(読み)しょ

精選版 日本国語大辞典 「書」の意味・読み・例文・類語

しょ【書】

[1] 〘名〙
① 文字を書くこと。また、その書き方。書法。書道。また、書かれた文字。筆跡。
※性霊集‐三(835頃)勅賜屏風書了即献表「古人筆論云、書者散也」
※随筆・胆大小心録(1808)八九「そなたは必ず書を習ふべからず」
② 用件や状況などを書いて、相手に送るもの。てがみ。たより。書状。
※万葉(8C後)一八・四一三二・右詞文「先所奉書返畏度疑歟」
※今昔(1120頃か)一〇「此の秋、雁の足に文を結付て蘇武が書を天皇に奉ければ」 〔史記‐匈奴伝〕
③ 記録。文書。あるいは、書物。書籍。ほん。また、学問。
※菅家文草(900頃)一・停習弾琴「偏信琴書学者資、三余窓下七条糸」
※歌謡・松の葉(1703)跋「此書(ショ)を編める人打笑ひて」 〔易経‐繋辞上〕
[2] 「書経」の古名。漢代以降「尚書」といい、宋以後「書経」と呼ばれる。

しょ‐・する【書】

〘他サ変〙 しょ・す 〘他サ変〙 文字などを書く。記載する。しるす。
※吉田本三道(1423)「軍体の出物、定めて名のり声あるべし。心得て書すべし」
※史記抄(1477)一七「某日をしるすには、某月と書せいではぞ。月をしるすには、春正月とも、夏四月ともかかいではぞ」

しょ‐・す【書】

〘他サ変〙 ⇒しょする(書)

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デジタル大辞泉 「書」の意味・読み・例文・類語

しょ【書】


毛筆で文字を書くこと。また、その書き方。書道。「を習う」
書かれた文字。筆跡。「空海の
書物。本。「をひもとく」「万巻の
手紙。書簡。「をしたためる」
書経」の略。
[類語](3書物書籍図書書冊ブック文献典籍古典冊子書巻ふみ著作著書/(4手紙書簡書信書状書面紙面信書私信私書一書手書親書手簡書札しょさつ尺牘せきとく書牘しょとく雁書がんしょ雁信がんしん消息便りふみ玉章たまずさレター封書はがき絵はがき郵便

しょ【書】[漢字項目]

[音]ショ(呉)(漢) [訓]かく ふみ
学習漢字]2年
文字をかきしるす。「書記書写朱書浄書大書代書板書
一定のかき方でかいた文字。「書画書道楷書かいしょ草書篆書てんしょ
事柄をかきつけたもの。文書や手紙。「書簡書類遺書願書証書信書投書封書返書密書
本。書物。「書籍書店書物古書司書辞書叢書そうしょ蔵書著書図書読書洋書
書経」のこと。「詩書
[名のり]のぶ・のり・ひさ・ふむ・ふん

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改訂新版 世界大百科事典 「書」の意味・わかりやすい解説

書 (しょ)

文字を書くこと,または書かれた文字を,主として造形面から審美的な対象として意識したときに成立する一つの芸術。とくに中国を中心として,日本,朝鮮,ベトナムなど東洋の漢字世界において古くから発達した。その他の地域,例えばイスラム世界やヨーロッパなどにも,文字を審美的な対象として書くことはあるにはあったが,東洋の漢字世界に比べて,その意義や重要性は小さいといえよう。したがって,書は中国を中心とする東洋の漢字世界に発達した独自の芸術であると言ってもよい。同じく文字や言語による芸術としては文学があり,造形芸術としては絵画,彫塑,工芸その他があるが,書は文字を媒介として造形と言語を二つながらふまえているところに芸術分野としての固有の特性がある。歴史的に見ても,書は独立した芸術の一分野であるとともに,文学や絵画と並び,あるいは融合しつつ,文化史上つねに重要な位置を占めてきた。それには,絵文字から発達した漢字の複雑でかつ調和のとれた造形性に加えて,筆,墨,紙,硯など文房具の性能を生かした表現が,書の造形的な美しさをいやがうえにも高めたということが大きな要因をなしていると思われる。

今日,漢字の最も原始的な段階のものと考えられるものに,殷中期以前の遺跡から出土する陶器に付けられた符号,すなわち陶文または刻符と呼ばれるものがある。そのなかで前5000年ないし前4000年の新石器文化に属する西安半坡(はんぱ)遺跡から見つかったものが最も古いとされている。しかし,これがはたして後の甲骨文字に直接結びつくものであるかどうかについては,まだ資料が少ないので確認することができない。

 今日,われわれが確認することのできる最古の漢字は殷代の甲骨文である。これは当時占卜に使われたもので,時代は殷の滅亡した前1050年ごろから二百数十年前までさかのぼるとされている。この甲骨文の書き方,書風についてみると,まず時代的差違による類型が認められるとして,雄偉,謹飭(きんちよく),頽靡(たいび),勁峭(けいしよう),厳整の5種を挙げる学者があり,また貞人(占卜をつかさどった人)ごとに書風の差違が認められると指摘する研究者もある。いずれにしても,漢字の最も古い段階にある甲骨文において,時代や貞人による書風の差違がすでに認められることは興味深い事実である。

 殷代から周代にかけては,祭器,楽器,兵器などさまざまな種類の青銅器が数多く作られた。これらの青銅器に鋳款または銘刻されている文字を金文とよぶ。金文はそれが作製された時代によって殷,西周,東周(春秋戦国),秦に大別することができる。殷代といってもほとんど後期のもので,1字ないし数字の図象文字が多い。ついで西周の成王(前1020年ころの人),康王(?-前989)の時代には金文の全盛期を迎える。すなわち字数が増加し,筆画が太くて弾力をもつようになり,起筆,収筆が力強く,結構もよく整い,横の字並びはまちまちであるものの,それがかえって造形的に面白く,はつらつとした魅力をそなえるようになる。ついで中期の昭王,穆王のころになると,字並びはよく整ってくるが線は細く弱くなる。春秋戦国,秦と時代が下るにつれて,金文の,書としての魅力はしだいに失われてゆく。

 一方,近年では戦国から秦に至る時期の肉筆資料が続々と発掘紹介されている。たとえば,戦国時代晋の国で書かれた〈侯馬盟書〉,楚の帛書(はくしよ)・竹簡,秦の始皇帝の20年(前227)に書かれた雲夢秦簡(睡虎地秦墓)などがそのおもなものである。これらになると,金文に見られた左右相称的な構造が崩れ,運筆も軽妙闊達になり,やがて漢代の隷書や草書が生まれるのを早くも予告しているような感じを抱かせる。石に文字を刻むためには,石よりも強堅な鉄製の鑿(のみ)の存在が前提となる。中国最古の石刻文字である石鼓文が,鉄の文化を先どりした戦国時代の秦の国で作られた(前481または前374)のももっともなことで,この伝統は秦の始皇帝による琅邪(ろうや)・泰山刻石その他の刻石へとうけつがれてゆく。

秦の始皇帝は天下を統一すると,文字も小篆(しようてん)によって統一した(秦書)。前漢はその後をうけ,各種の書体がそれぞれの用途に応じて成熟していった。この期の刻石としては,《群臣上醻刻石》《魯霊光殿址刻石》《魯孝王刻石》,さらに近年発見された《王陵塞石刻石》など十数種の作品を見ることができる。これらはあまり加工を施さない自然石を利用して,篆書または篆書から隷書に移る過渡的な古隷によって書かれている。また簡牘(かんとく)(木簡・竹簡),帛書も近年ますます多く発掘されており,前1世紀ごろの隷書にすでに波磔(はたく)の筆法が見られ,これと前後して章草の筆法の明らかに認められるものがある。しかしその大半は,篆書から隷書に移る一種の雑然とした書体によって占められている。
書体
 後漢になると,自然石を利用した碣(けつ)や磨崖のほかに,石を一定の形式に加工したいわゆる碑も盛んに作られ,それらを合わせると今日百数十種もの作例を見ることができ,一括して漢碑と総称している。数多い漢碑のうち,書風として特色のあるものをいくつか取り出して分類すると,(1)正統派,(2)素朴派,(3)神霊派の3種をまず挙げることができる。(1)は山東省曲阜の孔子廟にある《乙瑛碑(いつえいひ)》《礼器碑》《孔宙碑》《史晨前後碑》などを主とし,洛陽の太学に置かれた《熹平石経(きへいせつけい)》(石経),さらに頌徳碑の傑作《曹全碑》などである。これらは儒教一尊の時代にふさわしく,いかにも洗練された八分(はつぷん)の美しさを示している。(2)は道路修復を記念して刻まれた磨崖がおもなもので,とくに《開通褒斜道(ほうやどう)刻石》《石門頌》《楊淮表紀》など褒斜道に関するもののほか,《西狭頌》《郙閣(ふかく)頌》などが名高い。その他《裴岑(はいしん)紀功碑》など辺境の地に作られたものもこの中に入れることができる。いずれも素朴で野趣に富むものが多い。(3)は,干ばつのとき山神に雨乞いをしたり,五穀の豊穣を祈願するなど,広く神事に関するもので,《楽浪秥蟬(ねんてい)平山君碑》《祀三公山碑》《崇高廟諸雨銘》などがそのおもなもので,これらはしばしば篆法を加味し,神秘的なムードをただよわせる特徴がある。

 草書はすでに前漢から実用的な書体として,草稿や尺牘(せきとく)などに用いられてきたが,後漢になると,杜度,張芝など専門の大家が出て,ますます美しく洗練され,行書も漢末に劉徳昇によって作られ,その後は鍾繇(しようよう)と胡昭に伝えられたという。このほか,印章,磚文(せんぶん),瓦当文(がとうぶん)などにもそれぞれ装飾性に富む特殊な書の美が表現されている。

三国から西晋の末年にかけて,すなわち3世紀になると,文学や書画が政教の規範から解放され,芸術として独立した価値を認められるようになる。書では漢末の張芝に続いて鍾繇,皇象,索靖などすぐれた書人が相次いで登場し,また衛恒(?-291)の《四体書勢》など,書を論じた文章も書かれるようになった。これらは,書における個性の尊重,芸術的意識の高まりを示すものである。現存する作品について見ると,とくに格式ばった碑碣(ひけつ)などは,篆隷の書体で書かれているが,普通の文書や書簡は,それから脱化してきた楷・行・草の書体で書かれることが多い。魏の黄初三碑として名高い《公卿上尊号奏》《受禅表》《封宗聖侯孔羨碑》は,いずれも碑文が隷書,碑額が篆書で書かれている。中国の西陲(せいすい)で発掘されたこの時代の簡牘や文書の類は,楷・行・草の新しい書体で書かれているが,まだ未完成の段階にあり,それが実際に完成するのは,4世紀の後半,東晋の時代をまたねばならない。

 漢末の建安10年(205)に,曹操は地上に碑を立てることを禁止した。この禁令は魏・晋の間にもしばしば重ねられたので,書の歴史の上にも大きな影響を及ぼすことになった。すなわち,後漢時代に盛行した隷書の碑板はしだいに影をひそめ,これにかわって書の美は主として行・草の尺牘において競われることになったのである。ことに後漢の蔡倫によって紙が改良されたことは,尺牘の往来を容易にし,この傾向をますます促進した。また,西晋のころから,墓前に碑を立てる代りに,小型の碑を作って,墓中に収めることが始まった。《管洛墓碑》《張朗碑》などがその例で,これらは後世に盛行する墓誌銘の先駆となった。

 東晋時代には,王羲之・王献之父子をはじめ,書の名家が数多く現れ,ここに書道史の黄金時代が出現するにいたった。王羲之は,〈骨骾(こつこう)〉すなわち骨っぽい直言の人として当時たたえられたが,その反面豊かな感性の持主でもあり,漢・魏以来の書の伝統をふまえて,古今無類の雍容典雅な美しさを発揮した。彼はほとんどあらゆる書体をよくしたと伝えられるが,代表作に,小楷の《楽毅論(がくきろん)》《黄庭経(こうていけい)》《東方朔画賛》,行書の《蘭亭序》《集王聖教序》,その他《喪乱帖》《孔侍中帖》など行草の尺牘がある。王献之は王羲之の第七子で,父の風をうけつぎ,より洗練された婉麗な書風を生み出した。日本に伝わる尺牘《地黄湯帖》などが名高い。

