日英通商航海条約(読み)ニチエイツウショウコウカイジョウヤク

デジタル大辞泉 「日英通商航海条約」の意味・読み・例文・類語

にちえい‐つうしょうこうかいじょうやく〔‐ツウシヤウカウカイデウヤク〕【日英通商航海条約】

明治27年(1894)日清戦争直前、駐英公使青木周蔵と英外相キンバレーによりロンドン調印された条約。治外法権廃止に成功し、安政の仮条約の不平等性の一つが解消した。

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精選版 日本国語大辞典 「日英通商航海条約」の意味・読み・例文・類語

にちえい‐つうしょうこうかいじょうやく ‥ツウシャウカウカイデウヤク【日英通商航海条約】

明治二七年(一八九四)にイギリスと調印され、同三二年に実施された日本最初の対等条約。領事裁判権の廃止に成功し、安政五か国条約の不平等性の一つが解消した。その後、他の欧米諸国条約改正に応じた。

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改訂新版 世界大百科事典 「日英通商航海条約」の意味・わかりやすい解説

日英通商航海条約 (にちえいつうしょうこうかいじょうやく)

1894年に成立した日本とイギリスの通商条約領事裁判権と協定関税率を定めた江戸時代の日英修好通商条約(1858)を改訂したもの。この条約の調印により日本は維新以来最大の懸案であった条約改正に成功し,法権回復し他のアメリカやヨーロッパ諸国も,この条約に準じた法権回復条約に調印した。ただし関税自主権の完全な回復は1911年まで残された。

 第2次伊藤博文内閣の外相に就任した陸奥宗光は,条約改正が国民の反対により失敗した経緯にかんがみ,対等の形式を重視して,条約成立の5年後に領事裁判権を撤去することを予約した従来の案を改め,条約は領事裁判権廃止を定めた対等条約とし,その実施を法典が整備された5年後とし,世論の対等要求に応じた。一方,対外硬派の条約励行論に対しては強硬な方針で臨み,2度にわたり議会解散をくりかえした。この条約は1894年7月16日,駐英公使青木周蔵とイギリス外相キンバリーJ.W.Kimberleyによりロンドンで調印され,同年8月27日公布,99年7月17日より実施された。イギリスが条約改正に同意した意図は朝鮮政策でロシアと対立している日本に接近することでロシアの極東進出を牽制することにあった。キンバリーは,この条約の調印は日本の国際的地位の向上に清国の大兵を敗走させたよりもはるかにすぐれた寄与をなしたと指摘した。この条約調印で対清開戦の国際的準備は完成し,翌17日の大本営御前会議は朝鮮に対しては22日,清国に対しては24日を期限とする最後通牒を送ることを決定した。
条約改正
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「日英通商航海条約」の意味・わかりやすい解説

日英通商航海条約
にちえいつうしょうこうかいじょうやく

安政(あんせい)五か国条約の一つとして結んだ日英修好通商条約にかわり、1894年(明治27)7月16日、駐英公使青木周蔵(しゅうぞう)がイギリス外相キンバリーと調印し、99年7月17日発効した最初の対等条約(陸奥(むつ)条約)。日本はこの条約に準じて、他の欧米諸国とも法権回復の新条約を締結し、同時に発効させて、明治初年以来懸案の条約改正交渉に成功し、列強と対等の国際的地位にたった。キンバリー外相は、この条約の成功は清(しん)国の大兵を敗走させるよりも日本の地位を高めたと祝辞を述べ、陸奥宗光(むねみつ)外相は日清戦争にイギリスの援助を期待できるとして開戦を決意した。この条約で領事裁判権は回収したが、関税自主権の回復は不完全だったので、1911年(明治44)4月3日新条約(小村(こむら)条約)に調印、税権を回収した。41年(昭和16)7月26日廃棄。

[藤村道生]

『日本学術振興会編『条約改正経過概要』(1950・日本国際連合協会)』

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百科事典マイペディア 「日英通商航海条約」の意味・わかりやすい解説

日英通商航海条約【にちえいつうしょうこうかいじょうやく】

1894年の日本・イギリス間の条約。1858年(安政5年)の日英修好通商条約(領事裁判権,協定関税率を定めた不平等条約)を改正,法権を回復したもの。イギリスは日本に接近してロシアを牽制したかったから改正に応じたとされる。当条約によってアメリカやヨーロッパ諸国とも同様の条約改正がなり,日本の国際的地位を向上させた。また対清開戦の国際的準備ができたとして,日清戦争開戦にいたった。
→関連項目青木周蔵条約改正日米通商航海条約

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「日英通商航海条約」の解説

日英通商航海条約
にちえいつうしょうこうかいじょうやく

陸奥条約とも。日本が条約改正交渉で最初に法権を回復したイギリスとの条約。1894年(明治27)7月16日,ロンドンで駐英公使青木周蔵とイギリス外相キンバレーが調印。陸奥宗光外相は議会内外の対外硬派による現行条約励行論を抑え,日清戦争開戦直前,新条約締結に成功した。8月批准,99年7月施行。全22条,正文は英文。おもな内容は(1)日本の内地を開放するかわりに領事裁判権を撤廃,(2)税権の一部回復,(3)外国人居留地の廃止。97年までにアメリカなどの諸国も同様の条約に調印。関税自主権の完全回復は,小村寿太郎外相による1911年調印の日米通商航海条約が最初。

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旺文社日本史事典 三訂版 「日英通商航海条約」の解説

日英通商航海条約
にちえいつうしょうこうかいじょうやく

1894(明治27)年,日本とイギリスとの間に,旧条約(安政条約)を改正して結ばれた条約
駐英公使青木周蔵とイギリス外相キンバリーがロンドンで調印。内容は,(1)関税自主権の部分的回復,(2)日本内地の開放,(3)領事裁判権の撤廃などを規定。1899年から実施された。日本が法権を回復した最初の条約で,条約改正実現の第一歩となる。アメリカなどの諸国と同様の条約に調印。外相は陸奥宗光。

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世界大百科事典(旧版)内の日英通商航海条約の言及

【イギリス】より

…21年のワシントン会議で日英同盟が廃棄されてから,東アジアにおける日英の利害関係はしだいに対立し,とくに満州事変を経て日中戦争の勃発,日独伊三国同盟の締結,日本の南進政策で全面的に対立して日英戦争となった。第2次世界大戦後は,貿易と文化交流面が中心となり,イギリスは日本の東南アジア,アフリカへの経済進出を警戒したが,62年に日英通商航海条約を結び,日本に最恵国待遇を与えた。71年,日本の天皇・皇后がイギリスを訪問し,75年エリザベス女王夫妻が訪日して歓迎を受けた。…

【内地雑居】より

…そこで居留地の永代借地権保有者には現状維持を認めたから,彼らは土地所有以上の特権を有することになった。99年日英通商航海条約で内地雑居が決定したのち論争は下火となり,外国風俗の紹介や雑居に関する民衆啓発の雑誌や書籍が発行され,同年7月改正条約の実施で内地雑居がはじまった。【藤村 道生】。…

※「日英通商航海条約」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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