月岡芳年(読み)つきおかよしとし

精選版 日本国語大辞典 「月岡芳年」の意味・読み・例文・類語

つきおか‐よしとし【月岡芳年】

幕末明治浮世絵師。通称米次郎。月岡雪斎養子晩年は大蘇(たいそ)芳年と称す。江戸生まれ。はじめ歌川国芳浮世絵を学び、のち菊池容斎に私淑して歴史画を研究。晩年には時局版画を多く制作した。代表作「美勇水滸伝」「風俗三十二相」。天保一〇~明治二五年(一八三九‐九二

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デジタル大辞泉 「月岡芳年」の意味・読み・例文・類語

つきおか‐よしとし〔つきをか‐〕【月岡芳年】

[1839~1892]幕末から明治初期の浮世絵師。江戸の生まれ。本名、吉岡米次郎。号、玉桜楼一魁斎。のち大蘇たいそ芳年と称した。初め歌川国芳に師事。歴史画・美人画に異色の作品をのこしたほか新聞挿絵でも活躍

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「月岡芳年」の意味・わかりやすい解説

月岡芳年
つきおかよしとし
(1839―1892)

江戸末期から明治の浮世絵師。江戸に生まれ、本名は吉岡米次郎。別号には玉桜楼(ぎょくおうろう)、一魁斎(いっかいさい)、魁斎、咀華亭、子英、たいそ、大蘇(たいそ)などを用いた。1850年(嘉永3)12歳のとき歌川国芳(くによし)の門に入り、3年後に早くも処女作を発表。1866年(慶応2)に兄弟子の落合芳幾(よしいく)とともに描いた『英名二十八衆句』の残酷絵シリーズで一躍人気絵師となった。多様な画風をこなしたが、幕末から明治初年にかけては歴史画に傾注し、維新後は時事報道の分野に新生面をみいだし、『郵便報知新聞』『絵入自由新聞』『やまと新聞』などの新聞挿絵に活躍した。またこのころ100枚に及ぶ『月百姿(つきひゃくし)』をはじめ『風俗三十二相』などの美人画の大作も発表している。水野年方(としかた)など多くの門人にも恵まれた。1872年(明治5)ころに精神に障害をきたし、その後、快癒(かいゆ)することなく没した。

[永田生慈]

『瀬木慎一編『月岡芳年画集』(1978・講談社)』


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改訂新版 世界大百科事典 「月岡芳年」の意味・わかりやすい解説

月岡芳年 (つきおかよしとし)
生没年:1839-92(天保10-明治25)

幕末~明治初期の浮世絵師。本名吉岡金三郎,通称米次郎。月岡雪斎の養子となり,12歳で歌川国芳に入門,芳年と名のる。一魁斎,玉桜楼などとも号す。1866年(慶応2)同門の落合芳幾と合作で,残虐な血の絵《英名二十八衆句》を発表。強度の神経衰弱から快癒した73年以後,大蘇芳年を名のった。菊池容斎に歴史画を学び,さらに洋画法も摂取し,画風は多様に展開した。78年以降,《絵入自由新聞》などに投稿,新聞挿絵として浮世絵に新生面を開こうとした。
執筆者:

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百科事典マイペディア 「月岡芳年」の意味・わかりやすい解説

月岡芳年【つきおかよしとし】

幕末〜明治初期の浮世絵画家。本名吉岡金三郎。12歳の時歌川国芳に入門。1866年同門の落合芳幾との合作で残虐な情景を描いた《英名二十八衆句》を発表し,〈血みどろ絵師〉と呼ばれた。その後強度の神経衰弱に陥るが,1873年に快癒し大蘇芳年と名乗り,歴史画や《絵入自由新聞》などの挿絵を手がけた。
→関連項目歌川派水野年方

