旅籠町(読み)はたごまち

日本歴史地名大系 「旅籠町」の解説

旅籠町
はたごまち

[現在地名]山形市旅籠町一―三丁目・七日町なぬかまち一丁目・同三―四丁目・相生町あいおいちよう

七日町の西に延びる羽州街道の両側町で、城下の中枢部に位置する。羽州街道は当町で鉤形に曲折し、北の六日むいか町へと続く。南と西は三の丸の堀。最上義光の時代に成立した町で,最上氏時代城下絵図に「今ハタコ町」とみえる。元和九年(一六二三)の江俣村検地帳(山形県史)に名請人として旅籠町の住人が載る。元禄一〇年(一六九七)の屋敷家数等覚(山形故実録)によれば、本通り七日町境より六日町境までの町の長さ六町一三間・幅四間半、石橋五、横町のかすがい口横町門際までは一町五間・幅二間二尺。一卜いちぼこ(ただし鍄口から堀端より百姓町境まで)二町三三間・幅二間、石橋二。おお橋脇より百姓ひやくしよう町へ行く小路三六間三尺・幅二間、板橋一。

旅籠町
はたごまち

[現在地名]富山市旅篭町はたごまち西四十物町にしあいものちよう平吹町ひらきまち

平吹町の東、東西に走る北陸街道(巡見使道)に沿う両側町で、東は越前えちぜん町に続く。当町から西にし町まで東西に延びる町並の北側背後は、富山城の外堀に沿って並ぶ家中屋敷となっていた。本町のうち。寛文六年(一六六六)の御調理富山絵図にみえ、前田利次による町割当初からの町。北陸街道の宿機能を有した。天保一二年(一八四一)の富山町方旧事調理によれば、古来問屋場があって旅人の宿泊にも都合がよいように人馬の中継ぎをしていたが、寛文元年数ヵ所に分散して取締不便であった城下の旅籠を当地に集め、軒数を五〇と定めて、町名もこのとき旅籠町とした。また特別に当町に限り飯盛女を置くことも許された。安永八年(一七七九)の本家数四三・貸家数二五で、二丁目まであった(「町方旧記抜書」前田家文書)。前掲旧事調理によれば竈数七九、男一三〇・女一五二、出張番所一、用心井戸一、小橋一。

旅籠町
はたごまち

[現在地名]高岡市旅篭町はたごまち

千保せんぼ川右岸、北陸街道に沿って東西に延びる両側町。北は橋番はしばん町、東端を北に折れるととおり町、南に折れると博労畳ばくろうたたみ町。ほん町。戸出といで町を経て城端じようはな町に至る街道(城端道)も通じた。横田よこた町ができる寛文六年(一六六六)以前は高岡町の南の入口にあたり、参勤交代の折には、町奉行や町役人が町の角で送迎した(不歩記)。また早い時期から大木戸が設けられ、のち木戸がもう一ヵ所設置された(「高岡度々御検地之事」高岡市立中央図書館蔵)。天明六年(一七八六)高札場が町東端の博労畳町へ入る辻に、利屋とぎや町の大法寺だいほうじ前から移転したが、文久元年(一八六一)諏訪社(現川巴良諏訪神社)横に移し替えられた(高岡市史)

旅籠町
はたごまち

[現在地名]高松市旅籠町・中央町ちゆうおうちよう藤塚町ふじづかちよう一丁目・中新町なかじんちよう田町たまち

城下の南西にある石清尾いわせお八幡宮の参道に沿い、町名の由来はここが高松・琴平街道、仏生山ぶつしようざん街道の高松城下への入口にあたる宿場町であったことによる。石清尾山東麓にある石清尾八幡宮の参道が山門前の馬場先から東に延びているが、なかノ村霊源れいげん寺前までが宮脇みやわき村の馬場ばば(天保一五年城下図)、霊源寺前から聴徳ちようとく院東隣の寺社奉行横倉氏(高松藩分限帳)宅までが天神前てんじんまえ武家屋敷、横倉氏宅東隣から旅籠町に入り、東端は田町の南端である(天明年間城下図)

旅籠町
はたごちよう

[現在地名]久居市旅籠町

ほん町の北側にあり、旅宿が並び、津方面から初瀬はせ道を通って大坂へ行く旅人や、あるいは本町を南へ出て、奥一志を目指す旅人らが宿泊した。宿駅としての指定が行われたかどうか明らかでないが、問屋役の家二軒(清水長太夫と小幡勘左衛門)があって伝馬を管理し、人馬の継立を行っていた。安政元年(一八五四)三月の日付をもつ問屋諸用控帳(清水長夫氏蔵)によると、久居町の伝馬は「御蔵御米附馬」(略して蔵馬)が二〇疋、「当町御役馬」(役馬または宿馬という)が一六疋用意されていた。

