種の肩衣やショールが着られた。こうしてこの期の女性服は、洗練された簡潔さと装飾性をあわせもった、独自の様式を保っている。
(2)ロマン主義時代(1820~1840) 革命と第一帝政時代を経てふたたびルイ18世の王政復古を迎え、平静のときがよみがえると、人々は世の中の喧噪(けんそう)や堅苦しい知性から遠ざかって、かつてのみやびな風潮を追憶するようになる。つまり、帝政時代の古典的堅苦しさから、感性的で個性的な表現を好むようになる。新(ネオ)ロココ様式という別名もここからおこった。女性服のウエストラインは自然の位置に戻る一方、ふたたび細まってX字形を追うようになる。1825年を過ぎると肩を覆うまでの幅広い襟がつき、なで肩になり、ジゴ袖manche à gigot(羊の脚形の袖)が流行する。1830年代になるとこの特徴はいっそう誇張的になり、肘(ひじ)の部分で巨大に膨らんだいわゆる「象の袖」からやがてビショプ袖となるが、1840年代に入って大きな砂時計形のスカートになると同時に袖の重みは一斉に消えて軽快になる。男性は前期の服型を踏襲するものの、フラックの襟は高くなで肩で、ウエストも細まってくる点では女性服と歩調をともにしている。
(3)クリノリン時代(1840~1870) フランスでは1848年に第二共和政となり、1852年には第二帝政を迎えてナポレオン3世が帝位につく。イギリスはとみれば、すでに1837年にビクトリア女王が即位し、1851年にはロンドン万国博覧会が開かれている。諸科学が進歩し、交通通信が発達して文明が世界性を帯びてくると、産業ブルジョアや資本家中心の社交界や流行界が華麗な花を開かせる。オートクチュールが現れ、ファッション・ブックやミシンもしだいに普及する。女性服は史上3番目の腰枠(フレーム)、クリノリンcrinoline時代を迎える。クリノリンとはもともと麻と馬毛の混織布の意で、初期にはこれでできた何段ものフリルのペティコートを幾枚も重ねることでスカートを膨らませたが、1850年代、1860年代と進むにつれてスカートがドーム形からやがてはピラミッド形に拡大すると、支えきれなくなってケージ・クリノリンcage crinolineという籠(かご)形の人工クリノリンになった。その最大時の直径は優に身長に等しく、材料には籐(とう)、針金、ぜんまいなどが使われた。外形は相変わらずロマンを追いながら、実際には科学的方法がとられたのである。男性服にも変化があった。シルクハットは山高帽にかわり、背広の祖型が生まれ、三つ揃い(スーツ)の概念が定着する。
(4)バスル時代(1870~1890) 「古きよき時代(ベル・エポック)」の名のとおり、1870年代から20世紀初めまでのヨーロッパは、比較的安定した平和な時期であったが、その前半にあたる19世紀末は、新たな工業革命とともに政治・経済のみならず社会構造にも変化をもたらした。繁栄する富裕市民層と労働者階級という二つの層を反映するかのように、手工業と大量生産、オートクチュールと既製服、そうした対立と混乱のなかに現れてくるのが、この期の多様な様式の混合である。婦人服では無地と縞、色相や明暗の対立、異なった質感の組合せなど、布地をはぎ合わせる手法のなかに認められる。バスルまたはトゥールニュールtournureとよばれるヒップにたくし上げた独特の外形もその一つの現れで、17世紀以来3度目の世紀末における不思議な類型である。1875年から1882年までの一時期、バスルは抑制されて鞘(さや)形になるが、総じてこの期に定着するテーラード・スーツにおいてもこのシルエットは堅持された。男性服ではモーニングコートが定着し、ノーフォーク・ジャケットなどのスポーツ服や麦藁(むぎわら)帽の普及など、用途に応じた多様化が注目される。
(5)S字外形時代(1890~1910) 1890年代に入るとバスルは姿を消し、流麗な曲線を主体としたS字外形のシルエットにかわる。胸の膨らみを強調する反面、背側はタイトにし、下体部では逆にスカートの前面をタイトにしてヒップをなだらかにカーブさせることにより、上下と前後でのバランスはいっそう緊密化されてくる。この期の様式は一般にはアール・ヌーボー、アメリカではギブスン・ガールGibson girlとして知られている。あらゆる造形において装飾そのものが機能の象徴となった点でユニークであり、ブラウスにスカートという二部形式の登場もこのころからである。1895年ころの一時期は、1830年代にみられた巨大な袖の復活があったが、世紀末にはふたたび流麗なS字外形に戻り、1910年まで続いた。男性服では基本的変革はみられないが、用途上の種別がいっそうはっきりして、燕尾(えんび)服、タキシード、モーニング、背広など着用時のしきたりに応じて分化してくる。
[石山 彰]
20世紀の服飾(現代)
