(読み)たび

精選版 日本国語大辞典 「旅」の意味・読み・例文・類語

たび【旅】

〘名〙
① 住む土地を離れて、一時、他の離れた土地にいること。また、住居から離れた土地に移動すること。
※万葉(8C後)一五・三六七四「草枕多婢(タビ)を苦しみ恋ひをればかやの山辺にさ男鹿鳴くも」
※大慈恩寺三蔵法師伝永久四年点(1116)一「中間に師の為に行(タヒ)の服を営造す」
② 自宅以外の所に、臨時にいること。よその土地へ行かない場合でもいう。
※宇津保(970‐999頃)国譲下「御即位に参りてはべりしままに、院のかくたびにおはしますだに参らず」
③ 自分の住んでいる土地でない、よその土地。他郷。
※飛騨街道(1919)〈江馬修〉「他国(タビ)から悪い奴がどんどん入って来るぢゃらう」
④ 祭礼で、神輿が本宮から渡御して一時とどまる所。
⑤ 「たびもの(旅物)」の略。

りょ【旅】

〘名〙
① 中国、周の時代に、兵士五〇〇人を一団とした軍隊。五旅を一師、五師を一軍とした。転じて、軍隊。
※三教指帰(797頃)下「鼓蝨皮而驚陣、旗蚊羽以標旅」 〔詩経‐大雅・皇矣〕
② 易の六十四卦の一つ。 上卦は離(火)、下卦は艮(山)。火山旅とも。火が山を焼くと次々と燃え移って止まらないように、旅人が転々と宿舎を移るさま。

たび‐・する【旅】

〘自サ変〙 たび・す 〘自サ変〙 住む土地を離れて、一時、他の土地へ行く。未知の土地を移り歩く。たびに出る。
古今著聞集(1254)一六「彼入道旅せむとて、人に鞍を借りて、其下人してとりにやりたりけり」

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デジタル大辞泉 「旅」の意味・読み・例文・類語

たび【旅】

住んでいる所を離れて、よその土地を訪ねること。旅行。「かわいい子にはをさせよ」
「日々―にして―をすみかとす」〈奥の細道
自宅を離れて臨時に他所にいること。
「あるやうありて、しばし、―なる所にあるに」〈かげろふ・上〉
[下接語]帰らぬ旅神の旅死出の旅長旅にわか旅・一人旅船旅また・宿無し旅
[類語]旅行ツアー新婚旅行ハネムーン長旅羇旅遠出行旅こうりょ客旅かくりょ旅路たびじ道中どうちゅう旅歩きトラベルトリップ周遊遊山観光行楽探勝遊覧物見遊山漫遊巡遊歴遊遊歴回遊

りょ【旅】[漢字項目]

[音]リョ(漢) [訓]たび
学習漢字]3年
〈リョ〉
隊を組んでよその土地へ行くこと。広く、たび。たびびと。「旅館旅客旅行旅情旅装旅費羈旅きりょ逆旅げきりょ行旅
隊を組んだ兵士。軍隊。「旅団軍旅師旅
〈たび〉「旅路旅人船旅
[名のり]たか・もろ
[難読]旅籠はたご

りょ【旅】

中国、代の軍制で、兵500人を一団とした軍隊。五旅で一師、五師で一軍を編制した。
軍隊。
「東西に陣を張り、南北に―をたむろす」〈太平記・一五〉

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改訂新版 世界大百科事典 「旅」の意味・わかりやすい解説

旅 (たび)

われわれは日常,いわゆる手のとどく範囲内の限られた人や事物との関係性の中で,所用をつくり所用に迫られて生活している。ときにいや気がさしてこの関係世界から離脱し,旅に出たくともそれは容易に可能なことではない。日常的生活の拘束性の下にあるという現実は,移動をその生活形式としている遊牧民や遠隔地商人でも例外でなく,たとえ移動生活が身上であれ,その移動は所用による移動であって,本来の旅とは区別されねばならない。スワヒリ世界で,特定の所用のための遠出と,所用を伴わぬ遠出とが区別され,前者をサファリ,後者をテンベアと言っている。この区別は,所用による移動である出張と旅とを区別しているわれわれの差異感覚にもつながる。両者ともに等しく空間的移動ではあっても,日常生活にまつわる義務から逸脱ないし離脱するとき,そこに旅の感覚が生ずる。

 もちろん逸脱するといっても,それを促す内発的動機はさまざまでありうる。既知の世界の外になにがあるか。子どもが親の管理下から逸脱し,冒険的に野山に出かけて親を心配させることがあるが,空間的既知の世界の外に向かうこの好奇心が,いわゆる探検的な旅を促す動機であった。大航海時代以降,未知な世界の踏査におもむいた大探検家は,まさにこういう動機に促された未知の世界への旅を行ったが,なにもこの種の旅への衝動は,彼らのみがもっていたのではあるまい。太陽の昇る方向に東へ東へと旅し,それを矢で射止めようとした男について物語ったロシアの民話は,まさにこのような衝動にかられて,日常的生活圏の外への探索に向かう男の衝動が,いずこにもあったことをうかがわせる。