 南朝では,宮廷や貴族たちによって二王(王羲之・王献之)の書が収集され,盛んに習われた。宋・斉のころには,主として王献之の書が好まれ,梁以後には,王羲之,さらに鍾繇を重んずる復古的な動きが現れた。今日二王の真跡はすでに滅んで見ることができないが,双鉤塡墨(そうこうてんぼく)に取られ,あるいは法帖に刻されて,中国書道史の根幹を形成することになる。

 この時代にも,前代に続いて碑を立てることは原則として禁止されたので,石刻の数は乏しいが,《爨宝子(さんぽうし)碑》《爨竜顔(さんりようがん)碑》《瘞鶴(えいかく)銘》など従来よく知られているもののほか,近年では南京周辺などから,かなりの数の墓誌・墓磚の類が発掘されている。一方,北朝は非漢民族が華北に立てた征服王朝であるから,漢文化の影響を受けたとはいえ,北族固有の気風が反映して,健勁雄渾な書風にその特色を発揮した。北朝の書の中で最も重要な位置を占めるのは,造像記,磨崖,墓誌,碑などの石刻資料であり,世に北碑と総称されている。このうち,造像記として最も有名なのは河南省洛陽市の南約13kmの地点にある竜門石窟のそれである。太和19年(495)の《牛橛(ぎゆうけつ)造像記》を紀年のあるものの最古とし,隋・唐のころまでを加えると,三千数百点にものぼる。このうち,とくに書のすぐれたものとして《始平公造像記》《楊大眼造像記》《魏霊蔵造像記》《孫秋生造像記》のいわゆる竜門四品があり,さらに十品,二十品,五十品,百品などと称して鑑賞されている(《竜門二十品》)。510年前後には,陝西省の石門に王遠の《石門頌》,山東省の雲峯山,天柱山,太基山などに鄭道昭(?-516)の一連の磨崖が作られ,東西に雄を競うことになる。鄭道昭の磨崖は30余種にのぼるが,とくに《鄭羲下碑》《観海童詩》《論経書詩》などが名高い。墓誌も北魏の皇族・貴顕のものをはじめとして多数発掘されており,とくに書のすぐれたものに,《元詳墓誌》《元勰(げんきよう)墓誌》《元顕儁(げんけんしゆん)墓誌》《元珍墓誌》などがあり,ほぼ510年前後に名作が集まっている。次いで520年前後になると,《賈思伯(かしはく)碑》《張猛竜碑》《高貞碑》など碑の名作があいついで現れる。東魏の《敬顕儁(けいけんしゆん)碑》には,すでに南朝の優美な書風の影響が強く,これ以後は南朝の書風に急速に同化してゆく。ただ北朝末期には一時篆隷の筆法を加味した独特の楷書が流行し,一つの特色を発揮した。南朝の陳から隋にかけて,王羲之7世の孫と伝えられる智永が現れ,王羲之の書法をうけついで多くの《千字文》を書いた。なかでも日本に伝わる真跡本の《真草千字文》が名高い。

隋代の書を見ると,(1)南朝風の緊媚なもの,(2)北朝あるいは魏・晋の遺風を伝える奇古なものの2種に大別することができる。(1)を代表するのが,《竜蔵寺碑》《賀若誼(がじやぎ)碑》《啓法寺碑》《美人董氏墓誌》《蘇慈墓誌》,近年発掘された《李静訓墓誌》などであり,(2)に属するものに,《曹植廟碑》《陳叔毅修孔子廟碑》などがある。隋の楷書は,唐の楷書に比べて,一般に文字の背丈が低く,線は細目で,筆の打ち込みが鋭く,表情は謹直でやや堅いなどを,その特徴として挙げられる。

 唐代には,南朝以来重んじられてきた王羲之の書風をもとにして,楷書の理想的な美しさが完成された。とくにその動きの中心となったのが,太宗李世民である。太宗は財力を尽くして王羲之の書の収集に努めるとともに,弘文館を設置し,王羲之の書風を伝える欧陽詢と虞世南を招いて,貴族の子弟に楷法を教授させた。また官吏を任用する際にも,〈楷法遒美(しゆうび)〉を審査の一基準とした。太宗自身も王羲之風の書をよくし,《晋祠銘》《温泉銘》などの行書碑を書いた。欧陽詢の代表作には《皇甫誕碑》《化度寺碑》《九成宮醴泉(れいせん)銘》,虞世南に《孔子廟堂碑》,褚遂良(ちよすいりよう)には《孟法師碑》《雁塔聖教序》などがある。次いで,則天武后の時代には,孫過庭が《書譜》を書いて,理論と実作の両面から王羲之の伝統を守ろうとした。
書論
 しかし,唐も8世紀の半ば近く,開元・天宝のころになると,従来の貴族社会が行きづまり,王羲之以来の伝統的な書法もしだいに形骸化していった。これに代わって起こったのが狂草であり,張旭,懐素らがその初期の開拓者である。彼らは揮毫する前に大酒を飲んで気分を誘発し,屛風や牆壁(しようへき)など広い空間に向かって,一気呵成,縦横無尽に奔放な草書を書き放った。唐の中ごろに出た顔真卿は,王羲之の書を十分修得したうえで,張旭,懐素らとも親しく交わり,豪毅にして生命感のあふれる書風を打ち出し,宋以後の革新的な書を生み出す大きな原動力となった。その代表作に,楷書の《多宝塔碑》《麻姑仙壇記》《顔氏家廟碑》などがあり,行草の《祭姪文稿》《祭伯文稿》《争坐位帖》はとくに有名で,三稿と呼ばれている。顔真卿より少し前に,李邕(りよう)(678-747)が王羲之の書風を学んで多くの行書碑を書き,また顔真卿以後では,柳公権が顔真卿の書を受けついで,さらに勁媚な書風を築き,当時の貴族社会にもてはやされた。五代になると,唐の中ごろに起こった革新的な潮流はやや停滞したが,ひとり楊凝式(ようぎようしき)が現れ,懐素,顔真卿などの影響を受けて縦逸な草書に特色を発揮した。

宋代は文化の上に新しい機運のもりあがった時代である。宋初には主として王羲之風の伝統的な書法が行われたが,第4代仁宗のころから,新しい書風が起こってきた。まず理論の面からその端緒を開いたのは欧陽修である。彼は〈筆説〉〈試筆〉《集古録跋尾》などを著し,書において最も大切なのは,技法の末節ではなく,書者の人物識見であるとし,一種の人格主義的な書論を唱えた。この思想は,その弟子の蘇軾(そしよく)(東坡),またその弟子の黄庭堅らにも受け継がれ,宋代士大夫の書論を大きく方向づけることになった。宋代の新しい書風を実作の面で打ち出したのは蔡襄(さいじよう),蘇軾,黄庭堅,米芾(べいふつ)のいわゆる宋の四大家である。彼らは,自己の人間性を天真のままに表現し,〈宋人は意を尚(たつと)ぶ〉と評されるような,自由闊達で,意志的な強さに特色のある書風を作り上げた。もっともこのうち,蔡襄と米芾は,伝統的な書法に深く沈潜する中から,この時代特有の清新な気風が自然ににじみ出たというべきものであるが,蘇軾と黄庭堅は,とくに顔真卿の書を拠り所として,自己の人間性を端的に打ち出し,生命観のあふれる書を作り上げた。南宋時代に出た呉琚,楊万里,范成大らは米芾を学んだが,結局その皮相を得たにすぎず,わずかに張即之が禅の教養を背景として機鋒の鋭い書を書いた。一方,南宋の中ごろから宮廷を中心として晋・唐に帰ろうとする傾向が現れ,これがやがて趙孟堅を経て,元の趙孟頫(ちようもうふ)(子昂)らの復古主義へと受け継がれてゆく。

 元代で傑出した書家は趙孟頫である。彼は宋の皇族の末裔であり,その高潔な人格と高い識見,すぐれた学問芸術のゆえに,元の世祖,成宗,武宗,仁宗,英宗の五代にわたって寵任を受けた。彼は王羲之の古法を忠実に学び,姸媚(けんび)秀潤な書風をもって一世を風靡し,後世にも大きな影響を与えた。このほか,鮮于枢(せんうすう),鄧文原,虞集,張雨,康里巙巙(きき),楊維楨(よういてい)らがでたが,全体として見ると伝統派に属するものである。

明代初期の書は元代復古主義の延長で,宋璲(そうすい),宋克,宋広,沈度(しんど),沈粲(しんさん),宋濂(そうれん),解縉(かいしん),陳璧らが主な書家であるが,全体としてみると,穏健ではあるがやや気力に乏しいうらみがある。明代の新しい書風が起こるのは中期,すなわち15世紀の終りから16世紀の中ごろにかけての時期で,張弼(ちようひつ)がその先駆をなし,沈周(しんしゆう)は黄庭堅を学び,呉寛は蘇軾に傾倒してそれぞれ特色のある書をかいた。さらに江蘇省の蘇州から祝允明,文徴明という2人の傑出した書家が現れた。祝允明は鍾繇風の謹直古雅な小楷と,張旭,懐素を思わせる奔放な狂草によって知られる。文徴明は博学で詩書画をともによくし,鑑識にも長じ,文人の模範として尊敬を集めた。その書は李応禎に学び,宋・元から晋・唐にさかのぼって一家を成し,晩年には黄庭堅風の作品を書いた。明末には蘇州に近い松江(上海市)から董其昌(とうきしよう)が現れた。彼も詩書画をともによくし,ことにその著《画禅室随筆》などで卓越した書画論を展開し,後世に絶大な影響を与えた。そのめざすところは,単なる技巧をしりぞけ,顔真卿や蘇・黄・米の革新的な精神を通して,晋人の平淡自然の風韻を得ることにあった。明末・清初の際には,激動の時代を反映して逸格の書が多く現れた。すなわち,張瑞図,黄道周,王鐸(おうたく),倪元璐(けいげんろ),傅山(ふざん)らがその代表的な書家で,明に殉じたもの,清朝に再任したものなど,処世の態度はそれぞれ異なるが,激動期を生きる人間の苦悩を長条幅の連綿草に託して吐露した点で共通している。

 清朝の書を鳥瞰すると,帖学派と碑学派の2種に大別することができる。帖学派とは,法帖に刻された二王をはじめ魏・晋・南朝人の書を典型として学ぶ派で,さらに晋人の風気を伝える米芾,趙孟頫,董其昌らの書を学ぶ人々をも加えていう。碑学派とは,漢・魏から北朝に至る石刻の書を宗とし,さらに甲骨,金文,篆書などを学ぶものを加えてよぶ。清朝の書風は,帖学碑学の2期に大別することができ,さらにそれぞれを前後に2分して計4期に分けて考えるのが便利である。すなわち,国初から雍正まで(1644-1735)を帖学前期とし,乾隆年間(1736-95)を帖学後期とし,嘉慶年間(1796-1820)を碑学前期とし,道光以後(1821-)を碑学後期とする。

 国初の激動期が過ぎ,康煕・雍正から乾隆にかけて,董其昌と趙孟頫の書を習うことが流行し,書風はしだいに穏やかなものとなった。これを帖学前期とする。沈荃(しんせん),姜宸英(きようしんえい),査昇,王澍らがその代表的な書家である。ついで,乾隆年間に入ると董其昌,趙孟頫の余風から脱して,晋・唐あるいは宋の書を直接に学ぼうとする動きが出てきた。これも帖学後期とする。張照,劉墉(りゆうよう),梁同書,王文治らがその代表的な書家で,なかでも張照と劉墉は帖学を集大成した2大家である。