20世紀初めの女性服は19世紀末様式の延長であったが、1910年になると直線的な円筒状の外形に変化する。画期的なホッブルスカートhobble skirtであり、これまでとは正反対に、胸部をコルセットから解放するかわりに、スカートを足首で細めて極度に鐔(つば)の広い帽子をかぶる逆三角のシルエットで、オートクチュールの鬼才ポール・ポワレの創案であった。第一次世界大戦中のスカートはゆったりとして広く、丈もいくぶん短く、緩やかな傾向は維持された。大戦は服装上に大きな変革をもたらした。女性服での典型は1920年代の後半にみられるローウエストで、膝丈スカートの単純な円筒形のドレスで、しばしばギャルソンヌgarçonneとかスクール・ボーイとよばれ、シャネルの全盛期にあたる。明らかに20世紀独特の機能主義の反映であり、総じてアール・デコ様式として知られている。若さを強調したこの革新的なモードも、1929年の経済大恐慌を境に1930年代に入るとタイトで極端に細長い自然なシルエットにかわり、好例はバイアスカットの名手ビオネの作品にみることができる。しかし、同後半から第二次大戦直後までは怒り肩のX字形とボックス形が支配的になる。これはこの期の国際間の不安と緊張の現れともみられよう。
第二次世界大戦後の新傾向は、1947年のディオールのニュー・ルックに始まる。彼はすさんだ人々の心を、女性的でロマンチックなシルエットによって解きほぐそうと試みた。一躍彼はモードの神様として浮上し、以後10年間にわたって世界の流行を手中にした。1950年代なかばのHラインやAラインはとくに知られている。スラックスが女性服に定着し始めるのもこのころからである。1950年代末から1960年代なかばまでは比較的単純な外形が支配し、色柄の面に特徴がみられた。しかし、1960年代も後半になると、画期的なミニスカートが登場して様相は一変した。1970年代に入ってからの流行は多極化し、マイクロミニ、ミニ、ミディ、ミモレ、マキシなど、一連のスカート丈の変化に加えて、ジーンズやパンタロンなどのズボン形式が、Tシャツとともにカジュアル服として定着する。1970年代もなかばになると、民族調の流行がエスニック・ファッションとして注目を浴び、まもなくだぶだぶのビッグ・ルックがそれに続く。こうして服装は人々の単なるファッションの域を脱して生き方の主張となりつつある。これに対する男性の服装には根本的変革はみられないものの、1960年代以降の長髪姿にパンタロン、色物シャツの普及やカジュアル化現象などは、服装における性差の接近とともに、第二次世界大戦後の一大特色といえよう。
[石山 彰]
『石山彰編『服飾辞典』(1972・ダヴィッド社)』▽『文化出版局編・刊『服装大百科事典』(1990)』▽『ラシネ・アルベール著、国際服飾学会訳編『世界服飾文化史図鑑』(1991)』▽『田中千代編『新服飾事典』(1998・同文書院)』▽『C. Willett & Phillis CunningtonA Dictionary of English Costume(1960, A. & C. Black, London)』▽『Maurice LeloirDictionnaire du Costume(1961, Gründ, Paris)』▽『R. Turner WilcoxThe Dictionary of Costume(1969, Scribner, New York)』▽『Yarwood DreenThe Encyclopaedia of World Costume (1978, Batsford, London)』▽『セッセ著、日向あき子訳『服飾の歴史』(1964・美術出版社)』▽『コンティニ著、伊藤永子訳『ファッション』(1971・講談社)』▽『ハンセン著、原口理恵・近藤等訳『服装の歴史』(1972・文化出版局)』▽『ブーシェ著、石山彰監修『西洋服装史』(1973・文化出版局)』▽『レイヴァー著、中川晃訳『西洋服装史』(1973・洋販出版)』▽『ブラック著、山内沙織訳『ファッションの歴史』上下(1977・パルコ出版)』▽『ウィルコックス著、石山彰訳『モードの歴史』(1979・文化出版局)』▽『ヤーウッド著、乾桂二訳『ヨーロピアンコスチューム』(1982・女性モード社)』▽『村上信彦著『服装の歴史』(1987・理論社)』▽『鷹司綸子『服装文化史』(1991・朝倉書店)』▽『深井晃子著『20世紀モードの軌跡』(1994・文化出版局)』▽『深井晃子監修・著『世界服飾史』(1998・美術出版社)』▽『Nevil TrumanHistoric Costuming(1966, Pitman, London)』
服装の基本型
朝服
束帯
直衣
指貫
狩衣
水干
直垂
大紋
素襖
唐衣
壺装束
裃
キトン(ドーリス式とイオニア式)
コートの歴史
コートのおもな種類(用途別分類)
ジャケットのおもな種類(固有名詞による…
スカートの歴史
『春日権現霊験記』にみる小袿
『春日権現霊験記』にみる衣袴
『春日権現霊験記』にみる被衣
『職人歌合画本』にみる小袖
『酒飯論』にみる肩衣と長袴
『職人歌合画本』にみる道服
尾形光琳筆『白綾地秋草模様小袖』