日野啓三(読み)ヒノケイゾウ

デジタル大辞泉 「日野啓三」の意味・読み・例文・類語

ひの‐けいぞう〔‐ケイザウ〕【日野啓三】

[1929~2002]小説家評論家読売新聞記者を経て文筆活動に入る。韓国人女性との結婚をめぐる経緯を描いた「あの夕陽」で芥川賞受賞。他に「抱擁」「砂丘が動くように」「台風の眼」「」など。日本芸術院会員。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「日野啓三」の意味・わかりやすい解説

日野啓三
ひのけいぞう
(1929―2002)

評論家、作家。東京に生まれる。1952年(昭和27)東京大学文学部社会学科卒業。同年読売新聞社外報部に勤務。ソウルサイゴン在勤。その体験を『ベトナム報道』(1966)として刊行する。早くから評論家として知られ、のちに小説も書く。『還(かえ)れぬ旅』(1971)、『此岸(しがん)の家』(1974。平林たい子賞)などを刊行。74年韓国人女性との結婚をめぐる経緯を描いた『あの夕陽』で芥川(あくたがわ)賞受賞。ほかに評論集『存在の芸術』(1967)、小説『天窓のあるガレージ』(1982)、『抱擁』(1982。泉鏡花賞)、『夢を走る』(1984)、『夢の島』(1985。芸術選奨)、『砂丘が動くように』(1986。谷崎潤一郎賞)、『どこでもないどこか』(1990)、『断崖(だんがい)の年』(1992。伊藤整文学賞)、『台風の眼』(1993。野間文芸賞)、『光』(1995。読売文学賞)、『天池(てんち)』(1999)、『梯(きざはし)の立つ都市(まち) 冥府(めいふ)と永遠の花』(2001)、『落葉 神の小さな庭で』(2002)などがある。

[金子昌夫]

『『光』(1995・文芸春秋)』『『日野啓三短篇選集』上下(1996・読売新聞社)』『『日野啓三自選エッセイ集――魂の光景』(1998・集英社)』『『天池』(1999・講談社)』『『梯(きざはし)の立つ都市(まち) 冥府と永遠の花』(2001・集英社)』『『落葉 神の小さな庭で』(2002・集英社)』『『此岸の家』(河出文庫)』『『抱擁』『あの夕陽』(集英社文庫)』『『砂丘が動くように』『夢の島』(講談社文芸文庫)』『『断崖の年』(中公文庫)』『『台風の眼』(新潮文庫)』

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「日野啓三」の意味・わかりやすい解説

日野啓三
ひのけいぞう

[生]1929.6.14. 東京,渋谷
[没]2002.10.14. 東京,世田谷
作家。銀行勤めの父に伴われ 5歳で朝鮮に渡り,1945年敗戦により日本へ引き揚げる。旧制第一高等学校文科甲類に入学,一学年下の大岡信,佐野洋らと同人誌を初めてつくり,東京大学文学部社会学科在学中も彼らと雑誌『現代文学』(5号まで)を刊行,新進評論家として注目された。読売新聞社外報部に入り,1960年大韓民国(韓国),1964年ベトナム共和国(南ベトナム)に特派され取材にあたった(→ベトナム戦争)。南ベトナムより帰国後小説を書き始めた。1975年『あの夕陽』で芥川賞。1986年『夢の島』(芸術選奨文部大臣賞),同年『砂丘が動くように』(谷崎潤一郎賞),1992年『断崖の年』(伊藤整文学賞),1993年『台風の眼』(野間文芸賞),1996年『光』(読売文学賞)など主要な文学賞の多くを受賞。都市に生きる現代人の深層意識と現代風景に肉薄する科学的詩情を高く評価された。12年間癌と闘いながら,最後まで読売の名物記者として終始した。2000年日本芸術院会員。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「日野啓三」の解説

日野啓三 ひの-けいぞう

1929-2002 昭和後期-平成時代の評論家,小説家。
昭和4年6月14日生まれ。東大在学中から文芸評論をかく。読売新聞社に入社,ソウル,サイゴン特派員などをつとめる。昭和50年体験的色合いのこい「あの夕陽」で芥川賞。57年「抱擁」で泉鏡花文学賞,平成5年「台風の眼」で野間文芸賞,8年「光」で読売文学賞。12年芸術院賞。同年芸術院会員。平成14年10月14日死去。73歳。東京出身。

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