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「月岡芳年」の意味・わかりやすい解説

月岡芳年
つきおかよしとし

[生]天保10 (1839). 江戸
[没]1892.6.9. 東京,東京
幕末から明治前期の浮世絵師。本名は吉岡米次郎,号は一魁斎,大蘇など。月岡雪斎の養子となる。浮世絵師の歌川国芳や歴史画を描いた菊池容斎らに学び,さらに洋画の影響も受けた。新聞挿絵にも健筆をふるった。1873年以降,大蘇芳年を名のった。生涯神経衰弱に悩まされていたといわれる。主要作品に『月百姿』(1885~91),『風俗三十二相』(1888)などがある。落合芳幾との共作『英名二十八衆句』(1866)は「血みどろ絵」と呼ばれる残虐な表現で有名。(→浮世絵

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朝日日本歴史人物事典 「月岡芳年」の解説

月岡芳年

没年:明治25.6.9(1892)
生年:天保10.3.17(1839.4.30)
幕末明治期の浮世絵師。本姓吉岡,俗称米次郎。画号に玉桜,大蘇,魁斎などがある。住居は江戸の中橋,南金六町,本所藤代町など。歌川国芳に師事し,また葛飾北斎,菊池容斎にも私淑したと伝える。嘉永6(1853)年の錦絵初作を皮切りに,武者・役者・美人の錦絵を陸続と発表,また血みどろ絵と呼ばれる残酷な描写の錦絵も周辺絵師と競作した。明治以降は新聞錦絵や新聞・小説の挿絵なども盛んに描くかたわら,上下二枚続きなど新趣向の版画を上梓した。精神に異常をきたし,病没したと伝える。なお,門人からは近代美人画家の雄を多数輩出した。

(内藤正人)

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「月岡芳年」の解説

月岡芳年 つきおか-よしとし

1839-1892 幕末-明治時代の浮世絵師。
天保(てんぽう)10年3月17日生まれ。月岡雪斎の名跡をつぐ。歌川国芳に師事し,のち菊池容斎に私淑。慶応2年落合芳幾(よしいく)と合作した「英名二十八衆句」の残酷絵で有名になる。画風は多彩で,維新後は新聞挿絵などで活躍。弟子に水野年方(としかた)ら。明治25年6月9日死去。54歳。江戸出身。本姓は吉岡。通称は米次郎。別号に一魁斎(いっかいさい),大蘇(たいそ)など。

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367日誕生日大事典 「月岡芳年」の解説

月岡芳年 (つきおかよしとし)

生年月日:1839年3月17日
江戸時代末期;明治時代の浮世絵師
1892年没

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世界大百科事典(旧版)内の月岡芳年の言及

【イラストレーション】より

…明治に入ると草双紙の雰囲気と性格は,1875年歌川国芳門下の落合芳幾(よしいく)(1833?‐1904)が描く《平仮名絵入新聞》に始まる,庶民向けの絵入り新聞に受け継がれた。芳幾はじめ《団々珍聞》の小林清親,《郵便報知新聞》の月岡芳年らは浮世絵師の流れをくみ,これら絵入り新聞は草双紙と同じく,絵が主,文が従の趣があった。 1885年に硯友社がおこり,続いて活版印刷による雑誌類が広まるにつれ,挿絵画家としては井上探景(安治),歌川国松らの浮世絵師のほかに,菊池容斎の《前賢故実》の影響をうけた渡辺省亭,三島蕉窓,武内桂舟,尾形月耕らが出た。…

【浮世絵】より

…国貞,国芳,広重らの弟子(貞秀,芳員,2代広重ら)は,1859年(安政6)に開港の新都市横浜に西洋風の文物,風俗を取材して,〈横浜絵〉と称する一ジャンルを開拓,新奇な題材とともに洋風表現や鮮やかな西洋絵具を多用するなどして,錦絵の面目を一新させた。また最幕末には,混乱した世相と荒廃した人心を反映するような月岡芳年らの〈血みどろ絵〉も出現,浮世絵自体の末期的現象を露呈してみせた。
【後世への影響】
 浮世絵は江戸特産の民俗的な絵画,いわゆる民画であり,大津追分の肉筆の戯画〈大津絵〉や,長崎の異国風俗を扱った版画〈長崎絵〉,大坂や京都の役者絵を主体とした版画〈上方絵〉などと同類のものに違いない。…

※「月岡芳年」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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