日野皓正(読み)ひのてるまさ

日本大百科全書(ニッポニカ) 「日野皓正」の意味・わかりやすい解説

日野皓正
ひのてるまさ
(1942― )

ジャズ・トランペット奏者。タップダンサーでトランペットも演奏する父親に、幼児期よりタップ・ダンスを、9歳からトランペットを習う。13歳で在日アメリカ軍キャンプのダンス・バンドで音楽活動を始め、中学を卒業後ビッグ・バンドで演奏技術を身につける。その後、ピアノ奏者菊地雅章(まさぶみ)の誘いによって、先鋭的ジャズ・ミュージシャンの集まり「新世紀音楽研究所」に参加する。1964年(昭和39)ドラム奏者白木秀雄(1933―1972)のクインテットに参加、翌1965年このバンドでベルリン・ジャズ・フェスティバルに出演、ジャズ評論家ヨアヒム・ベーレントJoachim-Ernst Berendt(1922―2000)に賞賛され、ヨーロッパでの評価を高める。1967年初リーダー作『アローン・アローン・アンド・アローン』を録音。1968年菊地と双頭コンボ「日野=菊地クインテット」を結成。菊地の渡米によりグループ解散後は自己のバンドを率い、1969年アルバム『ハイノロジー』のヒットで日本のトップ・トランペッターの地位を獲得する。

 1970年渡米、1971年アルバム『ベルリン・ジャズ・フェスティバルの日野皓正』を録音。1973年静岡県沼津(ぬまづ)市に転居。1975年ニューヨークに移住し、アルト・サックス奏者ジャッキー・マクリーン、ギター奏者ラリー・コリエルLarry Coryell(1943―2017)らと共演、ピアノ奏者、編曲者ギル・エバンズオーケストラに参加。1979年、おりからのフュージョン・ブームにのってアルバム『シティ・コネクション』を発表、ふたたび日本での人気を盛り返す。1981年、菊地との共演作『ダブル・レインボー』を録音。1984年、東京・新橋演舞場にて歌舞伎役者5世中村勘九郎(かんくろう)(現18世中村勘三郎(かんざぶろう))らとの共演コンサート「ファンタスティック日野」を行う。1985年、『ニューヨークエクスプレス』を出版。1989年(平成1)、ブルーノート・レーベル初の日本人契約ミュージシャンとなり、アルバム『ブルーストラック』を制作する。

 1990年代に入り活動拠点をアジアに移し、アジア各国のミュージシャンによる「日野皓正&アジアン・ジャズ・オールスターズ」を結成、1995年から北米、アジア・ツアーを行う。1997年、台湾で行われた第16回国際芸術祭、シドニーで行われた日豪友好100周年記念コンサートに出演、アジア・太平洋地域との交流を深める。2000年ソニー・ミュージックと契約。2001年国際交流基金による派遣ミュージシャンとして、インド、パキスタン公演を行う。同年カンボジアの子供のためのチャリティ・コンサートをプノンペンで行う。その後、大阪音楽大学、同短期大学部客員教授としてミュージシャンの育成に力を注いだ。

 日野は菊地、渡辺貞夫と並んで世界的評価を得た日本のジャズ・ミュージシャンであり、また1950年代に渡米したジャズ・ピアノ奏者秋吉敏子に次ぐ、渡米ミュージシャンの第二世代に属する。彼らのもたらした情報が日本のジャズ・シーンに与えた影響は非常に大きい。

[後藤雅洋]

『『ニューヨークエクスプレス』(1985・講談社)』

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「日野皓正」の解説

日野皓正 ひの-てるまさ

1942- 昭和後期-平成時代のトランペット奏者。
昭和17年10月25日生まれ。少年時代から米軍キャンプなどで演奏。菊地雅章(まさぶみ)にさそわれ新世紀音楽研究所に参加。昭和40年白木秀雄クインテットのメンバーとしてベルリンジャズ祭に出演する。50年からニューヨークに本拠をおき活躍。平成14年アルバム「D・N・A」で芸術選奨。東京出身。

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