明石城跡(読み)あかしじようあと

日本歴史地名大系 「明石城跡」の解説

明石城跡
あかしじようあと

[現在地名]明石市明石公園

東を朝霧あさぎり川、西を明石川に画された洪積台地の南西端部(通称人丸山)に築かれた江戸時代の城跡。標高約二四メートル、前面の沖積地との比高は約二〇メートルの平山城。明石藩の政庁。元和三年(一六一七)七月信濃国深志ふかし(現長野県松本市)から小笠原忠真が一〇万石で入部、当初明石川西岸の船上ふなげ城に入った。同城は一国一城令により屋敷構とされていたことから、同四年将軍徳川秀忠より忠真の義父姫路藩主本多忠政とともに新城築城を命じられた。城地の選定にあたっては軍事・交通・商業活動などが加味されたといわれる。同年一〇月幕府から普請奉行として都筑弥左衛門・村上三右衛門、代官の建部与十郎が派遣され、工事費として銀一千貫目が下渡された。工事のうち主郭部の石垣や土塁などについては幕府の直営工事で、捨曲輪は幕府と小笠原氏との共同工事、武家屋敷は同氏の工事とされている。石垣と堀については入札による町人請負により進められたとされ、翌五年一月工事に着手、八月には早くも普請工事を完了して作事に移り、同年末には本丸御殿が完成し忠真が移ったといわれている。

城の縄張りは自然地形を巧みに活用し、台地上に本丸・二の丸・三の丸(のちの東の丸)など主郭部を設け、本丸の西側に西の丸(のちの稲荷曲輪)、台地南の麓に捨曲輪(のちの山里曲輪・三の丸・居屋敷郭)を配置していた。これらの施設の東側に千石せんごく(のちの箱堀)薬研やげん堀があり、北側には谷(のちの桜堀)を隔てて北出曲輪が設けられ、さらにその西にはこうの池(のちの剛ノ池)、南側の居屋敷郭の周囲には内堀をめぐらし、その外に中堀を、さらに家臣団の武家屋敷を隔てて外堀がめぐらされている。本丸の四隅には三層の艮・巽・坤・乾の櫓があり、西側に天守台が設けられていたが天守は造られなかった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

国指定史跡ガイド 「明石城跡」の解説

あかしじょうあと【明石城跡】


兵庫県明石市明石公園にある近世の城跡。京や大坂のすぐ西に位置し、付近には山陽道が通り、北には丹波国、但馬国への道が分かれ、南は明石海峡に面する水陸交通の要衝に立地する。台地の突端部に築かれ、北側は自然の谷を堀として、本丸を中心に、東側に二の丸、その東に東の丸が配され、南側に三の丸、西側には稲荷郭(くるわ)が設けられた。主郭部には穴太(あのう)積みによる石垣がめぐり、天守台は築かれたが天守はなく、本丸の四隅に三重櫓(やぐら)が造られた。そのうちの巽(たつみ)櫓と坤(ひつじさる)櫓が現存し、重要文化財になっている。城郭の外側には東、南、西に武家屋敷が展開する外郭があり、外周に外堀がめぐらされていた。1617年(元和3)、大坂夏の陣の戦功によって国替えとなった小笠原忠真(ただざね)は、現在の明石城跡より南西約1kmの明石川河口西岸にあった船上(ふなげ)城(明石市)に入城して、明石藩が成立した。翌年、2代将軍徳川秀忠から新城造営を命ぜられると、六甲山系が西に延び、明石川に区切られた台地の突端部に位置する人丸山を選んで1619年(元和5)に築城を開始し、1620年(元和6)には造営を終え船上城から移り住んだ。西国の外様大名の押さえの城として江戸幕府が重要視し、歴代、譜代・親藩大名が明石の地に封ぜられ、戸田松平家、大久保家、藤井松平家、本多家を経て、1682年(天和2)に越前松平家が入封、以後明治維新まで続いた。一帯は現在、明石公園になり、城跡は2004年(平成16)に国の史跡に指定。JR山陽本線明石駅から徒歩約10分。

出典 講談社国指定史跡ガイドについて 情報

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