 ところでこの種の探検的な旅を,当の社会全体にとって未知な空間世界への探索,またそれを通じた未知世界の既知世界への組み込みだとすれば,既知の世界内でありながら,個人的な知の拡大衝動にもとづいてなされる旅もある。観光旅行もそうであろうし,なんでも見てやろうという動機にもとづく旅もそうである。こういう旅人は,探検家のように,他の探検家がすでに訪れたか否かに拘泥しない。そこでの体験は,どこまでも個人的経験世界内での知見として,まず自分のうちで意義を認められるもので,それを他に公知させるべく語ることは二の次の問題となる。探検的な旅が社会的行為であり,公衆一般の好奇心を充足させるのに対し,この種の旅は,個人の経験世界の拡大という動機のために趣味性をおびる。

 ところで,旅という日常生活世界からの逸脱ないし離脱によって生ずる効果は,その日常的境域のかなた,未体験の世界についての知見が得られるという知的効果にとどまらない。所用から離れ旅するということは,日常的に繰り返され,所用に拘束された自分の生活から離脱することでもある。日常的生活世界の中でわれわれは,他者と関係し,自分の働きかけが他者の反応を招き,それが再び自分にはねかえり,対応を迫られるといった,限りなく連続的な人的関係の網の中にとりこまれ,縛られている。つねに社会関係に棹さし関与しつづけるかぎり,われわれはこの身の回りの世界を客観的に眺めることができない。日常的生活世界からの離脱は,まさにその関与の停止であり,私の不在中,他の人々が,いかに事をすすめるかはともかく,関与した世界についてのこちら側のイメージは,離脱とともに一時的に凍結される。われわれは旅先ではじめて,これまでの日常的関係世界,所用の世界を客観的に見ることができる。だが旅による離脱ののちに,人は再びかつての日常的関係世界のすみかに戻ってくる。家並みも,自然的風景配置もなんら変わってないのに,その離脱の間に,人は自分と関係なく事をおこし,自分は異人として受け入れられる立場に立つ。浦島伝説で竜宮から帰った浦島太郎が,乙姫の言葉にそむいて玉手箱をあけるとともに老化する話は,まさに離脱時に凍結した日常的関係世界のイメージと,帰還時に見いだした変化してしまった現実との時間的差異感覚を,旅人の側の老化というかたちでみごとに表現している。ともあれこのずれにもとづく差異感覚は,帰入時の旅人の側に,現実との再調整を迫る。

 旅という日常的関係世界からの離脱は,こういう点で,自己を見直し,自己と生活世界との関係を再調整させる働きをもつ。まさにそれは,通過儀礼での離脱と再復帰による状態変更のメカニズムに通ずる。旅の行先がそういう点で,日常的所用とのつながりを断った,無用の彼岸であるとき,よりいっそう効果を強める。聖地が旅の対象となった巡礼は,まさにこの種の旅の社会的装置化であり,逆に聖地巡礼という旅の形式が存在する理由は,こういう旅の性格を考えるとき,もっともに思えてくる。また放浪の旅人が,遊行者として聖なる眼で見られるのも,所用にみちた日常的関係世界に対する反世界に生きる人だからだろう。

 さて離脱の動機ないし効用はさらにもう一つ考えられる。日常的所用の世界は,既知の人々とのかかわりの連続であり,過去の履歴や役割に縛られた世界でもある。旅先での見知らぬ人との出会いは,これらのこだわりや記憶から自由に,人と人との交わりを可能にする。そこに新たな関係世界の生ずる契機がある。長く住み続けることによる生活のおりがいたたまれなく,出奔する。旅へのあこがれは,こういう浄化衝動とも無縁ではない。
観光 →紀行文学 →羈旅歌(きりょか) →巡礼 →旅行記
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農耕以前の狩猟時代,人々は生きるための食料採集にどうしても動き歩かねばならない。鳥獣を追って山野を跋渉し,魚を取るために川を上下し,または物資の交換のため遠くに出かけなければならなかった。その後,弥生時代に入り,稲作農業が始まり,しだいに全国化すると人々の大半は農民となって定住し,これまでのように食料その他の生活資源獲得のために動きまわる必要性は薄くなる。