 考証学の一環として金石学が勃興すると,金石文を単に学問の対象としてだけではなく,書作にもそれを応用するという動きが生じ,篆隷や金文に新生面が開かれることになった。学者では銭大昕(せんだいきん),桂馥(けいふく),銭坫(せんてん)らが金石文を応用した書を書き,書家では鄧石如(とうせきじよ),伊秉綬(いへいじゆ),陳鴻寿(ちんこうじゆ)らが出て,碑学派に先鞭をつけた。これを碑学前期とよぶ。なかでも鄧石如は古碑によって篆隷を深く究め,また北碑を学んで,碑学の開山となった。阮元が〈南北書派論〉〈北碑南帖論〉を著して北碑を書の正統として以後,この説は包世臣の《芸舟双楫》さらに康有為の《広芸舟双楫》などによって補訂され,北派の理論がうちたてられた。これにともない,実作面でも北碑の素朴な書に美の発揚を求めたり,あるいは碑帖を兼習したり,さらに金文,石鼓文,甲骨文にも書作の材料を求める者が現れ,百花斉放の観を呈するにいたった。これを碑学後期とよぶ。この期の書家は多くていちいち挙げきれないが,呉煕載(ごきさい),何紹基,趙之謙,張裕釗(ちようゆうしよう),呉昌碩らがおもな人々である。碑学派はこの後も多面的な展開をとげ,その流れは今日なお受けつがれている。
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朝鮮における文字(漢字)の伝播は漢代に設置された楽浪郡の中国人からと考えられている。最古の碑は《楽浪秥蟬平山君碑》(85または178)とされており,高句麗《広開土王碑》(414)とともに隷書体の優品である。三国時代には《新羅真興王巡狩碑》(黄草嶺,磨雲嶺,北漢山),《昌寧拓境碑》,《武寧王陵墓誌》(523)があり六朝の書風がうかがえ,《砂宅智積(さたくちしやく)碑》(654)とともに貴重な碑である。また1979年に発見された《中原高句麗碑》(480)は隷・楷で書かれている。統一新羅時代には東晋の王羲之に比定され朝鮮歴代中第一人者とされる金生(711-?)があらわれ《朗空大師白月栖雲塔碑》に集字として残されており,崔致遠の《四山碑銘》とともに有名である。朝鮮の書は統一新羅や高麗前半は大半は金石とくに碑,墓誌として残っているが,石質,風土,戦乱等のため欠損されたものが多い。この時代は唐の欧陽詢・欧陽通(おうようとう)父子の書風(欧法)の全盛時代であった。その中で文宗の世の柳伸,仁宗の世に坦然(たんねん),高宗の世には崔瑀(さいう)が有名で,金生とともに神品四賢とよばれており,この時代は朝鮮を通じて書の全盛期であったといえよう。高麗後期になると元との密接な交流の影響から趙孟頫(子昂)の書風が盛んになり,李嵓(りがん),韓脩(かんしゆう),高麗唯一の隷書を書いた権鋳等が著名であった。また高麗時代には墓誌が200余点出土しており,高麗期の書を知るのに便利である。

 李朝時代に入ると朱子学が尊重されたために儒教で統一され,芸術的には停滞したがその中で初期の松雪体(趙子昂)の書風は200年近く行われたが,第一人者といわれたのが安平大君瑢(李瑢)で,その書には《夢遊桃源図》跋文があり,現在日本の天理大学に収蔵されている。この系統に属する者に朴彭年,成三問,申叔舟,宋寅等があった。また明の文徴明風では成宗の世に成守琛(せいしゆしん)が出た。その他明代の祝允明の系統として金絿(きんきゆう),楊士彦,金時宗等が出ている。中期に入ると書は著しく衰微したが,韓濩(かんかく)(石峯)が出てこの時代の代表として朝鮮風の書風で通行体として社会に受け入れられ,彼の書いた《千字文》は大衆の中に浸透して以後大きな影響を与えた。安平大君瑢,韓濩,金絿,楊子彦は李朝前・中期における書の四大家と称された。その後に出た尹淳(いんじゆん)(白下)は各体に通じ,とくに行書において一家をなし,彼の弟子である李匡師(りきようし)(円嶠)は《書訣》を著し,その朝鮮風の作品とともに著名である。また許穆(きよぼく)は篆書で名を成した。後期に入ると申緯が董其昌風で当時の書風を一変させたが,書の革新を果たしたのが金正喜(秋史,阮堂,礼堂。1786-1856)で,清の翁方綱,阮元の影響をうけ《金石過眼録》を著した。彼は各体に通じたが,とくに隷書はぬきんでていた。その書は秋史体と称され近代芸術の先駆者となった。李朝四代の世宗のときにハングル文字が完成し,四体に区別され書き継がれている。解放後は韓国においては国展が開催され1981年で30回を数え,その中に書芸として参加,書の愛好者も増加している。
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日本における書の歴史は大陸からの漢字の伝来に始まる。大陸様式の書風をそのまま受け入れ,国語を漢字によって表現するまでに習熟同化し,ついで和様の書風に発展させ,ついに独自の仮名文字をも創造した。日本の書はその後も漢字文化の先進国,中国の影響を受けながら,各時代に変容を見せていたが,その中で生まれた書法の流派は,やがて書道と呼ぶ芸術的ジャンルを形成するにいたっている。

応神天皇の代に百済の王仁(わに)が論語と〈千字文〉を朝廷に献上したことが,記紀に見える漢字伝来の記録の初見であるが,遺品としてはさらに古く,57年,倭国に光武帝が授けたと《後漢書》に記されている〈漢委奴国王(かんのわのなのこくおう)〉の金印(倭奴国王印)が伝存しており,その5文字は篆書の一種といえよう。日本で書かれた最古の文章といわれるのは,5世紀後半とされる熊本県江田船山古墳出土の大刀銘,503年と推定される和歌山県の隅田八幡(すだはちまん)画像鏡銘などである。これらには漢字の音を借りた用字法が示され,漢字による国語表現の実際が明らかである。最近発見された埼玉県稲荷山古墳出土の鉄剣には,471年または531年と考えられる〈辛亥年七月〉をはじめ115字の金象嵌銘文があり,新資料として高く評価されている。しかし,書としてみるべきものは飛鳥時代以降に現れる。まず金石文の優品の第一に挙げられるのは法隆寺金堂釈迦造像銘である。これは623年(推古31)聖徳太子追善のための願文で,書風は中国北魏の楷書の雅味に通ずるところがあるが,さらに柔和な筆意が感ぜられる。これは1971年韓国公州で出土した《武寧王陵墓誌》(525)の書風と類似の系列に属しており,中国から朝鮮半島を経て日本に至る文化伝播を考えるうえで注目される。紙に書かれた最古の遺品として著名な伝聖徳太子筆《法華義疏》は,訂正加筆のあとがある草稿本で,書風は北魏の書に熟した行・草書体のさわやかな筆致を示し,その撰は615年に当たる。他の金石文の遺例と併せて考えると,7世紀初頭は北魏の書風が行われていたと推察される。7世紀後期と思われる《金剛場陀羅尼経》は丙戌年(686)の年紀が明らかな最古の写経で,書風は一変して唐風となっており,しかも初唐の書家欧陽通(おうようとう)に酷似している。これとまったく同一書風に,長谷寺蔵の法華説相銅板の銘文があり,欧法を会得した能筆の存在が明らかである。しかし,706年(慶雲3)書写の《浄名玄論》の書風は《法華義疏》に通ずる北魏の風に近く,唐風へ移行する過渡的な遺例が見られる。

奈良時代は仏教の興隆によって,写経が国家的事業となって写経所が設置され,多くの写経生によって経典の書写が行われた。この写経は天平経と称され,奈良時代の書を代表している。写経はすでに673年(天武2)に川原寺で一切経書写の行われたことが《日本書紀》に記されているが,これは唐経を底本としたと想像される。遣隋使や遣唐使などを通じて大陸文化の輸入があり,唐以前の隋経も当然手本とされていたはずである。したがって天平経にも隋・唐の書風の変遷のあとを示す遺品を見ることができる。写経は仏典としての荘厳整斉な書体であるべきで,おりしも初唐に完成美を見せる楷書が基本となっているが,しだいに唐風を脱した書風に変化している。聖武天皇が書写させた紫紙金字の《国分寺経》(《紫紙金字経》)はその代表的なもので,縦長の欧法の字形は正方形に近くなり,潤いを帯びた線質は唐経には見られないところである。

 写経以外の書としては《正倉院文書》と木簡を忘れてはならない。これらには当時の知識階級の日常の書体がみられるからである。正倉院にはとくに聖武天皇や光明皇后の書巻などが伝えられ,初唐の書家の影響が明らかに見える。そのうち,皇后の《楽毅論》は唐代に流行した王羲之の臨書であり,《東大寺献物帳》は王羲之の書法20巻や欧陽詢真跡など,唐においても最高級の手本が舶載されていたことを物語っている。写経・戸籍類の改まった楷書には,やはり六朝・隋・唐風が,古文書群には王羲之を範とした文書が目だっている。木簡は奈良の平城宮跡を中心に東北から九州にいたる各地で発掘されつつあり,最古の飛鳥宮遺跡の貢進付札をはじめ,習字木簡,万葉仮名木簡などが出土している。これらは地方官吏の書の水準の高さを示すとともに,書の普及度も考えられる。それらの能筆の書風は王羲之を基礎とし,日本書道の根幹を形成しつつあった。

平安時代は日本書道の確立期に当たり,その基本的書風は現代に根強く生きている。そして仮名という漢字の原形を極度に省略化した独自の書体が生まれた時代である。唐の衰微や渡航の危険などによって遣唐使の派遣が中止されるまでは,前時代に引き続いて中国の書法を継承し,漢文学においても勅撰漢詩集《懐風藻》が初めて編集されているが,これは日本的な自覚の一端もうかがえるもので,唐風文化を同化しつつ日本文化の形成へと発展する様相がすでに見えている。書も唐風から和風への萌芽を見せ始めて,王羲之を主流とした伝統的書風の中に温雅な風韻を持ちつつあった。その頂点に三筆(嵯峨天皇,空海,橘逸勢(はやなり))が位置する。空海はその代表で,入唐以前の24歳のときの筆になる《聾瞽指帰(ろうこしいき)》は,王羲之そのままの筆法を踏襲しながらも,若さと日本的な柔和な筆触が表れており,さらに帰朝後の書状《風信帖》になると,唐風を脱した日本人としての自覚的書風を創り始めている。そして,その書道を極めようとする意欲は用筆にも及び,嵯峨天皇への狸毛筆奉献の書が伝世し,書体によって用筆を改める周到さを示しているが,入唐中は求道のかたわら各種書体の研究にも意を用い,特異な飛白や雑書体をも会得して帰国した。近世に大師流が起こり,これは空海を日本書道の祖に位置づけているが,書風としては空海の書の特異な面が強調されている。しかし,空海の書域の幅の広さは日本書道史上に類がなく,和様書道発展の基礎となった。嵯峨天皇は空海に私淑し,唯一の宸翰《光定戒牒(こうじようかいちよう)》には,気宇壮大な中に空海との共通点が見いだされる。橘逸勢は真跡として確実なものは伝わらない。空海と同時に入唐した最澄はやはり王羲之調ではあるが,爽快な運筆の名筆で空海と対照的である。

 空海より約半世紀後の円珍の書状を見ると,細い墨線の筆触に柔らか味を増して,和様化が急激に進んだ書風である。また,嵯峨天皇より約1世紀を経た醍醐天皇には,《白氏文集》を大字で揮毫した巻物が遺存するが,草書の率意の書でまったく和風の線質となり,小野道風の《玉泉帖》に通ずるところが見え,和様書道の成立期にいたったことを物語っている。この時期が三蹟(小野道風,藤原佐理(すけまさ),藤原行成(ゆきなり))の時代で,道風によって代表される。その筆《三体白氏詩巻》に見える和様の楷書は,滑らかな線質で唐風の鋭利な感触を払拭した丸やかな書体である。これは平安後期の写経の楷書にも通じる書風で,仮名の隆盛とともに日本書道独自の流麗な筆の運びにつながっている。藤原行成が道風を範としたことは明らかであるが,道風のゆるやかな線に,緩急の速度と抑揚を加えて生々とした精彩を放ち,秀潤優美な藤原文化を代表する名跡を遺し,ここに和様の姿が確立された。

