最上義俊(読み)もがみ・よしとし

朝日日本歴史人物事典 「最上義俊」の解説

最上義俊

没年:寛永8.11.22(1632.1.13)
生年:慶長11(1606)
江戸初期の山形藩最上氏3代目,改易のため最上氏最後の大名となる。2代家親の子。幼名家信,源五郎,のち義俊と改める。父家親は襲封して間もない元和3(1617)年2月6日(一説に3月6日)変死したため,義俊は12歳の若年で57万石の大名となった。家親の変死には,毒殺説,暗殺説などの諸説があり,その背景に重臣の大名家督をめぐる厳しい抗争があった。義俊襲封ののちもその争いは続き,若い義俊も酒を好み,宴楽にふけるのみであったため,国政不取り締まりを理由に,8年改易となり,近江・三河1万石に封ぜられた。

(横山昭男)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「最上義俊」の解説

最上義俊 もがみ-よしとし

1606-1632* 江戸時代前期の大名。
慶長11年生まれ。最上家親(いえちか)の子。元和(げんな)3年12歳で出羽(でわ)山形藩主最上家3代となる。8年藩政の乱れを理由に領地を没収され,近江(おうみ)(滋賀県)にうつされて大森藩主最上家初代となった。1万石。寛永8年11月22日死去。26歳。初名は家信。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

世界大百科事典(旧版)内の最上義俊の言及

【最上氏】より

…室町~江戸時代の武家。足利一門斯波家兼の次男兼頼は,1354年(正平9∥文和3)家兼が若狭守護から奥州管領(奥州探題)に転じたのに従って陸奥に移り,56年(正平11∥延文1)に出羽国山形に入部したと伝える。その後,出羽斯波氏は最上氏を称し,歴代羽州探題に任じて戦国期に至った。2代直家は諸子を天童,黒川,高楡(たかだま),蟹沢,泉出(成沢)に配置し,3代満直も次男以下を中野,大窪,楯岡に配して,山形周辺の地域に勢力を扶植した。…

※「最上義俊」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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