 このような食料採集の旅は,猟人,山人または漁民等の手に受け継がれてゆくが,しかしその後長い間,農民以外のものは食料採集のためではなくても,生きるために旅をせねばならなかった。そのおもなものは商人・職人で彼らのほとんどが行商人であり,歩き職人であった。人口の密集した都市の少ない時代には,商人・職人はいながら,座して顧客を得ることはできず,旅をして新しい土地で新しい需要者をたえず開拓して,始めて生計を立てることができた。中世から近世にかけて,地方都市の発展に伴い店をはって顧客を待つ居商人がしだいに増えていったが,近代以前は全般的には旅する商人・職人が多く,なかでも富山の薬売り等のように,行商範囲の全国にまたがるものもあった。生きるために旅するものには,このほか芸能民がある。彼らもまた商人等と同様,たえず動いて新しい観客・聴衆を相手にせねばならない。琵琶法師,瞽女(ごぜ),万歳,鉦(かね)たたき等,その種類は多く,彼らは民衆に潤いと慰めとを与えたほか,情報伝達者として果たした功績も少なくない。

 人類の最も始源的な生活のための旅は,多様化しつつも現代なお旅の太い柱の一つとなっているが,これに次いで発生したのが,権力の命令による強制された課役としての旅であった。平城京や平安京等の都城の建設には,全国から多くの人々がかり集められたが,一般に知られているのは防人(さきもり)で,東国多数の民衆が集団を組んで,はるばる辺境防備のため,交互に九州に赴いたのである。しかしながら奈良時代前後,国家権力のむちの下に,旅を強制された最も悲惨な人は,調・庸等国家貢納物の運搬者であった。彼らは運脚と呼ばれるが,運脚は魚・布等の調・庸のほか,重い自分の食料まで背負って都に上らねばならず,途中食料つきて命を落とすものが跡を絶たなかった。その後律令制が衰え,荘園制が発達すると,国家貢納物に代わって荘園年貢物が輸送物資の中心となり,全国から人々が京や奈良の公卿・社寺等の荘園領主の下に荘園年貢を届けるために旅をした。しかし,近世に入るとこの種の強制された旅は激減した。運送そのほか各方面に専業者が輩出し,民衆はかかる実務から解放されるに至ったからである。

 以上のように生活維持のための旅が最初に発生し,次いで課役による旅が現れたが,いずれにせよこれらの旅は,自由選択の許されぬ強制的な厳しい旅であった。しかし時代の経過とともに,これまでと違って何ものにも強制されぬ自由意志によって企画される旅が誕生し,それがしだいに発展してゆく。平安時代の末ごろまでは,交通条件・交通環境は苛酷なまでに厳しかったから,旅は容易でなく苦しくかつ危険であった。このような苦難な旅にあえて挑もうとするのには,よほど強烈な内心の動機があってのことであった。これには信仰以外になく,信仰こそが唯一無二の自由な旅の原因であった。信仰の旅とは僧侶では修行・伝道などであるが,一般俗家では,もっぱら社寺の参詣であった。実際古代から近世までの長い間,日本人が自己の自由意志で決行する旅といえば,一貫してほとんど社寺参詣に限られたのである。平安時代には公卿等が大和金峯山,紀伊熊野・高野山等に盛んに出かけたが,とくに熊野詣が平安末から鎌倉時代にかけて盛んであった。鎌倉時代に入ると貴族のほか武士が,次いで庶民が参詣に加わるようになり,しぜん参詣量も不断に上昇し,参詣先も多様化した。室町時代以降,熊野詣に代わって参詣界の王座に昇ったのは伊勢参りであったが,そのほか本願寺参り,西国三十三所観音巡礼,四国遍路等も行われた。

江戸時代に入ると,旅を取り巻く環境が一変し,旅は質量ともに格段に変貌した。生産力の上昇と都市の発達とにより民衆の消費生活が向上し,それに人口の増加とにより,旅人口が著しく増加したのである。さらに道路,宿屋,茶屋,馬,駕籠等の交通施設・交通手段はこれまでも徐々に発達してきたが,江戸時代に入り飛躍的に整備された。またこれまで貨幣は銅銭に限られ重くて不便であったが,実質的にその数百分の一,数十分の一も軽い金銭・銀銭が流通し,それに現在のクレジットともいえる為替の利用により旅はすこぶる身軽となった。それに近世幕藩体制により300年の太平が続き,山賊・海賊も影をひそめて人々は安心して行を進めることができた。これまでの旅は苦しいものであったが,江戸時代に入るとこうして旅は楽となり,さらに楽しいものとさえなった。こうして日本に観光旅行・遊楽旅行が生まれ,やがて旅は民衆の最大のレクリエーションとなった。一方都市は別として,農村の生活は一般に単調でかつ暗く窮屈なものであったから,農民は解放感を求め,自由な天地で心ゆくばかり人生を謳歌したかった。それには楽しい旅こそがかっこうの手段なので,人々は続々と家を後にし旅に出るようになった。幕府や藩はもともと民衆の遊びに対して,強い拒否反応を有していたし,まして観光旅行は莫大な浪費行為であるから,財政窮乏に悩む藩としては,容易に認めるわけにゆかなかった。しかし参詣の旅は聖なる宗教行為であり,かつ永い伝統のあるものであるから,簡単に禁止できず,まして国民の総鎮守とされる伊勢への参宮は,禁止どころか奨励さえされねばならなかった。そこで人々は参詣とくに伊勢参宮を名目として観光の旅に出た。当時人々のあこがれの地はまず京・大和であったが,伊勢神宮は東からも西からもそれに近かったので,伊勢参宮をかねての畿内旅行が多かった。しかし人々の長旅はせいぜい生涯1,2度と少ないので,一度家を出ればできるかぎり多くの所を見て回ろうとした。そこで東国の人なら伊勢や京へは,往路は東海道でも,帰路は中山道か北陸道を経由し,九州の人は瀬戸内海の舟旅と山陽道とを往復異にして選んだ。

