新見庄(読み)にいみのしよう

日本歴史地名大系 「新見庄」の解説

新見庄
にいみのしよう

和名抄哲多てつた郡新見郷の郷名を継ぐものか。当初は皇室領、のち京都東寺(教王護国寺)領。同寺に伝来した当庄に関する膨大な史料によって、庄園研究史上、最も著名な庄園の一つである。主として東寺百合文書には支配に関する史料、教王護国寺文書には収支に関する史料が多くみられる。寛正二年(一四六一)の上使祐成・祐深の連署注進状(東寺百合文書、以下同文書は略す)に、「当庄の堺ハ、長さは七里也、よこは一里、皆々山家也、中に川有之」とあり、検注帳などにみえる地名から、庄域のほとんどは高梁たかはし川右岸にあり、現新見市の西部と阿哲あてつ神郷しんごう町北部に広がっていたことが明らかにされている。東・西・南の三方は国衙領に囲まれていた。高梁川の流域に若干の平坦地がある以外、庄内の大部分は山地で九〇〇メートル級の山が連なる。神郷町に含まれる高瀬たかせ村は中国山地の高原地帯である。

〔伝領と支配〕

在地の有力者であった大中臣遠正が開発し、平安末期に、造東大寺大仏長官や算博士などを兼任していた小槻家に寄進された(建武四年六月二五日法印信尊契約状)。小槻家は領家職を保留し、本所職を京都最勝光院に寄進した。承久三年(一二二一)一〇月二九日の官宣旨には、最勝光院領新見庄とみえる。同院領は、後堀河―亀山―後宇多―後醍醐へと相伝された大覚寺統の皇室領である。小槻家は在地に預所を置き、庄官として惣追捕使・田所・公文を補任して支配を行った。田所は在地有力者である菅野氏(三善氏)が補任されていた。嘉元元年(一三〇三)の田所は三善覚正であり、末弘・延遠・真近・恒房などの名の作人職が付されていた。覚正は、これらの名田からの年貢を上納する義務を負っていたが、名田の麦地子と公事は免除されていた(嘉暦元年八月三日左衛門尉範世奉書案)

正中二年(一三二五)一月、後醍醐天皇は最勝光院院務職と当庄本所職などを東寺に寄進した。本所職の内容は、本年貢油五石、綾被物二重である(正中二年最勝光院領庄園目録抄)。本所職を得た東寺は、庄園領主としての実質を意味する領家職の獲得をめざして、南北朝内乱期をとおして小槻家と相論を繰返す。元弘三年(一三三三)九月、後醍醐天皇は当庄地頭職を東寺に寄進した。これをうけて一二月一九日、則宗を上御使とする八三人からなる国司上御使の一行が庄内に入った。新見庄地頭方の年貢公事などの点検を行うためである。庄民らは上使の乗馬に粥と豆を与え、一行には清酒・白酒・鳥・スルメ・大根・魚などを供して歓待した(建武元年三月七日国司入部雑事注文)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報