日本大百科全書(ニッポニカ) 「更紗」の意味・わかりやすい解説
更紗
さらさ
佐羅紗、沙羅沙、皿紗、佐良左とも記し、別名紗羅染(しゃむろぞめ)、華布(かふ)、印華布(いんかふ)という。とくに金箔(きんぱく)・金泥を施したものを金華布・金更紗と呼称する。
近世初頭より舶載された外国の模様染め布の総称で、主として木綿に手描き、あるいは型を用いて模様を染めたものをさす。インド、ジャワ製のものが多いが、タイ、スマトラ、セレベス、中国、イラン、ヨーロッパ製のものも含まれる。わが国で模倣製作されたものは、とくに「和更紗」とよぶ。「さらさ」の語は、今日日本だけで用いられている染色用語で、英語ではインド更紗にはチンツchintz、ジャワ更紗にはバティックbatik、ヨーロッパの更紗にはprinted cottonの名があてられている。しかし本来「さらさ」は輸入語と考えられ、その語源については、当時インド西海岸の要港であったスラートSulatが転訛(てんか)したものである(『紅毛雑話』)とも、ジャワ語のsrasah、ポルトガル語のsarassa, saraçs、スペイン語のsarazaなどからきたともいわれているが、いずれも確かな証拠はなく、今日では、もっとも古くから更紗を国外に輸出したインドで、16世紀末に極上の多彩な木綿布をさしたsaraso, sarassesの語(リンスホーテン著『東方案内記』)が、わが国に直接輸入されたとする説が支持されている。
[小笠原小枝]
インド更紗(チンツ)
インドの更紗は、他国に比べてもっとも古い歴史を有し、すでに紀元前後には遠く地中海地方に輸出されていたことが知られている。しかし遺品のうえでは17世紀以降、とくに18~19世紀のものがもっとも多く、それ以前のものではカイロの南部、オールド・カイロにあるフォスタットより発見された15世紀前後の更紗類が比較的古い資料といえる。
インド更紗の技術的な特色は、先媒染(さきばいせん)(染料に浸(つ)ける前に、媒染剤で文様を描く)と蝋(ろう)防染とが併用されることで、手描きの場合はカラムkalamとよばれる特殊なペンによって、型の場合は木型によって、媒染剤や蝋が布に置かれる。染料はインド茜(あかね)と藍(あい)が主体で、それに黒や萌黄(もえぎ)、黄色の彩りが加えられる。用途は寺院やテント用の掛け布、ベッドカバーなど室内装飾布としてつくられたものが多い。模様はクリシュナ神をはじめヒンドゥー教の神々やラーマーヤナ物語、マタ女神などを主題とした宗教的なものから、大柄な立ち木、鳥獣、人物、花鳥や幾何学的な模様など、製作された地域により、それぞれに特色のある多様なものがつくられている。
[小笠原小枝]
ジャワ更紗(バティック)
インド更紗に並び称される蝋防染を主体とした模様染め布で、手描きのものはチャンチンtjantingという特殊な工具を使って蝋置きするのを特色とする。染料はごく初期のものは白地に藍のみであったが、17世紀以降にソガ染料が加わり、いわゆるカイン・ソガとよばれる藍と茶褐色の色調のものが主流となる。茜系の華やかな色彩のものは18世紀に入ってジャワの北部の都市から発達していった。またこのころに木綿ではなく絹地のバティックもつくられている。19世紀後半には、手描きに対し、チャップtjapとよぶ型による蝋置きの技術が発達し、加えて化学染料の使用が始まることによって、ジャワ更紗は大きく変貌(へんぼう)してきた。ドド(礼装用巻衣(まきい))、サロン(腰衣)、カイン・カパラ(頭布(ずきん))など、服飾用布として製作されたものに優れたものがある。
文様は独特に様式化されており、1000から2000種を超えるモチーフがさまざまに組み合わされて、各種の文様がつくりだされる。モチーフには、非常に古くからインドネシアにある装飾文様に関連づけられるもののほか、インドや中国、あるいはヨーロッパの影響を示すものもある。とくに古典的な意匠としては、螺旋(らせん)風の連続文様を表す「パラン・ルサク」や、斜め縞(じま)の構成に一縞ずつ異なる文様を配した「ウンダリリス」、輪繋(つな)ぎ、輪違い、七宝(しっぽう)繋ぎの構成をもつ「カウン」文様などがあるが、これらは20世紀初頭まで貴族のみに用いられる禁制の文様であった。
[小笠原小枝]
ヨーロッパの更紗
ヨーロッパの模様染めは、17世紀前後に輸入され始めたインド更紗の美しさに触発されて急激に発達したもので、初期においては、文様も技法もインド更紗を模倣することから始められた。しかし17世紀後半から18世紀にかけて飛躍的に発達し、イギリスでは1676年にロンドンのウィリアム・シャーウィンによって、木版によるプリントが実用化され、18世紀初期スイスではチューリヒ、ジュネーブに更紗工房が設立され、そしてフランスでは、1760年にクリストフ・P・オーベルカンプChristophe Philippe Oberkampfによってジュイの捺染(なっせん)工場が設立された。とくに18世紀中葉における銅版の導入、続いて1783年スコットランドのトマス・ベルによる機械的なローラー・プリントの完成、19世紀の化学染料の開発は、ヨーロッパの更紗を量産へと向かわせ、アメリカその他の世界に大量に輸出されることになった。わが国で銅版更紗あるいはオーベルカンプとよばれている更紗は、こうした18~19世紀にかけてつくられたものである。
[小笠原小枝]
古渡更紗と和更紗
今日古渡(こわたり)更紗といって珍重される更紗類は、17~18世紀にかけて日本に舶載されたもので、その大半はインド製のものであるが、これらの更紗文様には、花卉(かき)、花樹、鳥獣、人物などのほか、ヨーロッパに輸出されたインド更紗とはまったく異なる意匠スタイルのものが含まれていることが特色といえる。たとえば旧彦根(ひこね)藩井伊家伝来の更紗類、および茶入れの仕覆(しふく)や裂帳(きれちょう)にみる古渡更紗には、扇、香袋、巴(ともえ)、紋尽(もんづくし)、銀杏(いちょう)、そのほか格天井(ごうてんじょう)とよばれる幾何学文様など、日本人の好みを強く反映した文様が認められる。近年、こうした日本に伝来する古渡更紗にきわめてよく似た文様の更紗がインドネシアのスラウェシ島のトラジャ人の間から多数発見された。そのなかにはオランダ東インド会社のマークを捺印したものもあることから、当時インドで、日本や中国、東南アジア向けの輸出用更紗が意識的に製作されていたことが想像される。これらの古渡更紗のデザインは江戸時代後期、『佐羅紗便覧』(1778)、『増補華布便覧』(1781)、『更紗図譜』(1785)となって発刊、流布し、いわゆる模倣更紗の製作の手本となった。
和更紗は、こうした渡り物の更紗に刺激されて、その異国的な模様を生かして各地で製作され始めたもので、堺(さかい)更紗や長崎更紗などの名が残っている。一般に型紙を用いて裂地に染料を摺(す)ったり、型染めと同じく型紙を用いて糊(のり)を置き、その後、引染(ひきぞ)めしたもので、用途は下着や胴服、ふとん表、風呂敷(ふろしき)などに限られていた。そのなかで鍋島(なべしま)藩でつくられた鍋島更紗のみは、模様の輪郭に木型を、その他の部分は、型紙を幾枚も用いて丹念に染め上げたもので、藩の御用達(ごようたし)や注文品としての風格を備えたものであった。
[小笠原小枝]