 旅は江戸時代半ばが最も盛んで,伊勢参宮は享保のころ年間50万,60万人に達した。これを軸として各地の旅や参詣が発展していった。しかしながら人々の行動範囲はおのずから限られ,東国の人はせいぜい讃岐の金毘羅宮まで,西国の人は信濃善光寺までで,それ以遠ともなればごく稀の人が足を踏み入れるにすぎなかった。京・奈良その他では,社寺の広大で壮麗なようすや王朝風の典雅な祭礼に驚嘆し,ケンペルが〈歓楽の戯園〉と評した大坂では新興芸能浄瑠璃や芝居に陶酔した。また宿場の遊女は若者には旅の目当ての一つであったが,大根のまぜ飯と一汁一菜に明け暮れる大半の農民には,伊勢御師その他の二の膳付きの豪勢なもてなしは,なによりの喜びだったであろう。京見物のような長旅は比較的豊かな人や家長等が主で,貧民や女・子どもの家族等の多くには高嶺の花で,近くの参詣や湯浴等で渇をいやすのがせいぜいであったが,ともかくも旅は江戸時代に至ってはじめて民衆化し,娯楽の極度に貧困な当時,そのもつ意義は現在に比してはるかに大なるものがあった。
執筆者:

旅という文字は,もともと多人数が外で祭祀を行うため,氏族の旗をかかげて出行することを示し,その儀礼を旅祭,祭祀の場所を旅宮などと言った。それより本来の居所を去り,客として他処へ身を寄せることを旅というようになった。中国のような農業社会では,定住して農耕に従事するのが一般的な生活形態で,転地移動を常とする遊牧社会とは異なり,居住地を離れて旅をしたり,定住地をもたない生活は特別の目的や理由が必要となる。

 その意味で最も早く発達した旅行は,交易を目的とする商人のそれであろう。すでに新石器時代から,たとえば山東の大汶口(だいぶんこう)遺跡から象牙やトルコ石が発見され,青海の楽都柳湾遺跡から海産の貝が出土することなどからも,特産品の交流が進んでいたことがわかる。春秋戦国時代になると明らかに各国において商業が発達し,とくに中原の交通をおさえる位置にある鄭や斉は商業で国力を充実した。これに従事する商人は商旅と呼ばれ(《周礼(しゆらい)》考工記に,〈四方の珍異を通じ,以てこれを資す。これを商旅という〉),漢代にその活動はいっそう盛んになったが,農耕を放擲するものが多いと嘆かれた(《漢書》貨殖伝序)。唐・宋時代を経て地域経済と交通が発達し,各地で特産品が形成されると,塩,茶,陶磁器,繊維製品等,一部の土地で産出される生活必需品を取り扱う商人の活動範囲は広がり,なかでも山西商人新安(徽州)商人等は有名である。これらの商人が都市で活動するための拠点として,同郷者を中心とした会館が設けられ,商業活動のみならず旅行者にとっても宿泊等の施設を提供した。

 春秋戦国時代には各国で諸子百家と呼ばれるさまざまな学派が生まれたが,彼らは自説が受け入れられる実践の場を求めて諸侯の間を旅してまわった。そのなかでも任俠にもとづく交友を結び,世間を渡り歩く者を遊俠といい,とくに弁説をもって政治を動かそうと諸国を巡るものを遊説といい,一見仁者のような説をなして徒党を組み,権勢を握ろうとするものを遊行といった(荀悦《漢紀》)。その中で第1にあげるべきものは儒教をとなえた孔子で,みずから弟子をひきつれてつねに諸国に遊説し,東西南北の人といわれた。また戦国時代,列国の間を合従連衡を説いてまわった蘇秦も,つねに旅にあった。全国が統一されると,このような活動家たちは徳に背き乱を起こすものとして警戒されたが,各時代の末期,社会の矛盾が蓄積されると,各地の有力者に寄食する遊俠たちの自由な行動力は大きなエネルギーとなり,変革への引金となった。

