曾我派(読み)そがは

精選版 日本国語大辞典 「曾我派」の意味・読み・例文・類語

そが‐は【曾我派】

〘名〙 水墨画一派室町末期、越前国福井県)浅倉家の臣、曾我蛇足の始めたものといわれるが、詳細は全く不明。なお桃山時代に至り、曾我直庵が、蛇足遠祖と仰いで創始した画派をさす場合もある。

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改訂新版 世界大百科事典 「曾我派」の意味・わかりやすい解説

曾我派 (そがは)

中世から近世の漢画派。室町時代桃山~江戸初期,および江戸中期の三つの画派もしくは画人があり,その間の系図上のつながりは不明である。

(1)室町時代の曾我派 伝承では来日李朝画家の李秀文を祖とし,兵部墨渓(ひようぶぼつけい)をその子として画系の初めとする。以後,代々曾我姓を称する越前朝倉氏家臣墨渓以降,代々参禅して法名を持ち,特に一休禅師の禅風を受け,その肖像や関係寺院の画作に腕をふるった。墨渓の画技の師は周文で,子の夫泉宗丈(曾我蛇足(じやそく))とともに,周文流の山水画の世界をより簡素・枯淡化し,余白の多い蕭条とした水墨山水画を形成した。宗丈の子の紹仙以降はそれ以前の疎散な筆致を粗略にし,または彩色の花鳥人物に画技の中心を移すなど,桃山時代の画風に順応しようとするところもあり,宗誉は1562年(永禄5)ころまで生存が確認される。1573年(天正1)朝倉氏滅亡とともに,曾我一族も離散し,一説では金森氏に従って飛驒高山にのがれ,また京都や堺へ移ったというが消息不明である。おもな作例は,墨渓筆《一休和尚像》(少林寺ほか),《達磨像》,宗丈筆《山水花鳥図襖》(大徳寺真珠庵),紹仙筆《山水図》(根津美術館),宗誉筆《花鳥人物図》(真珠庵),《花鳥図》など。

(2)桃山~江戸初期の曾我派 曾我直庵とその子の二直庵の画系をいうが,室町の曾我派との関連は不明である。ただし水墨の覇気には共通性もある。画風は雄大で,山水花鳥の大作を残し,狩野,長谷川,海北,雲谷の各派と並び称される。

(3)江戸中期の曾我蕭白とその一派 画風的に直庵,あるいは特に二直庵の誇張をまねるところがあり,蕭白は自ら蛇足10世を称したが,今のところ文献的には以上の曾我派との直接的な関連はない。
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百科事典マイペディア 「曾我派」の意味・わかりやすい解説

曾我派【そがは】

曾我直庵の子孫,門人で形成される桃山時代の画派。同時代の各派と並び,大画面障屏(しょうへい)画を手がけた。子の二直庵,孫の三直庵らは武家好みの鷹図を得意とした。なお,室町時代に越前の朝倉氏や大徳寺の真珠庵と関係が深く,真珠庵に多くの水墨画を残す曾我氏を名乗る画系があるが,曾我派との関係は確認できない。
→関連項目曾我蛇足

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「曾我派」の意味・わかりやすい解説

曾我派
そがは

室町・安土桃山時代の画派。伝説的画家曾我蛇足に代表される室町時代の水墨画派と,それを継ぐと称した桃山時代の曾我直庵,二直庵の系譜はともに曾我派と呼ばれるが,両者の関係には疑問がある。前者は大徳寺の一休宗純と真珠庵周辺に集った画家たちで,兵部墨渓,夫泉宗丈,紹仙,宗誉らの名が知られ,越前朝倉氏と関係が深い。後者は朝倉氏滅亡後の時代にあたるが,江戸時代初期まで堺を中心に活躍。なお江戸時代に曾我蕭白がいてやはり蛇足の後裔と称したが,直接の関係はない。

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