統計学者、経済学者。明治29年2月16日高知市に生まれる。1922年(大正11)東京帝国大学経済学部(第1回)卒業。同学部助手、助教授を経て1925年から3年間ドイツに留学、ベルリン景気研究所などに学び、ワイマール・ドイツに感銘。帰国後脇村義太郎(わきむらよしたろう)らと研究グループを組織し、世界恐慌下の政治・経済を分析した。一方、統計学の領域では大数法則の基礎を弁証法的に解明した。1938年(昭和13)教授グループ事件に連座、休職。敗戦後、東大に復帰し経済学部の再建にあたるかたわら、吉田茂の経済ブレーンとして、乏しい資材を石炭、鉄鋼に重点的に投入し、まず1947年に石炭3000万トンを出炭するという傾斜生産方式を立案した。再度にわたり経済安定本部長官就任を求められたが固辞。1956年定年退官後、法政大学教授、総長(1959~1962)を歴任するとともに、原子力委員会をはじめ各種委員会に参加して、経済政策の立案に協力、とくに戦後のエネルギー政策樹立に貢献した。1980年から日本学士院院長。学風は実証に徹し、政策論もまた実現可能性を重んじて着実重厚である。主要著書に『産業合理化』(1930)、『カルテル・トラスト・コンツェルン 上』(1931)、『日本工業統制論』(1937)、『インフレーションと社会化』(1948)、『ワイマール共和国物語』(私家版)などがあり、また1959~1960年刊行の『現代日本産業講座』(全8巻)を監修して産業論の方法を確立した。
[中村隆英]
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1896.2.16~1988.3.7
昭和期の経済学者。高知県出身。東大卒。1924年(大正13)東京帝国大学助教授。翌年ドイツ留学。帰国後は脇村義太郎・阿部勇らと研究会を組織し,世界経済の現状分析に着手。38年人民戦線事件で検挙され休職となったが,第2次大戦後東京大学に復帰。第1次吉田内閣時の傾斜生産方式の立案者として有名。退官後は法政大学総長,原子力委員会委員長などを歴任。著書「日本工業統制論」「インフレーションと社会化」。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
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