 一方,為政者の側からは,国内統治をすすめるための国情視察,また権力を誇示し国土統一をはかることを目的とし,定期的に国内を巡行することが行われ,これを巡狩(守)といった。《書経》の〈禹貢〉は伝承上の天子禹が,治水のために全国を巡行した記録とされるが,中原の漢民族の文化が,さまざまの旅行者によって各地へ広められ,国土が統一されていく過程を示したものであろう。秦の始皇帝も東は琅邪,南は会稽まで全国を巡り威勢を示した。天子の巡行は一方では封禅のように儀式化した旅行となり,最も大規模な旅行団が組織され,沿道の交通施設を大きく発展させるきっかけとなった。

 また中央集権的な官僚国家が形成され,都を中心とした都市網,その間を結ぶ交通路網も形成されると,中央と地方の間の通信,また都市と農村間の流通,北方に都が置かれたときは南からの漕運などが大規模に行われるようになり,それにともなう旅も著しく増加した。駅伝(駅伝制)や漕運においては官設の施設が充実され,駅夫や漕夫のように,なかば職業として旅行を行い,一般庶民としては及びもつかぬ遠方へ赴くものも増えてきた。また全国の主要な地方官吏は中央から任命され,官吏は定期的に家族家人をともなって移動した。とくに西域や南海に赴任する場合は,旅立ちが永遠の別離ともなり,その送行にあたっては知人友人が餞別の宴を設けて見送り,これは詩歌の好題になるとともに,士大夫階級の風俗の一つとなった。

 主要な道路には一定区間ごとに駅館や郵亭が置かれ,官吏の旅行においては一定の証明証(符信,虎符,符節などと呼ばれた)を所有して,これらの施設やそこに置かれた車馬や役夫を利用することができた。その利用は官職によって差があり,唐の律令には細かい規定がみえる。これに対し庶人の旅の施設としては,春秋戦国時代より逆旅,客舎,客店などと呼ばれる宿舎があり,漢代には交通の要衝にはかなり設けられていたが,設備は充実したものではなかった。一般民衆においても居住地を離れて旅をするには官による証明書が必要で,各地に設けられた関でチェックされたが,これら正規の方法によらない旅をする遊俠も多かった。

 中国世界と周囲の異民族文化圏との交流の歴史は古く,いわゆるシルクロードを通じての西方との交流は交易商人によってすすめられていたが,中国に統一王朝が成立すると強力な政治力を背景としていっそう進んだ。周の穆(ぼく)王が崑崙山の西王母(せいおうぼ)を訪ねたというのも(《穆天子伝》),このような旅行の存在を示す伝承であろう。漢の武帝はとくに西方への領土拡張を望み,2度にわたって張騫(ちようけん)を派遣し(前138-前115)西域各地の実情を探検させたが,これは記録に残る最古の遠征旅行である。また南方への旅行は西方に比べて後れ,大規模なものは明の鄭和をまたねばならないが,唐・宋時代に多くの旅行をもとに南方への知識が増加していたことは《蛮書》《嶺表録異》などの文献に示されている。

 また南北朝期より唐にかけて仏教の興隆とともに,仏法を求めて西方へ遠征するものが増え,とくに北魏の法顕,唐の玄奘はおのおの《仏国記》《大唐西域記》を残し,その大旅行の足跡を知ることができる。また鑑真のように海外へ布教のため渡航するものも現れ,当時の困難な交通条件のもとでも,宗教的情熱にもとづく彼らの活動は,旅行の範域を大きく広げた。

このような旅行の外部への拡大とともに注目すべきは,内域においても旅行の形態や目的が多様化し,学術研究や遊覧を目的とするものが現れたことである。漢代にも《史記》を著した司馬遷は,20歳で全国各地を旅行し,各地の旧跡を訪ね伝承を探りながら,地域性の違いに着目しているが,《史記》のもつ広壮な史観はこの旅によって培われたものといえよう。北魏の酈道元(れきどうげん)もさまざまな旅行の機会のなかから,各地における河川の役割の大きさに注目し,《水経注》という総合的な地理書を著した。宋の沈括(しんかつ),明の李時珍,徐霞客,顧炎武,清の魏源,康有為など歴代の代表的学者の業績も,古典文献の知識だけではなく,旅行による見聞があって初めて可能であり,経世済民という実践に結びつく意欲もその中から生まれたものであろう。