 平安時代も末期になるとようやく個性的書風が見え始め,とくに仮名書きにおいて,仮名の完成美を示す10世紀中ごろの高野切本《古今集》以後は,書写の速度やリズムに種々の変容が現れ,西本願寺本《三十六人集》は美麗な装飾料紙を用いた精粋であり,これは平家一門の名筆になる《平家納経》とともに平安時代の書の圧巻である。行成の書は世尊寺流と呼ばれ,典麗優雅な宮廷文化にふさわしいものであったが,その5世の孫,藤原定信も《三十六人集》の筆者の一人で平安末期の能書家である。しかし見るからに速筆の書であり,個性豊かで行成様を継承してはいない。これは次代への書風を象徴している。

鎌倉時代は個性的な書としてまず藤原俊成・定家父子がある。各時代の書風は書道の発展によって,一方で画一的な亜流を派生させるとともに,他方においては個性的書風も存在していた。しかし,それらに通ずる様式は覆うべくもない時代色としても現れている。平安後期に藤原忠通は行成様に重厚な感覚を付加して法性寺(ほつしようじ)流を創め,これが鎌倉時代の主流となった。武家の書風も公卿風の様式から離れたものでなく,時代相応の書風を形成している。この時代の書を代表する一群の名跡に〈熊野懐紙〉がある(懐紙)。これらには後鳥羽天皇を中心とする《新古今集》の宮廷歌人の筆跡がまとまって伝存し,法性寺流を基調としながらも個性的な筆勢が明らかである。名筆として知られた伏見天皇(1265-1317)は平安時代の書に習熟し,復古的な流麗さをもって著名で,その皇子尊円親王は世尊寺流に宋風を加味した尊円流を創めた。青蓮院(しようれんいん)流とも呼び,後世の御家流(おいえりゆう)の基礎となった。

 平安末期ごろから中国の宋との貿易が活発となり,各種の文物とともに新しい宋風の書が輸入された。すでに平安末の藤原頼長は学識名高く,兄の法性寺忠通とはまったく趣を異にした筆跡を残しているが,当時舶載の宋版本の字体を思わせる。宋風の書は禅宗の渡来によるところが大きく,日中禅僧の往来は禅宗様と呼ぶ禅僧墨跡の名品を伝えた。そのおもな墨跡の基本には宋の黄庭堅,張即之や元の趙子昂の書風があり,加えて禅僧の個性的な気迫に富んでいる。入宋して禅を伝えた栄西をはじめ,宗峰妙超,夢窓疎石,雪村友梅,また渡来僧の蘭渓道隆,無学祖元,一山一寧などが超俗の墨跡を伝えている。宋・元の書の影響は宸翰(しんかん)にもあらわれ,宋学に心を寄せ,禅宗に帰依した後醍醐天皇の宸翰は,和風の中に黄庭堅風の宗峰妙超の書風が見られ,覇気横溢した書として名高い。南北両朝の宸翰は競ってみごとであり,宸翰様と呼ばれる。

室町時代は書道史的にみるべきものは少ないと説かれている。それは型にはまった類似の書が公式に行きわたり,新鮮味のない定型化のためと思われる。大陸の明からの影響も乏しく,保守的傾向の強い安定した書風が行われた。文学においては《源氏物語》などの古典復興的研究が行われ,書道においても定型化への根拠としての故実を古典に求め,書儀を重んじる格式ばった諸流派が生まれた。書風としては青蓮院流の亜流にすぎず,芸術的価値は乏しい。この時代を代表する三条西実隆は古典学者の公卿で,その書は三条流と呼ばれる。宸翰は南北朝以来名筆が続き,伏見院流の後小松天皇や後花園天皇,後奈良天皇,正親町天皇の量感あふれる書は,世尊寺流や青蓮院流と軌を一にしてはいるが,その高い品格は宸翰なればこそと思われる。禅僧の墨跡も類型的な書が多いが,一休禅師は特異な筆勢あふれる書風に見どころがあり,また絶海中津,愚極礼才は南北朝末から室町時代にかけての五山僧を代表する名筆で,趙子昂(趙孟頫)風の柔和な書体である。この趙子昂風の書体は,禅籍書写の実用体として受け入れられたのである。
禅宗美術

安土桃山時代の文化が豪華絢爛の語を冠せられるように,書の世界においても室町時代の沈滞した空気を排した生新の気風が吹き込まれた。宸翰として後陽成天皇は祖父正親町天皇の薫育によって雄大な書風をもち,とくに大字を得意としたので,社寺の勅額に筆を染めたものが少なくない。その堂々たる風格は桃山時代にふさわしい。伏見宮尊朝法親王は青蓮院流でもとくに尊朝流と呼ぶ名筆で知られる。公卿では青蓮院流から近衛流を創始した近衛前久(さきひさ)があり,とくにその子近衛信尹(のぶただ)は強い筆線で大字の仮名に異色の書風を現出し,三藐院(さんみやくいん)流と称され,江戸初期の本阿弥光悦,松花堂昭乗とともに〈寛永の三筆〉と呼ばれる。その大字屛風は当時盛行した障壁画に伍して和様の書を迫力ある作品にしあげている。信尹の養子信尋(のぶひろ)は後陽成天皇の第四皇子であるが,三藐院流をそのまま継いだ書風である。

江戸時代初期には前述の寛永の三筆が挙げられるように,桃山時代から移行した書風の影響下にあった。本阿弥光悦は鋭く細い線と太い直線とを交え,巧みな墨の配置によって個性的な書境を作り出している。光悦は初め青蓮院流を学んだが,漢字の書風からは中国元の張即之の鋭利な筆法がうかがわれ,仮名については〈本阿弥切〉と呼ぶ平安時代書写の〈古今集〉を所持していたと考えられ,それを習ったあとが見えている。そして,墨線の肥瘦の極端な変化を示すとともに,金銀の下絵料紙に散らし書とした色紙は,桃山時代の障壁画を連想させるきらびやかな意匠である。寛永の三筆は平安時代の仮名を根底に持ちながら,それぞれ個性美を見せている。光悦の覇気に対して流麗な筆致を誇る松花堂昭乗は,最初に大師流を習い,作品のところどころにその片鱗を見せている。

 大師流は弘法大師が創始した筆法として江戸初期ころに唱道された流派であるが,松花堂と同時代の藤木敦直が第一人者で,賀茂流とも称して宮廷貴族や文人の間に重用された。この書流は空海の筆跡のすべてを受け継いだものではなく,その一部に見られる特別な筆法の中に神秘的な精神性を見いだし,その故実秘伝が生み出されたのではないかと思われる。松花堂は寛永の三筆の中でも習いやすいためか,後世に影響を与えている。また光悦流に近い烏丸光広は豪放な書風として特異な存在である。宸翰としては後水尾天皇や霊元天皇に和歌懐紙など伝存するものも少なくないが,学殖豊かな風格は争えないものがある。三藐院の4代後の近衛家煕(いえひろ)(1667-1736)は予楽院と号し,博学多識の学者であり,書は平安時代の仮名に習熟し,江戸時代を通じて古典を再現した第一人者であろう。

 近世の書道史上に忘れてならないのは中国明人の来朝である。黄檗(おうばく)僧隠元などによってもたらされた新書法で,唐様(からよう)と呼ばれ,とくに大字にすぐれた雄渾な筆致を示している。当時明国は清に滅ぼされたため,日本に亡命する意味もあって,1653年(承応2)独立(どくりゆう)が初めて長崎に渡来,翌年隠元が来り,その門下の木庵・即非も来朝し,黄檗山万福寺の住持となった。隠元・木庵・即非を〈黄檗の三筆〉,また〈隠木即(いんもくそく)〉と呼ぶ。鎖国下にあって長崎は唯一の外来文物の門戸で,長崎を中心に新しい明代の書が取り入れられた。北島雪山は医を志して長崎におもむき,ここで明人兪立徳(ゆりつとく)から明代の文徴明の筆法を初めて授けられ,江戸時代の唐様の先駆として迫力ある大字作品を書いている。その門下細井広沢は江戸において唐様発展に力を尽くし,唐様の基本的な著述をも出した。江戸時代は幕府が儒学を奨励したため多くの儒学者が輩出し,唐様は儒者の間に行われ,和様は国学者に用いられた。

 幕末には明の文芸的な文化として文人趣味が流行し,書画をよくし作詩の教養を重んじる,池大雅,皆川淇園,与謝蕪村,頼山陽などの文人書家が知られる。このころ書のみで一家をなした市河米庵貫名海屋(ぬきなかいおく)・巻菱湖(まきりようこ)は〈幕末の三筆〉と呼ばれる。この3人は晋・唐の書法を基礎として学問的研究を進めたが,米庵はとくに宋の米芾(べいふつ)に傾倒し,書論等も著し,その著《墨場必携》は揮毫用の範例を示したものとして今日にまで重宝されている。海屋は空海を中心として日本に古く伝えられた唐の書法以下,道風・行成の筆法についても研究した。当時,和漢の書を極め,漢字に新しい境地を開いて注目される。菱湖は欧陽詢風の細楷をよくし,門下の中沢雪城からは明治時代の書家巌谷一六(いわやいちろく)(1835-1905),西川春洞(1847-1915)を出し,明治時代の書に与えた影響は大きい。

 一方,江戸時代の一般庶民は上流階級には無関係に御家流万能であった。これは尊円親王に端を発し,江戸時代を通じて庶民教育に欠くことのできない重要な役割を果たした。御家流は江戸幕府公用の書体に規定されていたから,寺子(小)屋における書道教育はもっぱら御家流を手本としたわけである。しかし,実用を主として形式化された御家流は低俗化することとなった。政治的に書体の統一が行われたことは,庶民教育の末端においてさらにその亜流を生むことによって,書としての質的な向上は望むべくもなかった。しかし,書道教授の専門家が生まれたのはこの時代である。

明治の新政府によって封建制度が崩壊し,文明開化の名のもとに旧来の文物を変革しようとする思想が一般に行われた。しかし書の世界では蓄積された永年の伝統が根づよく持続して,幕末の諸派はそのまま門人によって明治時代へと移行した。江戸末期は概して唐様が主流で,和様は御家流が本流であったが,新時代に影響を及ぼすほどの大家は出なかった。そのため,幕末三筆の唐様書家が主体となり,その門人によって明治初期の書道界へと引き継がれている。1880年,駐日清国公使何如璋(かじよしよう)が招いた学者楊守敬(ようしゆけい)の来日は,近代書道の開眼の契機となった重要なできごとである。楊守敬は博学で,地理学のほか金石学にも造詣深く,来朝に際して多数の金石文拓本を持参した。巌谷一六や貫名海屋門下の松田雪柯日下部鳴鶴(くさかべめいかく)などは,この拓本によって北魏の書法を会得した。また,このころ市河米庵門下の中林梧竹は北京におもむき,楊守敬の師,潘存(はんそん)について同じく北魏の書法を学んだ。かくして一般に六朝風と呼ぶ北魏の書の研究が急速に進み,唐様書家の書風に大きい変化をもたらした。日下部鳴鶴の弟子,比田井天来(ひだいてんらい)(1872-1939)は碑法帖など広く研究を進め,書学院を開いて多くの子弟を養成し,現代書道界に与えた影響が大きい。義務教育が始まり,書道においては御家流を改めて唐様系の書を採用し,巻菱湖の書が学校教育に受け入れられて,その系統の村田海石(1835-1912)の習字手本が多く用いられた。御家流はしだいに影をひそめつつあったおりしも,三条実美らによって平安時代の名跡を研究する難波津会が組織された。これは華族や大名家に秘蔵の名品を実査し,和様書道の源流を極めんとするもので,小野鵞堂や後年西本願寺で《三十六人集》を発見した大口周魚(1864-1920)もその会員であった。そして,平安時代の仮名の学問的研究と実技とを兼ね備えた尾上柴舟は,大口周魚に負うところがあり,田中親美による平安時代名跡の実査研究と復元的技術による複製制作は,和様書道の発展に寄与するところ多大であった。

