新見荘(読み)にいみのしょう

改訂新版 世界大百科事典 「新見荘」の意味・わかりやすい解説

新見荘 (にいみのしょう)

中世の東寺荘園の一つ。現在の岡山県新見市の北西部の広大な地域を占める。平安時代の末ころ,大中臣孝正の開発した所といわれ,孝正はこれを官務家の小槻隆職(おづきのたかもと)に寄進した。小槻隆職はさらに上級の権門の保護を得るため,建春門院平滋子とその子高倉天皇を本願とする最勝光院に寄進,かくして新見荘は最勝光院を本家,小槻氏を領家とする荘園となった。鎌倉中~末期には地頭との間に下地中分が行われ,東方を地頭方,西方を領家方とした。またこのころには本家最勝光院も衰退してほとんど皇室の御願寺としての体をなさなくなり,1325年(正中2)1月後醍醐天皇はこれを東寺に寄進,ここに当荘は東寺を本家とする荘園となった。その領家職は29年(元徳1)に一時後醍醐天皇から東寺に付され,翌年には周防国美和荘の代りとして永代東寺に寄せられ,当荘は本家・領家両職ともに東寺の支配を受けることとなった。33年(元弘3)には,後醍醐天皇はさらに丹波国大山荘,若狭国太良(たら)荘の地頭職とともに当荘地頭職を東寺に寄進,不動堂において不動護摩を修することとした。しかしこの地頭職は36年(延元1・建武3)足利尊氏によって停止された。

 南北朝期を通じて,東寺と小槻氏との間に領家職をめぐって激しい相論がくりひろげられたが,90年(元中7・明徳1)11月,東寺は毎年の年貢の7分の1を小槻氏に納めるという条件で両者の間に和解が成立,ここに新見荘は完全な東寺領荘園となった。しかし当荘は京都から遠隔の地にあったため東寺はこれを代官請の地とし,1408年(応永15)からは備中国守護細川氏の被官安富宝城,同智安が荘務を請け負った。安富智安は41年(嘉吉1)から60年(寛正1)にいたる20年間に2200余貫の年貢を未進しただけではなく,百姓に対しても数々の非法をはたらいた。これにたえかねた百姓たちは翌61年,惣社八幡宮において神水をくみかわし,東寺の直務(直接支配)を要求し,安富の代官を追い出した。これに応じて東寺からも幕府に直務の要求が出され,同年9月それが認められた。そこで東寺は早速上使を派遣して直務支配にのりだし,翌年には正式の直務代官として祐清を下向させ,三職といわれた現地の土豪の協力のもとに荘務を行わせた。しかし年貢の取立てのきびしい祐清に不満をもった一部の百姓は,63年これを殺害する事件もおこった。応仁の乱に際しては,安富氏その他の武士入部を企てたので,百姓たちは67年(応仁1)から69年(文明1)にいたる間,たびたび寄合を開いて,東寺以外は領主には仰がないことを決議して武士の支配に抵抗した。これを備中の土一揆という。応仁の乱の終息とともに新見荘も他の多くの所領とともに一時東寺に安堵されるが,以後は武士勢力の進出によって土一揆も解体し,東寺の新見荘支配はほとんど有名無実化してしまった。
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百科事典マイペディア 「新見荘」の意味・わかりやすい解説

新見荘【にいみのしょう】

備中国哲多(てつた)郡の荘園。現岡山県新見市西部と阿哲(あてつ)郡神郷(しんごう)町(現・新見市)北部一帯。平安末期に大中臣氏が開発したという。京都最勝光(さいしょうこう)院を本所,壬生官務(みぶかんむ)家(小槻氏)を領家(りょうけ)としていたが,1330年までにはいずれも後醍醐天皇により京都東(とう)寺に寄進された。鎌倉中期頃に下地中分(したじちゅうぶん)が行われ,東を地頭方,西を領家方とした。地頭職は一時東寺に寄進されていたが,室町以降は在地武士の新見氏らが押領。荘内には高梁(たかはし)川沿いに二日市庭(ふつかいちば)と三日市庭があり,水運を利用した商人や,鍛冶師・轆轤(ろくろ)師・紙漉などの職人もいた。1408年から守護被官安富氏による代官請となるが非法・不正が続き,農民らは寺家の直務(じきむ)を要求して八幡宮社前で一味神水(いちみしんすい),1461年には安富氏追放に成功した。その後,苛酷な直務代官を殺害する事件もあり,また入部を企図する安富勢に一丸となって抵抗したこともあったが,戦国武士の進出で一揆は解体,東寺支配も有名無実化した。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「新見荘」の意味・わかりやすい解説