 また南北朝ころより,世間を離れて自然を愛する思潮が生まれたが,それとともに美しい山水を求めて旅をすることも始まった。経済,政治,宗教,学術など現実的な目的をもつのではなく,趣味や遊興を目的とする旅や,旅そのものを目的とする旅は,詩歌・紀行文などの多くの文学作品を生み出し,また各地の景勝の地や名所旧跡を全国に知らしめた。漂泊の詩人といわれる李白,みずからを屈原に比すほどに流浪を余儀なくされた柳宗元などは,旅行に新しい意味をもたらしたといえよう。

 さらに注目すべきは,遊覧を目的とするような余裕のある旅が,士大夫や郷紳のように限られた階層だけではなく,一般庶民のものにもなってきたことである。とくに都市においては経済の発達とともに生活様式も華やかになり,南宋の杭州などでは,季節に応じて郊外の名勝を参観することが風俗化していた。地理書においても,単なる方志ではなく〈名勝志〉〈遊覧志〉の類がつくられるようになり,実際の旅に用いられるとともに,人々の未知の土地への憧憬を促進した。また明代には仏教が道教や民間信仰と結びついて民衆の間に根づき,寺院への参詣も旅をすすめる一つの要素となった。とくに寺廟をもつ名山として泰山,廬山,五台山などへは全国から参詣の旅客が訪れた。
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西欧初期中世において,旅とは主として軍事遠征か交易の旅,あるいは伝道のための旅であり,その形にはとくに珍しいものはない。初期中世のみならず中世後期にいたるまで,西欧社会において国王は首都を定めていなかったから,宮廷自体が移動していた。カール大帝の生涯の軌跡をみるとパリ,アーヘンを中心として旅にあけくれた一生だったことがわかる。当時の交通,通信の手段がきわめて未発達だったために遠方の地から税を首都に送らせることができず,国王は数千人におよぶ宮廷の人々を引き連れて一年中各地を巡幸して歩き,税を消費していたのである。兵士や貴族のみならず女官や鍛冶屋,パン屋などの職人集団も随行していた。国王はこうして地方の人々の前に姿を現し,王としての威光を直接示すことによって支配者としての地位を固めていたのである。文書を媒介とした行政が可能となる16世紀まで,西欧の各地で国王はこのような旅の生活を送っていた。

 貴族の場合は,国王に随行する騎士を除けば,原則として軍事遠征のとき以外は領地にとどまっていた。しかしながら貴族の子弟は,まず旅のなかで人生の一歩をふみ出したのである。刀礼(騎士叙任式)をすませた騎士の子息は,友人とともに戦いと騎馬試合を求めて旅に出た。戦いに参加して戦利品を手にし,騎馬試合の賞金を手に入れ,運がよければ良家の子女とめぐりあって結婚し所領まで手に入れることを夢見ていたのである。長男の場合は自分の家を相続できたが,父親が健在でいる間は,家に戻っても旅の間のような自由はなかったから,自由を求めて再び放浪の旅に出てしまう。二・三男ともなれば相続の可能性はまったくないから,なおさら放浪の旅に出て所領と妻を探すしか自分の運命を開拓する可能性はなかった。こうして14,15歳から25~30歳くらいの青年たちが,西欧のいたるところで放浪の生活を送っていたのであり,トルバドゥールの歌はまさにこれらの青年たちの運命を歌ったものなのである。結婚し,一家をかまえたとき彼らの旅の生活は終わる。

 基本的には同様な旅の生活を職人や放浪学生も送っていた。多くの職人たちには都市成立以後ギルドやツンフトのなかで徐々に親方に昇進する可能性が薄くなっていた。彼らは親方になる可能性の高い地域へ,〈修業のために〉遍歴し,技術をみがき,運がよければ親方の未亡人や娘と結婚して親方となる道を開いたのである。職人の遍歴の旅はやがて親方になる前の修業期間として考えられるようになるが,本来は親方株が少なかったために,やむなく行われた慣行だったのである。しかしながら西欧各地の職人たちが13,14世紀から遍歴を開始し,その範囲は西欧全域にわたっていたから,西欧文化圏内部の技術水準は平均化し,西欧社会に統一的文化を形成するうえで大きな役割を果たしたといえよう。いうまでもなく商人たちも旅をしていたのだが,彼らの子弟はまず遠方の支店に勤め,多くの場合30歳を過ぎてから親の店を相続している。ハンザ商人の子弟の多くは青年時代にオランダやバルト海沿岸で商取引の修業をし,中年になってから出生地に戻っている。これも騎士の遍歴と似た形態であるといえよう。

 同じような放浪の生活を学生たちも送っていた。中世の全時代を通じて,学生たちは教師を求めて放浪の旅をしており,歌を唱っては布施をもらっていた。ブレスラウ(現,ブロツワフ)のような町にはかなりの数の学生を収容できる学寮もあったし,病気の学生を治療する病院まであった。《カルミナ・ブラーナ》に歌われているように放浪学生の多くは自堕落な暮しを送り,酒と女にあけくれていたのだが,なかにはそのような生活のなかでも勉学し,ギリシア語,ラテン語,ヘブライ語などを中心とする学問を身につけていった者もいた。ブッツバハJohannes Butzbach(1478-1516)やプラッターThomas Platter(1499?-1582)などの放浪学生の手記は,この時代の学生の旅の生活をつぶさに描いている。

