日根野村(読み)ひねのむら

日本歴史地名大系 「日根野村」の解説

日根野村
ひねのむら

[現在地名]泉佐野市日根野・なか町一―四丁目

現泉佐野市の南部山間地から北部の平坦地にかけて南北に長く広がる大村。西は上之郷かみのごう村、北西は長滝ながたき村、南東は土丸つちまる村。「日本後紀」延暦二三年(八〇四)一〇月九日条に桓武天皇が「日根野」に遊猟したとみえるのが初見。当時この辺が遊猟に適した地であったことが知られる。宇多天皇が譲位後出家したのに随従した橘良利が、「和泉国ひねという所」で詠んだ歌が「新古今集」に載り、同様の話が「大和物語」「大鏡」にもみえる。

〔中世〕

当村は九条家領日根庄を構成する四ヵ村の一で、文暦元年(一二三四)一二月二日の日根庄諸村田畠在家等注文案(九条家文書)に村名がみえる。なお「和泉国日根野・入山田二箇郷」(応長二年二月二五日「僧光憲請文」同文書)と郷名でよばれる場合もある。前掲注文案によると、日根野村は岡本おかもと池尻いけじりの二字地よりなり、岡本に一一宇、池尻に五宇の在家があった。田畑は田が本田・本新田・新田・年荒地を合せて一二町五反余、畑が三町余で計一五町五反余、うち岡本は八町二反余、池尻は四町一反余。村内に樋口池・蓮観池・八重氏池・新池・伏池・甘漬池・得成池・粉河別当池・白水池・泉水上池・実泉池・水郡池・教善池・末守池・檀波羅蜜だんばらみつ池の一五池、日根山・日根岡や村神林・水郡林・布気林など住民共用地、大井関おおいぜき(現日根神社)溝口みぞぐち社・檀波羅蜜寺・井蛭いびる(飯雨)堂などがあった。なお同注文案には当村地頭代実秀が署名している。

嘉禎二年(一二三六)五月一七日の関東下知状案(九条家文書)によると、鎌倉幕府は六波羅に対し日根野村荒野と前木工権頭源盛長の堂敷地六町歩への地頭の非法を禁止するよう下知しているが、この堂がのち源盛長およびその子孫の菩提寺となった無辺光むへんこう院であったと思われる。文永年間(一二六四―七五)頃、当村字中筋辺りに本拠を構え、長滝庄包富かねとみ方の下司職を相伝していた日根野氏の庶流日根野盛氏(慈蓮)は奈良春日社の散在神人でありながら、春日社の威令に抗したり(「中臣祐賢記」建治三年一〇月一日条)、建治三年(一二七七)一二月には慈蓮自らが無辺光院別当職に慈薗じおん寺の律円を補任するなど(同月二二日「無辺光院別当職補任状案」九条家文書)、在地に勢力を伸ばしていたことがうかがわれる。延慶二年(一三〇九)三月、領主九条家は日根庄庄官らに対し惣検注を命じた(同月一二日「領家御教書」日根文書)。翌三年二月二一日、日根野村荒野実検注文(九条家文書)が出され、それによると荒野は五五町六反余に及んでいる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

今日のキーワード

焦土作戦

敵対的買収に対する防衛策のひとつ。買収対象となった企業が、重要な資産や事業部門を手放し、買収者にとっての成果を事前に減じ、魅力を失わせる方法である。侵入してきた外敵に武器や食料を与えないように、事前に...

焦土作戦の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android