 現代の書道界は第2次世界大戦後の1948年第4回日展に初めて書道部門が加わり,漢字,仮名,篆刻など古来の伝統を踏まえて現代美術界の分野に新しく加入することとなった。書道部門の日展参加は書道界に大きい刺激を与え,従来の民間における書道団体展から幅広い総合的な大美術展の新舞台に立って,会場芸術として急激な発展を促し,他の部門と競う時代を迎えたわけである。

 書の筆線は一定方向に運動する速さをもっている。この線の幅は筆圧によって種々に変化し,その筆圧と速度は書く人の精神の起伏によって千変万化の運筆となる。それが東洋独特の芸術にまで高められ,さらに日本の書は,日本人の精神によって形成されたということができるであろう。書は筆の線を主体とする造形芸術であり,その素材としての文字を墨一色で書くのが書である。文字は意志伝達のための意味をもつが,芸術性を拡大した場合,読むための文字性が薄くなることがあり,読めない文字ということが起こる。それは線と墨の構成上の問題であろう。加えて墨付きのない余白の部分も関連してくる。伝統的書道は文字を書くところに意味があったが,文字の束縛を離れて新しい芸術観に基づいた造形性を強調する革新的書道が生まれた。これは前衛書道と呼び,古典を基礎とする古来の伝統を打破する新しい書道分野である。これは海外において今後も注目されるであろう。
仮名
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イスラム世界において,書は諸芸術のなかで伝統的に最も高い位置に置かれ,聖典コーランの筆写をおもな仕事とした能書家の社会的地位もきわめて高いものであった。それは,主として啓示宗教であるイスラムの基本的性格に基づいている。アラビア語は単なる人と人との実用的な伝達手段であるばかりでなく,神と人との間のコミュニケーションの手段でもあった。つまりアラビア語とアラビア文字がもつ特殊な性格は,神の啓示がアラビア語で下され,しかも,それがアラビア文字でつづられたことから生まれたものである。したがって,アラビア語で書かれたコーランの他の言語への翻訳は,注解を別として公式には許されていない。アラブ諸国のみならず,アラビア文字を採り入れたイランやトルコにおいても,コーランをはじめとする諸写本の筆写は,近代的な印刷術の導入までの千年有余の長きにわたって繰り返し行われ,これによって多様な書体の発達が促進された。また,その背景には,偶像崇拝を厳禁しているイスラムの造形芸術(絵画,彫刻)に対する否定的な態度があることを忘れてはならない。さらに,イスラムの書の発達を促したのは,アラビア文字のリズム感にあふれる視覚的な美しさ,伸縮自在に変化する肥瘦のある曲線や直線の柔軟性,表音文字としてのアラビア文字特有の抽象性などである。イスラム美術の特質である抽象性,装飾性は書においてもきわめて顕著に認められ,つねに文字の形態美の追求が重視された。この点で,単なる形態的な美しさだけでなく,精神性の探究を目ざす日本と中国の書とは,おのずから視座を異にする。イスラムの書に用いられる伝統的な筆記用具はカラムqalam(葦ペン)で,葦の茎を斜めに切断して先端を細くとがらせるか,先端を扁平に削って割れ目を入れているが,ときには動物の毛を穂先にした筆を用いることもある。

 アラビア文字の書体は,その形態から二つのカテゴリーに大別することができる。第1は〈クーフィーkūfī〉体と呼ばれているイスラム最古の,荘重で力強く角ばった書体で,コーランの筆写,工芸品や建築の装飾,碑銘,貨幣の銘にも使われた装飾化,意匠化の著しいタイプである。第2は丸味を帯びた曲線的な筆記・印刷体で,その代表的なものが〈スルシーthuluthī〉体と〈ナスヒーnaskhī〉体である。〈スルシー〉体は長い縦の線を強調したモニュメンタルな書体で,〈ナスヒー〉体は10世紀ころから用いられ,12世紀にはイラクからイスラム諸国に広まり,今日まで最も広く用いられてきた書体の一つである。このほか,細身でコーランの筆写に頻繁に使用されている〈ムハッカクmuḥaqqaq〉体,文字の末端が鋭くとがっている〈ライハーニーrayḥānī〉体,語尾を装飾的に書き,主として私的な書簡や通俗的な書籍に用いられる〈ルクアruq`a〉体,行政機関で用いられた太く重々しい〈タウキーtawqī‘〉体などの書体が知られる。ちなみに,イスラムの書の古典的な伝統によると,スルシー,ナスヒー,ムハッカク,ライハーニー,ルクア,タウキーの六書(アルアクラーム・アッシッタal-aqlām al-sitta)が基本的書体とされている。以上のほか,イランの〈ターリークta`līq〉体,14世紀にタブリーズの書家ミール・アリーによって創始された繊細で流麗な〈ナスターリークnasta`lıq〉体,その変形で17世紀中期にヘラートのシャフィーアによって始められた複雑な〈シカスタshikasta〉体,古い〈タウキー〉体に代わりオスマン帝国のスルタンによって公文書に使用された〈ディーワーニーdīwānī〉体,〈ジャリーjalī〉体,西方イスラム世界のマグリブ地方で発達した〈マグリビーmaghribī〉体(12世紀以降)などの書体がある。
アラビア文字
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ヨーロッパ諸語で〈書〉を意味する語にカリグラフィーcalligraphyがある。これは,ギリシア語の〈美しい〉と〈書くこと〉の合成語kalligraphiaに由来し,今日でもなんらかの美的配慮に基づく書法を意味する。

 ギリシアの書法には,石に刻む直線的で角ばった碑文用の様式と筆記用の様式(書籍用書体および書簡用草書体)とがあった。書籍用書体の大文字majusculeは石彫碑文書体を適用したのに対し,書簡用草書体ではパピルスや羊皮紙に適した大文字から発展した丸味を帯びたアンシャル体uncialが用いられた。ギリシア書法に基礎をおくラテン書法でも,石彫碑文のモニュメンタルな大文字が中世を通じて書籍用にも用いられ,後世の大文字活字の原型をなす。しかし,これらの大文字は,題字や頭文字(イニシャルinitial)として使用されるが,多用されることはなくなる。一方,3世紀に,葦ペンに適した丸味のある筆線の美しさを備えたラテン語アンシャル体およびセミ・アンシャル体が現れ,以後500年間キリスト教世界の書籍用書体として重要な役割を果たした。ローマ帝国の崩壊後,西欧にはいくつかの地方的書体が生まれ,ラテン草書体から小文字minusculeが発展し,中世にはこれらの書体が標準的書籍用書体にまで高められていく。小文字は,ローマ地方行政令の書体から派生したメロビング体Merovingian(6世紀)としてフランク王国の文書で完成された。中世のカリグラフィーの形成の中心は修道院写本工房であり,ラン,コルビーなどの修道院で仕上げられたタイプが典型をなす(8世紀)。イングランドアイルランドで7~12世紀に行われた聖典用の書体は,ヨーロッパ大陸とは異なる発達を遂げ,アイルランド・サクソン美術の伝統に由来する多様なモティーフによる装飾頭文字を創出し,華麗で独創的なカリグラフィーを作り上げた(《ケルズの書》800ころ,等)。南イタリアでは躍動的で独特のリズムをもったベネベント体Beneventanが発達し,モンテ・カッシノ修道院工房を中心にダルマツィアにまで広がり,13世紀ごろまで隆盛をみた。

 カール大帝治下のカロリング朝では,古代復興政策の下に規則的で均衡のとれた明快なカロリング小文字Carolingian minusculeが使用され(《ゴデスカルク福音書》8世紀末,等),800年ころまでに帝国の諸工房に急速に普及した。しかし,12世紀末には書法は正硬な様式化へ向かい,いわゆる黒字体black letter(ドイツ字体)あるいはゴシック体Gothicが生まれた。細長い垂直線の勝ったコントラストの強いこれらの書体は,明快清朗なカロリング朝期の書体とは対照的に装飾的で,典礼書,ことに聖歌集においてその様式化は頂点に達した。すばやい筆致の黒字体の書簡用草書体には,13世紀教皇庁文書に代表されるイタリア尚書体や15世紀フランスの折衷体など多くのバリエーションがある。15世紀には,イタリア人文主義者たちの古典古代文化の研究を背景に,カロリング小文字を基にした明快なアンティカ体lettera antica(アンティック体)と,黒字体から派生したイタリック体Italic草書が生まれ,活版印刷機の発明に及び,前者は公式文書用のロマン・タイプの活字,後者はイタリック体活字の,それぞれ原型となった。カリグラフィーは,17世紀にイタリア,オランダ,フランスで流行し,モントージエ侯爵の注文になる《ジュリーの花飾》(1641)のような傑作も生まれる。18世紀には衰退をみるが,19世紀末に,機械文明に対して人間性の回復を目ざしたW.モリスらにより,手から直接生み出されるカリグラフィーの美が見直され,その研究が推進された。

 なお,文字を思わせる記号的な形象を描いた絵画作品(ボルス,ミショー,ミロなど)をカリグラフィーと呼ぶこともある。
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出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「書」の意味・わかりやすい解説


しょ

筆・墨などを用い、漢字・仮名の文字を書くことによって表現される造形芸術。書は中国と日本で発達した独特の芸術で、漢字のもつ造形的な要素と密接な関係がある。中国では古くから六芸(りくげい)(礼・楽・射・御・書・数)の一つに数えられ、官吏や知識人の必須(ひっす)の教養科目であった。運筆、構成、墨色、配置などの美や、作品に現れた筆者の風格が尊ばれ、東晋(とうしん)の書聖王羲之(おうぎし)の筆力が木に三分も墨が浸透するほどであったという故事にちなみ、入木道(じゅぼくどう)と称し、筆道(ひつどう)ともいった。書は文字を表記の手段としてだけでなく、筆者の芸術的創作として鑑賞の対象とする。したがって、印刷文字や日常の実用文書は書とはいわない。しかし、歴史的な実用書写である書状や写経などで芸術的に優れたものは書として鑑賞される。書体、書風、書法など時代や流派によりさまざまであるが、最近では古典を追究解明しようとする半面、従来の形式を離れた新しい分野の開拓が試みられている。

[小松茂美]

中国書道史

文字の発明と書の始まり

中国の文字つまり漢字は、紀元前2800年ころ、黄帝の史官であった蒼頡(そうきつ)が鳥の足跡を見て発明したといわれるが、もとより伝説の域を出ない。中国で文字が発明される以前は、縄の結び目によって数や事柄を伝えたといわれるが、文字の始まりはきわめて単純な線の組合せであった。その後、夏(か)、殷(いん)の時代(前1500ごろ~前1050ごろ)になって、亀甲(きっこう)や牛・鹿(しか)などの獣骨に小刀で線画のような文字を刻んだ甲骨文(こうこつぶん)が現れた。これらは、国家の大事、戦争や狩猟や農事を占った記録であり、清(しん)朝の末期(1899)に、殷の都の跡といわれる河南(かなん/ホーナン)省安陽(あんよう/アンヤン)県小屯(しょうとん)で多数の甲骨片や古印が発掘され、古代文字の存在が明らかになった。同じ遺跡から陶片に墨で下書きしたものも発見され、古代にすでに今日の筆に近いものや墨が用いられていたことがわかる。また殷時代には銅器に絵文字のような銘文が刻まれた。これを金文(きんぶん)という。近年これらの古代文字の芸術性が注目されるに至った。このように形象・表意文字である漢字は、創生の始めから書体、書風という造形的な要素が重視され、実用の記号文字としての範囲を越えて、芸術として鑑賞される宿命をもっていた。

 殷に続く周時代は西周から東周に分かれ、やがて春秋戦国(前8世紀~前3世紀)の世となって、封建諸侯の勢力は拡大し、周王室は衰えた。文書、記録の類は多くなり、文字の数も増したが、政治が地方に分立してから字形の混乱がおこり、正式な書体や略式の書体とともに装飾文字ができた。これは、銅器の鐘の銘文や銅貨幣、兵器の剣や矛(ほこ)などに金象眼(ぞうがん)して施された。後世「鳥書(ちょうしょ)」とよばれるデフォルメされた文字もその一つである。