 ところで農村や都市で定住していた農民・市民にとって,旅とは何であったのだろうか。農民の場合あまり数は多くないが,市民の場合は巡礼行が一生のなかで大きな比重を占めていた。市民たちはたいてい兄弟団に加入していた。それはギルド・ツンフトである場合が多かったが,そのような職業とはまったく関係のない兄弟団もあり,たとえば病める旅人を看護し,死せる旅人を葬るための兄弟団などもあった。仲間を葬ることが現世における善行の一つとされていたから,中世の市民たちは彼岸での救いを確かなものにするためにもこのような兄弟団に競って加入したのである。兄弟団加入の目的は単に宗教的な動機だけでなく,兄弟団が加入者の社会的序列を決定するほどの意味をもっていたことと,宴会や祭りの行列など中世都市のなかで最大の楽しみの主催者としての機能をもっていたこともあずかっていた。兄弟団自体が本来は巡礼途上で病んだり,倒れた仲間を看護し埋葬するための組織として生まれたのであり,商人たちが定住し,巡礼の機会が少なくなってきた段階においても,兄弟団に加入することによって,いながらにして巡礼をしただけの功徳にあずかることができるのが兄弟団なのであった。このような兄弟団が中世都市市民の人間関係のなかで大きな比重を占めていたから,中世都市はいわば旅する人々の仮の宿りなのであった。農民の場合遠方への巡礼はまれであったが,近くの聖所での十字架の道行きはしばしば行われていた。

 このように王侯・貴族から商人にいたるまで,旅を生活の基本形態としていたことは,西欧中世の文化に特異な性格を与えることになった。エラスムスが《対話集》のなかにあげている4人の市民のサンチアゴ・デ・コンポステラ巡礼の話が,結局は1人だけがかろうじて尾羽打ち枯らして戻るという悲惨な結果に終わったように,中世において遠方の地への巡礼行は生命をかけた行為であった。地位も財産もできた中年の男性たちが,酒の上での約束にせよ,サンチアゴへの巡礼に旅立ってゆくということは,エラスムスの誇張ではなく現実にありうることである。L.フェーブルは,中世の人々がこのように定住生活のなかにありながらも,いざとなれば自分が長い年月かけて積みあげてきた財産や地位も投げうって旅に出てしまうという衝動を内に秘めていたことこそ,ルネサンス文化がギリシア・ローマの古代文化の模倣に終わることなく独自の個性を養うことができた条件であった,といっている。たしかに放浪への衝動は無所有への憧憬を秘めている。旅とはそのようなものとして理解されていたのであり,この形の旅は理念としては近代にいたるまで受け継がれてゆく。
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ムスリムにとっての旅とは,まず第一に巡礼である。交通機関の発展していない時代にあっては,多くのムスリムにとって,巡礼はまさに一生に1度の大旅行であった。巡礼団を組織し,警備の兵をつけて送り出すのはカリフの任務であり,後には各地のスルタンの任務であった。このようなグループに属さないで個人の資格で巡礼に行く人々もあったが,アラビア半島を横切りメッカ,メディナに行くのは,いずれにしても大変な旅行であった。巡礼のルートは貿易ルートとも重なっており,メッカは宗教的聖地であるとともに,活発な交易の場でもあった。また各地から多くの人々が集まるために,情報交換の場所であった。とくにウラマーにとっては,メッカ,メディナはイスラムの学問のセンターでもあり,巡礼をすませた後もそのままとどまる学者も多くいた。交通機関の発達した現代においてさえ,メッカ巡礼は決して容易な旅ではない。大量輸送機関の発達により,毎年100万人以上のムスリムが巡礼のために聖地を訪れるが,経済的にも時間的にもかなり負担であることは変りがなく,依然として多くのムスリムにとっては一生に1度の大旅行である。さまざまの負担にもかかわらず,すべてのムスリムが熱望する旅行であることは,昔も現在も同じである。そしてムスリムにとって巡礼の旅は,宗教的義務の履行であると同時に,世界各地のムスリム同胞の連帯の象徴であることも時代を問わない。

