智光(読み)ちこう

精選版 日本国語大辞典 「智光」の意味・読み・例文・類語

ち‐こう ‥クヮウ【智光】

[1] 仏語。仏に備わる智慧。迷いの闇を打ち破ることから光にたとえていう。
※伝光録(1299‐1302頃)菩提達磨尊者「諸光の中に於ては、智光を上也とす。此は是れ世明也」
[2] 奈良時代の三論宗元興寺流の学僧河内国(大阪府)の人。元興寺の智蔵について三論宗を学ぶ。学友の礼光(頼光)が死んでのち、夢に彼が阿彌陀如来極楽浄土往生したさまを見、画工に命じてそれを描かせたものが、智光曼荼羅として知られる。「大般若疏」「法華玄論略述」「無量寿経論釈」などの著作がある。生没年未詳。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「智光」の意味・わかりやすい解説

智光
ちこう

生没年不詳。8世紀の元興寺(がんごうじ)の学僧。俗姓鋤田連(すきたむらじ)、のちに上村主(かみのすぐり)と改めた。河内(かわち)国(大阪府)に生まれ、9歳で出家し、安宿(あすかべ)郡の鋤田寺に止住した。のちに元興寺に移り、智蔵(ちぞう)のもとで三論教学を学んだ。智光は、天性聡明(そうめい)、智恵(ちえ)殊勝といわれ、『盂蘭盆経(うらぼんぎょう)』『大般若経(だいはんにゃきょう)』などの経疏(きょうしょ)を作製し、広く学徒のために仏教を読み伝えた。また、同門の礼光(らいこう)(頼光。生没年不詳)が浄土に往生したのを感得し、ただちに画工に命じて浄土の相を描かせて元興寺極楽院(ごくらくいん)内に掲げ、浄土往生の業を修した。この浄土変相図が「智光曼荼羅(まんだら)」である。智光の著述は多く、『浄名玄論(じょうみょうげんろん)略述』5巻、『般若心経(はんにゃしんぎょう)述義』1巻(いずれも現存)などがある。

[二葉憲香 2017年9月19日]

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改訂新版 世界大百科事典 「智光」の意味・わかりやすい解説

智光 (ちこう)

奈良時代の元興寺の僧。生没年不詳。俗姓は鋤田連(すきたのむらじ)(のち上村主(かみのすぐり)),母は飛鳥部造と伝える。幼少から仏教を学んで出家し,智蔵に三論を学んだ。現存する《般若心経述義》《浄名玄論略述》のほかに《無量寿経論釈》《法華玄論略述》をはじめ数多くの著作があり,当代有数の学僧であった。なお《日本霊異記》には出身の河内国安宿郡鋤田寺の僧として,〈智恵第一〉の智光が行基(ぎようき)の大僧正補任をねたんだが地獄に堕ちて行基の高徳を知り,蘇生した後には行基に帰依したとする話を伝える。また《日本往生極楽記》では,智光が同門の頼光の往生を夢に見て阿弥陀浄土図(智光曼荼羅)を描かせ,極楽坊でみずからも往生したと伝える。
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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「智光」の解説

智光 ちこう

709-780? 奈良時代の僧。
和銅2年生まれ。三論宗。元興(がんごう)寺の智蔵にまなぶ。学僧として知られ,「般若心経述義」「浄名玄論略述」など,おおくの著作をのこした。のち浄土教に帰依(きえ)。同門の頼光の死後,頼光が浄土に往生するのを夢でみて,のちに「智光曼荼羅(まんだら)」とよばれる浄土の場面をかかせたという。宝亀(ほうき)11年?死去。72歳?河内(かわち)(大阪府)出身。俗姓は鋤田(すきた)。

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世界大百科事典(旧版)内の智光の言及

【元興寺】より

…元興寺の後ろは興福寺南庭に接していたと考えられている。 元興寺は奈良時代から平安時代の初めにかけて,三論・法相等の教学の一方の中心として,三論では智光,法相では勝虞や護命等の学僧が輩出している。とくに智光は三論教学の伝統にたって浄土教学を研究し著述をあらわしたことから,日本浄土教の祖とされ,元興寺に伝わる浄土変相図は智光の描くところとして智光曼荼羅(まんだら)と呼ばれ後世特別の信仰を得るようになる。…

※「智光」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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