新見荘
にいみのしょう

東寺(とうじ)領荘園の一つ。現在の岡山県新見市の北部に広大な地域を占めていた。平安末期、大中臣孝正(おおなかとみのたかまさ)が開発した所といわれ、孝正はこれを小槻隆職(おづきのたかもと)に寄進、隆職はさらに、後白河(ごしらかわ)法皇の建立で、その女御(にょうご)建春門院(けんしゅんもんいん)および高倉(たかくら)天皇を本願とする最勝光院(さいしょうこういん)に寄進した。かくして当荘は最勝光院を本所(ほんじょ)、官務家小槻氏を領家とする荘園となったが、鎌倉中末期ごろ下地中分(したじちゅうぶん)が行われた。1325年(正中2)正月、後醍醐(ごだいご)天皇は、そのころほとんど皇室の御願寺(ごがんじ)としての体をなさなくなった最勝光院を東寺に寄進。ここに当荘は東寺を本所とすることとなった。領家職も1330年(元徳2)永代東寺に寄進され、新見荘は一円東寺領となった。南北朝期を通じて前の領家小槻氏と東寺の間には激しい相論が繰り広げられたが、1390年(元中7・明徳1)両者の間に和解が成立、ここに完全な東寺領荘園となった。室町時代には代官請(だいかんうけ)が行われたが、年貢はかならずしも順調には上納されず、武家代官の支配を嫌う百姓の要求もあって、1461年(寛正2)には東寺の直接支配が成立した。しかし、戦国時代になると他の荘園と同様、漸次東寺の支配を離れていった。

[上島 有]

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「新見荘」の解説

新見荘
にいみのしょう

備中国阿賀(あか)郡・哲多郡にあった荘園。荘域は岡山県新見市北部。開発領主は大中臣氏。平安末期に領家職が小槻氏に,本家職が建春門院の祈願寺最勝光院に寄進された。鎌倉末期には,後醍醐天皇によって最勝光院ともども東寺に寄進された。室町時代には守護被官の代官請が続いたが,1461年(寛正2)名主たちの要求によって東寺の直務(じきむ)支配となった。応仁の乱中,名主らが守護方の軍勢の入部を阻んだことは,一揆史上有名。また鎌倉中期に下地中分(したじちゅうぶん)が行われ,詳細な検注帳が作成された。この帳簿をもとに中世の村落景観の復元が試みられていることでも注目される。

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世界大百科事典(旧版)内の新見荘の言及

【市】より

… 南北朝初期,宝市とうたわれた天王寺浜市(大阪)には,布座,米売,柑(こうじ)座など種々の商売物の座があり,また借屋があり,常住のものも見られた。備中国新見荘の市は,3の日に市が立ち,1334年(建武1)には,地頭方のみで,市場在家14軒の屋敷が存在している。領家方を加えると,その倍の規模をもつ市であり,定住化が進んでいたと考えられる。…

【市場銭】より

…鎌倉末期,薩摩国入来院塔原郷内の借屋崎市は〈得分有るの地〉(《入来文書》)として,地頭渋谷一族の争奪の対象となり,蔵人所所属灯炉供御人や石清水八幡宮所属の大山崎油神人ら諸国を行商,回国する商工業者たちが市津料免除の特権を要求したのも,市場銭徴収傾向が一般化しつつあった状況を裏書きしているものといえよう。1334年(建武1)備中国新見荘東方地頭方内市場では,市場銭は商人別に課された弓(公)事銭,商品別に課された駄銭,販売座席料として課された借屋銭等に細分化されるようになっている。このほか市場内の家屋については在家別,間別に市場銭が課された例が多い。…

【備中国】より

…細川氏の下で守護代に任じたのは荘,石川両氏であるが,守護家の勢力が衰えると,両守護代家や国人三村氏の勢力が台頭して本格的な戦国乱世を迎える。 中世の荘園としては,東寺領新見(にいみ)荘,神護寺領足守(あしもり)荘,南禅寺領三成(みなり)荘,安楽寿院領駅里(はゆまや)荘,相国寺領大井荘などが知られ,ほかに東福寺領上原(かんばら)郷,吉備津宮領隼島(はやしま)保,新熊野社領佐方(さかた)荘,万寿(ます)荘,多気(たけ)荘,長講堂領巨瀬(こせ)荘,六条院領大島保ほかの多くの荘園があり,皇室領荘園が多いのがめだつ。なかでも新見荘はもと本所職(ほんじよしき)を最勝光院(領家職は官務家小槻(おづき)氏)とする皇室領で鎌倉末期に東寺に寄進された荘園であるが,その関係文書の多いことでは東寺領播磨国矢野荘と双璧をなし,とくに1271年(文永8)の領家方正検帳,1325年(正中2)の地頭方実検取帳が案文(写し)ではあるがそろっている点は貴重であり,また筆まめな寺家の直務(じきむ)代官祐清(ゆうせい)や田所金子衡氏(かなごひらうじ)(もと安富氏の被官古屋弾正左衛門尉衡氏)の多数の詳細な書状が〈東寺百合(ひやくごう)文書〉に含まれていて,解体期荘園の苦難に満ちた実情をよく示してくれる。…

※「新見荘」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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