 また石鼓(せっこ)とよばれる太鼓のような形の石に文字を刻んだものが10個、唐代に発見されたが、成立年代は東周あるいは戦国初期と推察され、石に刻まれた文字としては最古の遺物で、この石鼓文の書体を大篆(だいてん)あるいは籀文(ちゅうぶん)(周王室の史官、史籀(しちゅう)の書いた文字)とよぶ。

 この時代にはまだ紙はつくられておらず、帛(はく)(布)や竹に文書が記された。1930年代の後半、湖南(こなん/フーナン)省長沙(ちょうさ/チャンシャー)の古墳から、帛に書かれた絵と文字からなる文書が発見され、また1950年代の初め、同じ長沙遺跡から、竹の細長い片に墨書された竹簡(ちっかん)が発見された。これらは副葬品の目録とみられ、戦国末期の楚(そ)のものと認められている。肉筆による古代の筆写体文字の最古の資料として貴重である。

[小松茂美]

書体の分化と発展

周が滅び戦国時代を経て、やがて秦(しん)(前221~前206)が天下を統一すると、始皇帝は自国の文字を中心にして、混乱していた書体の統一を図った。統一以前の文字を大篆(籀文)とよぶのに対し、統一後の文字を秦篆(しんてん)または小篆(しょうてん)という。始皇帝は各地に自らの頌徳(しょうとく)碑を建設させたが、大臣の李斯(りし)は始皇帝のために多くの刻石に筆を振るった。現存するものに始皇28年(前219)の紀年のある『泰山刻石(たいざんのこくせき)』『琅邪台刻石(ろうやだいのこくせき)』がある。あらゆる制度文物を統一しようとした始皇帝は度量衡も官製の原器をつくり、秤(はかり)に詔書を刻んで民間に配布した。

 秦が滅びたのち、漢の高祖は都を長安に定めた。漢時代は前漢(前202~後8)と後漢(ごかん)(25~220)に分かれるが、当初は秦時代の篆書がそのまま用いられていた。しかし、装飾的で複雑な篆書は文書の作成に不便で、簡素化された隷書(れいしょ)が下級官吏の間で発明され(隷は賤(いや)しい者の意)、やがて一般もこれを用いるようになった。初期のものを古隷(これい)といい、後漢のころの字形の整った左右均整の華麗な字体を八分(はっぷん)という。篆・隷は縦横の字画が均整で、終わりの筆を右にはねるようにして止める。これを波勢(はせい)という。漢時代は一般的には隷書が用いられたが、印や鐘銘など荘重な書体を必要とする箇所にはまだ篆書が用いられていて、当時盛んになった碑は、頭部の題字だけは篆書で書くことが行われた。これを篆額(てんがく)(額は頭部の意味)といい、現在でも碑文にこの形式を踏むことがある。

 漢末には、隷書のなかで使用頻度の高い文字は徐々に単純化されて草書(そうしょ)が現れた。これを古草(こそう)という。古草から章草(しょうそう)が生まれた。漢の章帝が発明したとも、皇帝に章奏する書に用いたからともいわれる。この時代の草書は篆・隷の影響で、おもな字画や終わりの筆は下に続けず右にはね出すのが特徴である。のちに草書は下の字画へ続けて流すようになり、連綿体(れんめんたい)が生まれた。また隷書の速書きから行書(ぎょうしょ)が生まれた。行書は漢の劉徳昇(りゅうとくしょう)の発明といわれる。これと前後して今日の楷書(かいしょ)も形成された。こうして漢末には篆・隷・草・行・楷の漢字の五体がほぼ出そろい、以後は字体の変化はなく、書風が問題にされるようになる。

 20世紀の初め、中国の西域(せいいき)地の楼蘭(ろうらん)、敦煌(とんこう)、居延(きょえん)などの遺跡から、各国の学術探検隊によって、1万2000点に及ぶ漢・晋(しん)時代の木簡(もっかん)が発掘された。木簡は、木をそいで1片に1行10字前後の文字を墨書したもので、この木片を簾(すだれ)のように編んだものを冊(さく)という。また1972年に前漢時代の二つの墓(馬王堆(まおうたい)1号墓と2号墓)からは多数の竹簡が発掘された。これらの木簡・竹簡は日常の記事や公用書を筆記した実用の書で、用筆もきわめて簡略で、書かれた年が記してあるものが多く、漢から晋に至る字体の成立発達過程をたどる史料として重要である。

 木簡とともに西域出土の肉筆史料として写経がある。これらは紙に筆・墨を用いて、通常の行・草よりやや謹厳な楷書風の筆法で書かれている。ところで、紙は後漢の初期に蔡倫(さいりん)によって発明されたと伝えられる。それ以前は木簡のほかに絹の布(帛)があったが、高価であった。紙の普及は書の発達に重大な影響を及ぼした。手に持って書いた木簡から、机のような平面の上に紙を広げて書くようになり、書写材料の変化は、当然、運筆の姿勢にも変化を及ぼし、紙に書写することによって、書はいっそう芸術的に表現されるようになった。後漢時代の多くの美しい隷書の碑は、まず紙に書いてから石工が刻んだものと考えられている。

 この時代の書家には、篆・隷に曹喜(そうき)、章草に蔡邕(さいよう)、杜度(とたく)、張芝(ちょうし)らがおり、また後漢の許慎(きょしん)は『説文解字(せつもんかいじ)』を著して漢字の造字法や転用法を説いた。

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王羲之の出現と中国書道の確立

漢の滅亡(220)ののち、魏(ぎ)・蜀(しょく)・呉(ご)の三国の対立時代となり、晋(しん)が統一するが(265)、やがて北方民族に押された漢民族は南に移って東晋を建て、揚子江(ようすこう)流域には華やかな六朝(りくちょう)文化が栄えた。

 漢時代におこった書は、魏の鐘繇(しょうよう)、東晋の王羲之(おうぎし)、王献之(おうけんし)が出るに及んで、中国書道の最高峰となった。

 王羲之は官名によって王右軍ともよばれる。古来の書の表現方法を集大成し、貴族的な清明な書風で、楷・行・草の三体の書芸術を完成し、書聖と仰がれる。その影響は中国、日本を通じ、広く長く後世に及んだ。羲之の書として伝えられるものに、行書の『蘭亭序(らんていじょ)』『集字聖教序(しゅうじしょうぎょうのじょ)』、草書に『十七帖(じょう)』『喪乱帖(そうらんじょう)』『孔侍中帖(こうじちゅうじょう)』、楷書に『東方朔画賛(とうぼうさくがさん)』『楽毅論(がっきろん)』がある。これらはいずれも真蹟(しんせき)は伝わっていない。臨模(手本を見て書く)か双鉤填墨(そうこうてんぼく)(真蹟の上に薄い紙をのせ細い筆で輪郭をとり、これを墨で埋める、いわゆる籠字(かごじ))したり、それをさらに石に刻み拓本にとったものである。羲之の書はほとんどが尺牘(せきとく)(手紙)で、有名な『蘭亭序』も一字の大きさは約2センチメートル、いずれの文章も短いが、一字ごとにくふうが凝らされ、書としての妙が尽くされている。

 王献之は羲之の第7子で、若いときから書に優れ、つややかさは父をしのぐとさえいわれた。作品には『洛神賦(らくしんふ)』(楷)、『中秋帖(ちゅうしゅうじょう)』(草)などがあるが、これも真蹟は伝わっていない。父を大王、献之を小王とよび、この2王によって中国書道の基礎は確立された。

 晋に続く南北朝(420~534)には仏教の影響で写経が盛んになり、楷書で美しく書かれた写経体が生まれた。また南朝のころに雑体(ざったい)の書が流行し、これは唐代まで続いた。これは篆・隷をデザイン化した装飾文字で、正倉院の『鳥毛篆書屏風(びょうぶ)』にみられるような華麗な色彩を施した工芸品が室内装飾に使われた。

 江南に対し華北の地に建ったモンゴル系の北魏(ほくぎ)には、碑、磨崖(まがい)、墓誌(ぼし)など多くの石刻があり、角張った緊密な構成と剛健な書風で注目される。ことに墓誌の類は雄偉な楷書で刻され、地上に建てず墓中に埋められたので、風化を免れており、近世になって発掘され再認識されている。

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書風の発達

隋(ずい)の南北統一はわずかの期間にすぎなかった(589~618)が、隋によって築かれた新文化は唐(618~907)に受け継がれ、長い平和によって文学、芸術の花を開き、書道の黄金時代を現出した。このころ、遣唐使によって日本にも書の名品が数多く伝わり、習字が盛んに行われるようになった。隋・唐時代はとくに王羲之の書風が重んぜられた時代で、隋代の釈智永(しゃくちえい)は王羲之7世の孫にあたり『真草千字文(しんそうせんじもん)』を書いている。初唐に入ると、品格ある書風の虞世南(ぐせいなん)(『孔子廟堂(びょうどう)碑』など)、方正峻厳な書の欧陽詢(おうようじゅん)(『九成宮醴泉銘(きゅうせいきゅうれいせんのめい)』など)、初唐の楷書の頂点ともいえる清麗な書を残した褚遂良(ちょすいりょう)(『雁塔聖教序(がんとうしょうぎょうのじょ)』など)の三大家が出た。また科挙(かきょ)(官吏採用試験)の科目の一つに書が取り入れられ、書道が政治家や官吏になるための必須(ひっす)の教養とされた。

 唐の太宗皇帝(在位627~649)は書に対するなみなみならぬ情熱をもち、自身も『温泉銘』などで知られるような名手であったが、王羲之の書を熱愛し、広く天下に詔して羲之の真蹟を集め、写させた。なかでも永年求めていた『蘭亭序』を手に入れると、数多く臨模させ、真蹟は崩御の際、棺に入れて葬らせた話は有名である。こうして王羲之の書風は広く世に伝えられ、唐代の書道の隆盛に拍車をかけたばかりでなく、わが国にも伝えられて、日本書道にも大きな影響を及ぼした。

 唐の中期になると、こうした風潮に飽き足らず、新しい書風が生まれた。孫過庭(そんかてい)は『書譜(しょふ)』を著して従来の伝統を尊重すべきことを説いたが、唐の中興を成し遂げた玄宗(在位712~756)の時代には、李白(りはく)、杜甫(とほ)らの詩の全盛と呼応して、剛直重厚な書風の顔真卿(がんしんけい)(『争座位帖(そうざいじょう)』など)をはじめ、李北海(りほっかい)、賀知章(がちしょう)、徐浩(じょこう)ら多くの著名な書家を輩出した。また漢・秦にさかのぼって篆・隷を研究しようとする復古主義の傾向や、張旭(ちょうきょく)(草書帖)、懐素(かいそ)(草書千字文)のように、新しい草書による革新的な書の追究は、次の宋(そう)・元(げん)・明(みん)時代の狂草体(感興に任せて速いスピードで書く草書)の先駆となった。

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宋代以降の書

唐末の混乱から天下を統一した宋(960~1279)は、北宋から南宋へおよそ320年続くが、このころになると、王羲之らの筆法を学ぶには、複製のさらに複製となって、真蹟とはあまりにも遠く、形骸(けいがい)化し、かわって独特の浪漫(ろうまん)的な書風が生まれた。また古代の篆書への関心がいっそう高まったのもこの時代の特徴である。米芾(べいふつ)(元章)は書画ともに優れ、書は行書を得意とした(『蜀素帖(しょくそじょう)』など)。蘇軾(そしょく)(東坡(とうば))は文学と書で当代随一といわれ、豪放な書風で後世に影響を及ぼした(『黄州寒食詩巻』など)。また蔡襄(さいじょう)は政治家・文人として優れ、楷・行をよくし、黄庭堅(こうていけん)は草書に妙味をみせた。これら宋の四大家のほかに、北宋の徽宗(きそう)も独特の書を残した。徽宗は帝王としては失敗したが、文化興隆のうえでは歴史に名を残す功労者である。自身書画をよくし、この時代に文房具などの趣味が盛んになったのも徽宗の力によるところが大きい。南宋では徽宗の子の高宗も優れた楷書を残している。また張即之(ちょうそくし)は禅思想による独特の書をかいた。宋代には諸産業がおこり、書道文化に関係の深い紙・墨・筆などの特産品が各地に現れた。また印刷術が発達して、手による書写にかわって、印刷による書籍が普及したのもこの時代の大きな特色である。