 学問を求める旅もイスラム初期からみられた。各地に散らばるハディース伝承者を訪ねハディースを収集することは,ハディース学の重要な方法である。他の学問においても,各地の評判の高い学者を訪ね教えを乞うことは盛んに行われた。14世紀の歴史家イブン・ハルドゥーンも,学問の研鑽の最高の方法は,各地の偉大な学者から教えを乞うために旅をすることだと述べている。多くのウラマーにとって,学問を求める旅は特別のことではなく,普通の生活の一部となっていた。このような学者の旅を可能にしたのは,ワクフ(寄進財産)制度とジワールjiwār(隣人保護)のような保護の制度である。これらの制度がイスラム世界の各地で機能していたからこそ,中世においてイブン・ジュバイルイブン・バットゥータのような人々があれだけの大旅行をなし得たのである。

 イスラム世界の商業の発展は,商業上の旅をきわめて活発なものにした。貿易商人はインド洋や地中海を渡り,各地に商業ネットワークを張りめぐらし,陸上では都市間をキャラバン・サライ(隊商宿)が結びつけた。大規模なキャラバンを組み高価な商品を扱う専門的大商人から,巡礼の途中に商いをしながら聖地に至る人まで,この種の旅行はイスラム世界のいたる所で盛んに行われた。商業上の旅を支えていたのは,通商路の安全を維持し,旅行者の便宜を図るためのさまざまな制度や施設である。安全の維持は国家的政策の場合もあるし,商人たちと遊牧民の間の安全保障の契約もあるし,いろいろなレベルで図られた。

 近代以前のムスリムの旅の特徴は,上記のような異なった旅の目的が,一つの旅の中に結びつけられることがしばしばあったことである。商売をしながら聖地巡礼を行い,その帰途各地の学者に教えを乞う,商人であると同時にウラマーの一員である人はたくさんいた。この点で近代以降のムスリムの旅は,目的が特殊化しているうえに,学問の旅は明らかに少なくなっている。
巡礼 →商人 →職人
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出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

デジタル大辞泉プラス 「旅」の解説

株式会社新潮社が発行していた旅行情報誌。奇数月20日発売。日本旅行文化協会(現在のJTB)が機関誌として1924年に創刊。太平洋戦争中の休刊を経て、1946年より日本交通公社から復刊。のちに新潮社に編集・発行権が引き継がれた。2012年1月発売の3月号をもって休刊。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「旅」の意味・わかりやすい解説


たび

旅行

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世界大百科事典(旧版)内のの言及

【羈旅歌】より

…旅に触発された種々の感情を主題とする歌。羈(羇)は旅,旅やどりを意味し,羈旅という語は《周礼》《楚辞》などの漢籍にも見えるが,中国では詩の分類用語としてはおもに〈行旅〉の語を用いる。…

【神道】より

…中世以降各地に多くの参詣者を集める神社があらわれたが,中でも伊勢神宮や熊野大社では,参詣者を集める御師などの専門的な神官があらわれ,遠隔地からの参詣者の団体を組織した。参詣者は祈願成就のために,旅の苦労と道中の禁忌に耐えて参拝するが,目的を果たした後に,門前町のにぎわいの中で精進落しの歓楽に浸る。さらに参詣のしるしとなるみやげを持ち帰って隣人に配るが,こうした遠隔地参詣のさまざまな習慣は,何世紀にもわたって繰り返されるうちに,日本人の旅行のしかたの型となった。…

【漂泊民】より

…漂泊・遍歴と定住・定着とは,人間の二つの基本的な生活形態である。それゆえ,漂泊民といい,定住民といっても,それは絶対的なものではなく,漂泊についていえば,居所の定まらぬ漂泊,本拠地を持つ遍歴,本拠地を変更するさいの移動,さらに一時的な旅など,さまざまな形態がありうる。しかし,一個の人間にとっても人間の社会においても,またその展開される場や生業のあり方に即しても,漂泊と定住とは,対立・矛盾する生活形態であり,相異なる生活の気分,意識,思想がその中から生まれてくる。…

【弁当】より

…それはオオカミ,キツネ,タヌキや魔物のたぐいが,その箸をとおして使った人間へ災禍をもたらすという観念があったからである。旅行も弁当を必要とする機会であった。古代から中世にかけて,干飯(ほしいい)や握り飯を携行した記録があるが,旅は非日常的な行為であるために,つとめて米の飯が用いられたようである。…

【土産】より

…旅先や外出先でその土地の産物を求めて帰り,家族や餞別(せんべつ)をくれた者などに配る品,また人を訪問する際に持参するいわゆる手みやげをもいう。古くはつと(苞)と称し,〈家づと〉〈都のつと〉などと用いた。…

【他所者】より

…その社会とまったく関係のない者は他所者と呼ばれることもないが,なんらかの形で接触・交渉が生じると,他所者と認識され,そのように呼ばれることになる。日本の伝統的な村落社会においてはウチとソトを区別する観念は強く,ムラに対しソトの世界をセケン(世間)とかタビ(旅)といった。人間についても自分たちの仲間とそうでない者を明確に区別し,セケンやタビの者を他所者として位置づけた。…

※「旅」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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