旅籠町
はたごちよう

[現在地名]函館市入舟町いりふねちよう弥生町やよいちよう

明治一一年(一八七八)・同一二年の大火後の区画整理が実施された同一四年七月に新設された町名で、それまでの山ノ上やまのうえ町全域と駒止こまどめ町・船見ふなみ町・神明横しんめいよこ町・さか町・常盤ときわ町・梅ヶ枝うめがえ町の各一部を編入して誕生した。近世、当地には山ノ上遊廓があり(明治四年の火災後蓬莱町へ移転)、遊廓のまわりには旅籠(旅館)を兼ねた茶屋・料理店が多数あったことから、この町名が付けられたといわれる。同三〇年には戸数三〇八・人口一千一二(伊藤鋳之助文書)

旅籠町
はたごまち

[現在地名]浜松市旅籠町・伝馬町てんまちよう千歳町ちとせちよう平田町なめだちよう

伝馬町の南、南北に通る東海道に沿う。南はしお町に続き、東は平田町(井上氏時代城下絵図など)。御役町六町の一。延宝五年(一六七七)の浜松町村家数高間尺帳によれば町の長さ一町一二間、家数二九。浜松各町書上によると町並は東側六九間五尺余・西側七五間三尺、町幅三間四尺。本役家屋敷二七、ほかに庄屋屋敷二。総家数四五、うち借屋一四。宝暦九年(一七五九)には大工役が三人に課せられている(浜松宿諸職記録)。元禄一六年(一七〇三)の旅籠屋数二二(糀屋記録)。宿村大概帳によれば本陣二。

旅籠町
はたごまち

[現在地名]水口町元町もとまち

葛籠つづら町の東、東海道と一部南裏通を挟んだ両側町。町内で右の二本の通りが合流。南は野洲やす川の河原へ続き、北は湯屋ゆや町と接する。町のうち南裏通に面する一帯を川岸かわぎしと称した。町名は慶長七年(一六〇二)の水口美濃部村検地帳写(水口宿文書)にみえる。同六年の宿駅制定に伴い東に隣接する作坂つくりざか町とともに伝馬町に指定され、惣町分担体制となった元禄一〇年(一六九七)まで伝馬役を勤めた。

旅籠町
はたごまち

[現在地名]北区南森みなみもり町一丁目

魚屋うおや町の西にある南北に延びる両側町。明暦元年(一六五五)大坂三郷町絵図に「はたこ町」とみえる。大坂三郷天満組に属し、元禄一三年(一七〇〇)三郷水帳寄帳では屋敷数二二・役数三二役で、うち年寄分一役が無役。年寄縄屋仁兵衛。享保の飢饉の際の施行人は年寄布屋五郎右衛門ら一二名(仁風一覧)、天保の飢饉では九名で、伊賀屋宗七・同半兵衛・同儀兵衛が各銭一〇〇貫文など、伊賀屋又兵衛が銭三〇貫文を出金した(天保仁風便覧)

旅籠町
はたごちよう

[現在地名]中区松原一―二丁目

ほり川の日置ひおき(現松原一―二丁目、中川区松重町)より東への横筋。この地に朝鮮人来聘の時、下官の者たちが宿泊したことからこの町名が付く(尾張志)。初め下日置しもひおき町にあったが、明治一一年(一八七八)分裂し市内に入る。日置橋は納屋なや橋の南にあり、旅籠町の西方、堀川に架かる橋。

旅籠町
はたごまち

[現在地名]亀岡市旅籠町

京街道(山陰道)沿いの東西の町。西端は大手門前の南北の町並である新町しんまち矢田町やだまちと接し、西への通りは柳町やなぎまちに至る。

町名は本陣をはじめ、旅宿・問屋などが集まっていたことによる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

世界大百科事典(旧版)内の旅籠町の言及

【秋葉原】より

…JR山手・京浜東北両線と総武線が交差し,貨物駅もあり,また駅に隣接してあった東京中央卸売市場神田分場は1989年,大田区東海の東京卸売市場大田市場(38万6000m2)が開設されて移転した。須田町から旧旅籠(はたご)町(外神田1・3丁目)に至る有名な電気器具街は第2次世界大戦後,神田にあった4~5店の電気器具の大卸売商にひかれて多くの電気・電子機器の卸小売店が集まってきたもので,交通など立地条件のよいことで繁栄している。【正井 泰夫】。…

※「旅籠町」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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