 モンゴル民族の建てた元王朝(1271~1368)では、趙子昂(ちょうすごう)が出てふたたび王羲之への古法が復活した。また宋・元時代に盛んになった禅宗の僧の筆跡は、書法に拘束されない自由な筆法で人格の発露とみられ、ことに日本の鎌倉期に墨跡とよばれて珍重された。

 明(みん)代(1368~1662)末期になると、いままでにない長く大きな条幅が盛んに書かれるようになり、そうした紙幅の形式にあうような連綿体の草書が流行した。

 満州から興った清(しん)(1616~1911)の諸帝も書を好み、漢碑や唐碑の調査、金石文の研究も盛んになった。また古銅器の発見や整理から、元や明時代に生まれた文人による篆刻(てんこく)がこの時代にさらに発達した。いわば清時代は中国の書の大成の時期といえる。しかし全体の傾向としては、時代の下るにしたがって低下の傾向をたどったのはやむをえない。第二次世界大戦中の中国では、知日家としても知られる郭沫若(かくまつじゃく)の書名が高い。戦後の文化革命以後は文字改革が行われ、簡略化が進められている。また考古学研究が全土にわたって活発に行われ、それによる書道史の新しい発見が期待されている。

[小松茂美]

日本書道史

中国書道の影響

日本における文字の使用は漢字の伝来に始まる。かつてはそれに先行する「神代文字」の存在が主張されたこともあったが、今日では否定され、日本は固有の文字をもたなかったという結論に達している。1世紀なかば中国の後漢(ごかん)の光武帝(在位25~57)のとき、北九州の一角にあった奴国(なのくに)の王がもらったという「漢委奴国王(かんのわのなのこくおう)」の金印が文字遺品として最古のものである。『古事記』に応神(おうじん)天皇のとき王仁(わに)が百済(くだら)から来日して『論語』10巻、『千字文』1巻を貢進したとあるが、大和(やまと)朝の早い時期から朝鮮半島とは密接な関係があり、中国へもたびたび日本から使を派遣したことが中国の『後漢書』『魏志(ぎし)』などに記録されている。5世紀ころには日本でも漢字の学習が盛んになったことは、各地の古墳から出土する鏡や埼玉県稲荷山(いなりやま)古墳出土の太刀(たち)の象眼(ぞうがん)銘、「宇治橋断碑(うじばしだんぴ)」などの古碑、「法隆寺薬師光背銘(ほうりゅうじやくしこうはいのめい)」などから想定することができる。

 6世紀になると漢字・漢文の学習が本格的になり、607年(推古天皇15)聖徳太子は小野妹子(おののいもこ)を隋(ずい)に派遣して、中国文化を直接日本に取り入れた。これより仏典も輸入され、墨・紙・筆の製法も伝えられた。聖徳太子の真筆とされる『法華義疏(ほっけぎしょ)』は、現存する最古の肉筆の書としてきわめて重要である。こうした日本の書の黎明(れいめい)期は六朝(りくちょう)風の影響を強く受けている。

 奈良時代(710~783)は7代約70年続くが、この間に中国では隋が滅びたのち唐が大陸を支配し、長い安定期に入る。日本は唐と修交を続け、前後6回にわたる遣唐使の派遣によって、唐都長安の流行がそのまま伝わり、唐の文物制度がほとんど採用された。唐の書家の名跡や、王羲之(おうぎし)、王献之らの精妙な模本も入って、当時の人々が直接それらを学習していることは注目に値する。日本人の手になる唐風の優れた書として、聖武(しょうむ)天皇の宸翰(しんかん)『雑集(ざっしゅう)』、光明(こうみょう)皇后の臨書『楽毅論(がっきろん)』『杜家立成雑書要略(とかりっせいざっしょようりゃく)』などがあり、これらは整然とした楷・行書で書かれていて、唐の専門家の書と比べても遜色(そんしょく)がない。

 飛鳥(あすか)時代に渡来した仏教は、天平(てんぴょう)年間(729~749)国をあげて信仰されるようになり、国立の大規模な写経所が設けられ、仏教にかかわる文物が多く残された。なかでも写経は書の遺品としてもきわめて重要である。「正倉院文書(もんじょ)」とよばれる約2万点の古文書のなかには、写経生が王羲之の書を手本として習字した落書きが残されている。また同文書の一つである『東大寺献物帳』によれば、20巻に及ぶ王羲之の臨書があったことが記されており、当時、王羲之の書法がもっとも珍重されていたことがわかる。

[小松茂美]

和様書道の開花

平安時代は日本における書の一つの頂点をなす時代である。その初期は前代に続いて唐文化の移植が盛んに行われ、弘法(こうぼう)大師空海(くうかい)や伝教(でんぎょう)大師最澄(さいちょう)、橘逸勢(たちばなのはやなり)らが入唐(にっとう)して晋(しん)・唐の書風を会得し帰国したが、その際、仏画・仏具とともに唐の書家の筆跡類も持ち帰った。空海はこの時代の能書の代表的存在で、最澄にあてた手紙『風信帖(ふうしんじょう)』、『三十帖冊子』は王羲之風を基調とした重厚端麗な書体で書かれ、後世に深い感化を及ぼした。また詩文に長じた嵯峨(さが)天皇は空海について書を学び、『光定戒牒(こうじょうかいちょう)』などの雄渾(ゆうこん)な書を、橘逸勢は『伊都(いと)内親王願文(がんもん)』で唐風の行書を残している。この空海、逸勢、嵯峨天皇の3人を後世「三筆(さんぴつ)」とよんだ。このほかにも、空海とともに入唐した天台宗の開祖最澄(『久隔帖(きゅうかくじょう)』など)、藤原敏行(としゆき)(『神護寺鐘銘』など)は唐代最高の書法を今日に伝えている。

 平安中期になると、盛大な唐も衰運に傾き、宇多(うだ)天皇の寛平(かんぴょう)6年(894)菅原道真(すがわらのみちざね)の進言によって遣唐使が停止されると、和様の書がおこり、日本独自の書芸術を高めていった。10世紀に小野道風(おののとうふう)(『屏風土代(びょうぶどだい)』『玉泉帖(ぎょくせんじょう)』など)は王羲之から出発した雄渾豊麗な草書で古今に優れ、藤原佐理(すけまさ)(『詩懐紙(しかいし)』『離洛帖(りらくじょう)』など)は唐様(からよう)を離れて自由奔放な筆跡を残し、藤原行成(ゆきなり)(『白氏詩巻』など)は、官は権大納言(ごんだいなごん)に進み、流麗な書風で世尊寺(せそんじ)流の祖となった。この3人の書は野蹟(やせき)、佐蹟(させき)、権蹟(ごんせき)とよばれ、いわゆる「三蹟(さんせき)」として、前期の三筆とともに日本書道の黄金期を築いた。

 中国から渡来した漢字は書写や記録に便利だったが、日本語で情感や思想を表現するには表記上、無理があった。そこで、漢字の音(おん)だけを借用して一字一音式に国語を書き出すくふうがなされ、『万葉集』のような和歌を詠む場合に用いた。これを後世「万葉仮名(まんようがな)」といい、楷書で書かれたので真仮名(まがな)という。これを草書体で書いたものを草仮名(そうがな)といい、さらに大胆に書き崩したのが女手(おんなで)という書体になった。女手とは、男子は漢字を学ぶ必要から楷・行書を主としたので男手(おのこで)というのに対し、漢字の知識に乏しい女性専用文字という意味であったが、実際には男性も用い、のちに女手は平仮名(ひらがな)とよばれるようになった。紀貫之(きのつらゆき)は『土佐日記』の冒頭、「男もすなる日記というものを女もしてみんとて」と女性作者になりすまして書いているように、女手すなわち仮名で歌や文章を綴(つづ)ることがこのころから盛んになった。貫之は『古今和歌集』の撰者(せんじゃ)の一人として仮名書きの序文を書いているが、漢詩漢文学の衰退にかわって和歌が大流行し、貴族社会の日常教養に不可欠のものとなった。新しい日本文字である仮名は書道に革命をもたらした。多くの能書家が出て競い合い、漢字と調和した気品高く情趣ある、いわゆる上代様(じょうだいよう)とよばれる仮名書きの和様書道が完成、優れた作品を生んだ。平安前期の仮名の代表的作品『寸松庵色紙(すんしょうあんしきし)』(伝紀貫之)、『継色紙(つぎしきし)』(伝小野道風)、『升色紙(ますしきし)』(伝藤原行成)は、散らし書きの構図のなかに仮名の感覚的な美を盛り込んでいる。

 平安中期から鎌倉前期まで、10世紀から13世紀ころまでに書かれた仮名書きの作品(多くは和歌集)を古筆(こひつ)とよんでいる。古筆のもとの形は、1冊の冊子本か1巻の巻物であったが、のちに近世初期に茶の湯が盛んになり、茶室の掛物に使われるようになって、これらの冊子や巻物は一紙、半紙に切断されて多くの断簡となり、これらは「切(きれ)」といって諸家に愛蔵された。有名なものに『貫之自家集切』、3種の異なった筆跡を含む『高野切(こうやぎれ)』(古今和歌集断簡)、『石山切(いしやまぎれ)』などがあり、筆者はほとんど推測の域を出ないが、当時能筆家として名が高かった紀貫之、藤原公任(きんとう)、藤原行成らの名があげられてきたが、なかには研究の結果、源兼行(かねゆき)、藤原伊房(これふさ)、藤原基俊(もととし)、藤原定信(さだのぶ)らの真蹟が確認されている。

 仮名書きの華麗な書風は料紙の工芸美を生み、染紙(そめがみ)、唐紙(からかみ)、雲紙(くもがみ)、墨流しなどの美しく加工した紙が用いられた。唐紙はもと中国から渡来したものだが、平安時代になると国産品の美しい唐紙を生産した。これは、胡粉(ごふん)を刷(は)いた地に、雲母(うんも)で文様をすり出したものである。なかでも平安後期の傑作『本願寺本三十六人集』(1112年ころ書写)は20人ほどの能書家の分担執筆、いわゆる寄合書(よりあいがき)であるが、唐紙のほかにいろいろの紙を用い、それを、破り継ぎ、切り継ぎ、重ね継ぎなど精巧な継紙(つぎがみ)の技法を凝らして変化をつけ、なおその上に装飾下絵(そうしょくしたえ)や金銀の箔(はく)を散らして料紙の艶麗(えんれい)変化の妙を尽くしている。こうした料紙の工芸美は仮名ばかりでなく、写経にまで及び、『平家納経(へいけのうきょう)』『久能寺経(くのうじきょう)』『扇面法華経(せんめんほけきょう)冊子』などの装飾経にも及んだ。

[小松茂美]

書道流派の発生

平安末期から鎌倉時代にかけて貴族階級の衰微と武家階級の台頭という社会現象に伴い、仮名書道は概して振るわなくなった。藤原忠通(ただみち)は粘りのある重厚な書をかき、後世、法性寺(ほっしょうじ)流とよばれた。『千載和歌集』の撰者として知られる藤原俊成(しゅんぜい)は鋭い筆致をみせながら奇癖に富んだ独特の書風をたて、のちに俊成流とよばれた。その子定家(ていか)は『新古今和歌集』を撰し、いわゆる定家流とよばれる書風をおこした。平安朝の能書家藤原行成の子孫は世尊寺流を継いで、宮廷の右筆(ゆうひつ)として書道界の中心勢力となったが、鎌倉末期には世尊寺流の流れをくむ伏見(ふしみ)天皇の皇子尊円(そんえん)親王の青蓮院(しょうれんいん)流が広まった。これは御家(おいえ)流として室町~江戸時代を通じて幕府・朝廷の公私の文書の標準書体に用いられ、一般にも個性のない低俗な書体として流布した。このように世襲による書法の伝統を伝える努力もあったが、いたずらに因襲的な様式を授受するにとどまった。

 当時ややもすれば沈滞ぎみであった鎌倉期の書道に清新の気を吹き込んだものは、禅僧によって中国から移入された宋(そう)・元(げん)の書道である。鎌倉時代には大陸との交流が復活し、栄西(えいさい)、道元(どうげん)、俊芿らは入宋(にっそう)して、当時の新興仏教であった禅宗を日本に伝えるとともに、蘇東坡(そとうば)や黄庭堅らの書風を紹介し、また中国から蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)(建長寺開山)、無学祖元(むがくそげん)(円覚(えんがく)寺開山)、一山一寧(いっさんいちねい)ら高僧が相次いで来朝帰化した。禅宗の簡素で剛直な精神と生活態度は武士階級の共感をよび、京都、鎌倉を中心に崇敬された。これら禅僧の書は技法を超えた破格法外の書として尊ばれ、墨跡とよばれる。清雅な草書に優れた夢窓国師(むそうこくし)、気宇雄大な大燈(だいとう)国師の遺墨はこの時代の代表的なものといえる。禅僧以外では日蓮(にちれん)が気概、品格ともに優れた書を残している。

 墨跡の影響は天皇や公卿(くぎょう)にも及んで、宸翰様(しんかんよう)とよばれる気品ある独特の書風を生んだ。後深草(ごふかくさ)、伏見(ふしみ)、花園(はなぞの)、亀山(かめやま)、後宇多(ごうだ)、後醍醐(ごだいご)ら歴代天皇はいずれも従来の宮廷の和様書道にない宋風の影響を受けた書を残した。ことに伏見天皇は歴朝中屈指の能書帝として名高く、後醍醐天皇は力に満ちた覇気あふれる書を残し注目される。

 室町時代は戦乱相次ぎ、書道は和漢ともに低調であったが、東福寺の了庵桂悟(りょうあんけいご)は明(みん)に留学して王陽明と交わった。大徳寺の一休宗純(いっきゅうそうじゅん)は豪放な書を残し、圜悟(えんご)禅師の墨跡を茶道の祖村田珠光(じゅこう)に与えたが、これより茶道で禅僧の墨跡を重んずる風がおこり、墨跡といえばただちに禅僧の書をさすようになった。またこの時代に懐紙、色紙、短冊(たんざく)などの使用が盛んとなり、やがてそれらの寸法が規格化され、料紙や書式が整った。

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和様の再興と唐様の展開

打ち続く戦乱を経て天下は統一され、迎えた江戸時代(1603~1867)は革新の気がみなぎり、久しく沈滞していた和様書道も活気を呈し、近衛信尹(このえのぶただ)、本阿弥光悦(ほんあみこうえつ)、松花堂昭乗(しょうかどうしょうじょう)のいわゆる「寛永(かんえい)の三筆」が出て、ともに伝統を破って新しい書風を樹立した。とくに本阿弥光悦は絵画、工芸の分野でもたぐいのない創造性をもって新境地を開いた。烏丸光広(からすまみつひろ)は歌人としても有名で、初め光悦に書を学び、一時は定家流に傾いたが、のち自由奔放な性格そのままに闊達(かったつ)な独自の書風を展開した。

 一方、禅宗の一派である黄檗(おうばく)宗の僧たちによって明(みん)との交流が盛んになり、唐様(からよう)の書も新たな展開をみせた。

 4代将軍徳川家綱のとき、1654年(承応3)隠元(いんげん)が明から来朝帰化し、宇治に黄檗山万福寺(まんぷくじ)を建てたが、その穏和な書は人柄とともに世に親しまれ、同じころ来朝した独立(どくりゅう)は本国においてすでに書名が高く、草書に巧みであった。こうして明の書風が伝えられると、気迫に富む唐様の書が流行し、北島雪山(せつざん)は長崎で明の文徴明(ぶんちょうめい)の技法を研究して江戸時代における唐様の先駆者となった。雪山の門下、細井広沢(こうたく)は師より相伝の執筆法を著し、江戸に唐様を広めた。広沢の『西湖十景』(東京国立博物館)は明の張寧(ちょうねい)の詩を楷・行・草・隷・篆(てん)の各体に書き分けたものである。江戸中期には長崎を門戸として、中国の法帖、碑拓や文献が舶来し、それらの翻刻によりわが国の唐様は一段と活気を呈した。幕末、江戸では市河米庵(いちかわべいあん)は宋の米芾に心酔し、書学の基礎に詳しく多くの著述を残した。京都では貫名菘翁(ぬきなすうおう)(海屋(かいおく))が日本に古くから伝わる唐時代の書跡に注目し、格調の高い唐様の書を完成した。巻菱湖(まきりょうこ)は晋・唐の書を尊び、書体の源流を研究し、平明な書をかいた。この3人を「幕末の三筆」という。

 これら専門の書家以外に文人墨客の書にもみるべきものが多い。江戸時代は文人趣味が流行したが、これは中国の明・清(しん)時代の文人墨客に倣って詩・書・画を重んじ、時流には超然として、教養や個性的な人間性を表現したものである。越後(えちご)の人良寛(りょうかん)は王羲之、懐素を研究し、また小野道風の『秋萩帖(あきはぎじょう)』を習得して超脱自在の書境に至り、池大雅(いけのたいが)も超俗の書画を残した。このほか与謝蕪村(よさぶそん)、田能村竹田(たのむらちくでん)、大窪詩仏(おおくぼしぶつ)らがおり、頼山陽(らいさんよう)は米芾に傾倒して個性の強い書を残した。

 和様の書は江戸初期には活気もあり、それらの法帖もつくられて流布したが、その後流派を守るに汲々(きゅうきゅう)として低調であった。後期はわずかに加藤千蔭(ちかげ)、村田春海(はるみ)、香川景樹(かげき)らの歌人の書を数えるにすぎない。江戸時代は唐様の影響で行・草書が流行し、そうした時代を反映して書体字典が盛んに刊行された。行書字典の『行書類纂(るいさん)』(関克明選集)、草書字典の『草露貫珠(かんしゅ)』(水戸彰考館編)など数多く刊行されている。

[小松茂美]

現代書道の流れと展望

明治以後も唐様の流派はなお勢力を保っていたが、1880年(明治13)清の学者楊守敬(ようしゅけい)が1万点余の漢・魏・六朝・隋・唐の拓本を携えて来朝した。これまで日本でみることのなかった5、6世紀ころの北魏を中心とする碑法帖は書道界に多大の刺激を与え、楊守敬の指導を受けた日下部鳴鶴(くさかべめいかく)、巌谷一六(いわやいちろく)は書道界に新風を巻き起こした。ことに鳴鶴は門人の育成に努め、その流派は一時全国を風靡(ふうび)した。また中林梧竹(なかばやしごちく)は中国に渡って楊守敬の師の潘存(はんそん)に直接師事し、漢・魏・六朝の書法を研究して帰国し、芸術的な作品を発表して注目された。このほか西川春洞(しゅんどう)、中村不折(ふせつ)、俳人の河東碧梧桐(かわひがしへきごとう)らも六朝風の書家として知られる。中国では清末、篆・隷とあわせて篆刻に長じた書家が多いが、その影響で明治以後の書家で篆刻をよくする円山大迂(まるやまだいう)、桑名鉄城(てつじょう)、浜村蔵六(ぞうろく)5世らが出た。

 和様の書では、当時の極端な欧化主義に反発して大口周魚(おおぐちしゅうぎょ)、多田親愛(しんあい)に次いで田中親美(しんび)らが古筆を研究し、阪正臣(ばんまさおみ)、小野鵞堂(がどう)らの温和な書風が一時流行したが、のちに尾上柴舟(おのえさいしゅう)、吉沢義則(よしざわよしのり)が出て上代様の仮名を唱えた。また画家の吉川霊華(きっかわれいか)は孤高の存在を示した。

 日下部鳴鶴の弟子比田井天来(ひだいてんらい)は師風に追随せず、碑法帖や木簡を研究し、古典美のなかから心象表現としての書の現代美を追究して新境地を開いた。彼は弟子にも独自の道を歩ませ、門下から多くの前衛作家を出した。

 明治以来、学校教育が急速に普及し、習字が教科に組み入れられて書道塾も盛んになった。これとともに各種の書道団体が結成された。1924年(大正13)の日本書道作振会をはじめとし、泰東書道院、東方書道会、大日本書道院その他ができ、条幅のような大作を素人(しろうと)も書くようになり、書家はその技量を展覧会の大作で競うようになった。第二次世界大戦後は書も動揺混乱の時期があったが、まもなく再興し、毎日書道展、日展の権威ある書道展のほかに大小の書道展が催され、書はもはや書斎や教場のものではなく、展覧会作品を中心として、一般にも鑑賞されるようになった。戦後多くの著名作家が輩出したが、豊道春海(ぶんどうしゅんかい)、鈴木翠軒(すいけん)、安東聖空(あんどうせいくう)、西川寧(やすし)、手島右卿(てじまゆうけい)、日比野五鳳(ひびのごほう)らは文化功労者に選ばれ、ことに日比野は仮名の作品に独自の境地を開いた。一方、書のブームにのって書道塾も空前の盛況をみせている。

[小松茂美]

墨象

戦後の一つの傾向として、従来のような詩文を書き連ねることに飽き足らず、保守・伝統に反抗して、文字をかかない書の「前衛書道」または「墨象」とよばれる書芸術がおこった。読むことができない草書や行書の詩文や変体仮名よりは、抽象絵画と同じく表現主義的な立場から、自由に書に造形美を求めるべきだとして、上田桑鳩(そうきゅう)、井上有一(ゆういち)、宇野雪村(せっそん)、森田子龍(しりゅう)、篠田桃紅(しのだとうこう)らの作家が出た。前衛書道は書とは認めがたいとする人もいるが、彼らの大胆な試行提言は、保守的な書道に反省を促し、近代化に役だち、欧米の注目を集めたことは否めない。

[小松茂美]

『『書道全集』26巻・別巻2(1954~1968・平凡社)』『中田勇次郎編『書道芸術』20巻・別巻4(1975~1977)』『伏見冲敬著『書の歴史――中国篇』(1960・二玄社)』『伏見冲敬編『書道大字典』全2巻(1974・角川書店)』『小松茂美著『書のみかた――型と美』(1982・第一法規出版)』『上条信山編著『現代書道全書』全5巻(改訂新版・1979・小学館)』『小松茂美著『展望日本書道史』(1986・中央公論社)』


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百科事典マイペディア 「書」の意味・わかりやすい解説

書【しょ】

文字を素材とする造形芸術で,中国,朝鮮,日本などで発達した。中国ではすでに殷(いん)周代から甲骨文金石文にすぐれたものが見えるが,漢代になって字体の統一,専門書家の出現,さらに2世紀初めの蔡倫(さいりん)による紙の発明などによって盛んとなり,東晋の王羲之の出現で大いに発達した。日本へは中国から伝来し,独自の発展を遂げた。平安時代に仮名が生まれ,また小野道風が穏やかで均衡のとれた和様書道を創始,のち後京極流青蓮(しょうれん)院流世尊寺流など諸流派が発生した。→書体
→関連項目カリグラフィー古筆習字草仮名

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「書」の意味・わかりやすい解説


しょ

文字を素材とする造形芸術。書は中国,東晋の王羲之によって確立され,専門書家や文人がそれを発展させ,金石学 (宋) ,碑学 (清) による研究も行われた。殷代の甲骨文をはじめ,木簡,碑,金石文などが知られているが,古代の書は法帖として残るのみである。日本では巻子 (かんす) ,懐紙,短冊,色紙,条幅,屏風などに書かれた。漢字の書体には篆 (てん) ・隷・楷・行・草書の五体があるが,日本では中国風の書のほかに,平安時代に独特のかな書きと和様が生れた。西洋にはカリグラフィーという形式が別に存在する。

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