新羅(しらぎ)(読み)しらぎ

日本大百科全書(ニッポニカ) 「新羅(しらぎ)」の意味・わかりやすい解説

新羅(しらぎ)
しらぎ

朝鮮古代の国名(356~935)。「しんら」「しら」ともいう。日本では城の意味を語尾に付して、「しらぎ」と呼び習わしている。新羅の建国は、前身の辰韓(しんかん)斯盧(しろ)国から新羅に変わり、六部(りくぶ)の統合による貴族連合体制の成立する4世紀後半とみられる。

井上秀雄

前史(斯盧国時代)

新羅は韓(かん)族の初期農耕社会から生まれ、農村共同体を基盤とした国家である。その中心をなす六村は、辰韓の斯盧国時代に成立し、慶州盆地とこれを取り巻く幅1キロメートル、長さ10キロメートル以上の谷間をそれぞれ根拠地として発展した。斯盧国は初期農耕生産の有利な地域であるが、地域的に偏在していたため、4世紀中葉まで国際的に知られなかったが、社会的、経済的にはかなりの発展をみせていた。その政治組織は支配権力が弱く、個々の成員を重視した。その王者は農耕生産に必要な天候を予知するシャーマンであった。基層文化は南方系で、貴族文化には中国文化や高句麗(こうくり)、モンゴルなどの北方文化の影響が強くみられる。

[井上秀雄]

初期貴族体制(356~500年)

4世紀後半には、六村の連合体制が六部の統合による貴族体制にかわった。国際的には、新羅は377、382両年に前秦(ぜんしん)に朝貢している。399年以後、倭(わ)や高句麗に王都を占領されるなど苦難の時代が続いた。425年以降、倭王が宋(そう)(南朝)に要請した称号に、新羅、秦韓など七国諸軍事があるが、これらの朝鮮、中国史料の倭は、北九州の倭国および加羅(から)諸国の別称とみられる。5世紀後半になると、新羅は高句麗、倭の勢力を排除しながら洛東江(らくとうこう)中流域に進出した。この時期には王者の権威が伸張し、巨大な墳墓がつくられた。副葬品から、王者の権威が農耕祭祀(さいし)にあり、その文化が北方スキタイ文化や中国文化の影響であることが知られる。

[井上秀雄]

後期貴族体制(500~676年)

この時期の特徴は、国内の諸制度の整備と領土の拡大とにある。これを細分すれば、642年までは貴族体制の制度化と、三国対立のなかでの領土拡大とである。それ以後は律令体制への過渡期で、統一戦争の時期でもある。530年ごろまでに上大等、兵部令など中央官職や、州軍主など地方軍政官を制定し、正式の官服なども制定した。これらの諸制度は、初期貴族体制下で成立した慣習を整備したものが多い。官位十七等や六部の制度も、この時期の共同体の再編成により、その原型ができた。経済面でも飛躍的に発展し、牛耕や堤防の築造など新しい農耕技術が導入され、商品売買の市場が開かれ、水上運輸も整備された。

 文化面では528年に仏教を公認し、独自の元号を使用し始めた。領土拡大も積極的に行われ、百済(くだら)の勢力を排除して、加羅諸国を支配下に収めた。530年ごろ大邱(たいきゅう)地方に進出し、532年には金海加羅地方を併合した。真興(しんこう)王代(540~576)は仏教の興隆と伽倻琴(かやきん)・加羅楽の継承など文化の発展期でもあり、三国時代最大の版図となった領土拡大期でもあった。560年代には洛東江、漢江両流域と日本海岸とを制圧し、ここに四方軍主を置き、地方制度を整備した。ついで真平王代(579~632)では中央の諸制度を整備したが、その官制は貴族の請負制、合議制であり、軍隊も貴族の私兵や宗教的な花郎(かろう)(貴族の子で青年戦士団の指導者)集団が中心となっている。国際関係では中国諸王朝との関係が、深くはないが良好であった。日本との関係は三国中もっとも緊密で、その外交問題は、6世紀中葉に日本が仲介役をした任那(みまな)問題であった。また、外交手続では621年から国書外交となり、継続的な外交交渉が可能になった。

 新羅の統一戦争期は、643年に新羅が唐に救援を求めたときから始まる。このとき唐の太宗李世民(りせいみん)の示唆により、647年に善徳女王を廃位するが、金庾信(きんゆしん)など下級貴族や地方豪族が女王を擁立して、上大等毗曇(ひどん)など貴族勢力を打ち破った。651年には官制も改革され、律令官僚体制への第一歩を踏み出した。660年に新羅・唐連合軍が百済を滅ぼし、663年に日本軍と連合した百済復興軍を白村江(はくそんこう)の戦いで破った。新羅・唐連合軍は668年に高句麗を滅亡させた。670年にそれまで同盟を結んでいた唐軍と戦い、旧百済領内の唐軍を駆逐し、高句麗復興軍を援助して唐と対立した。676年までの対唐戦争では、地方豪族や下級貴族が積極的に戦い、新しい統一新羅の時代をつくった。この時期の日本との国交は緊密で、白村江の戦い以後も百済の使節が、また滅亡後も高句麗の使節が、それぞれ新羅の使節に伴われて頻繁に来朝しているが、これらは新羅が日本との外交を円滑にするためのものであった。

[井上秀雄]

王権確立期(677~765年)

この時期以後を統一新羅ともいう。この時期は律令体制の発展期で、貴族文化の最盛期でもある。中央官制は675、685両年の整備によって官僚化がほぼ完了するが、797年以降はしだいに縮小した。新羅の官僚制度を支える丁田制は722年から始まるが、757年には早くも貴族体制を支えた禄邑(ろくゆう)制に逆戻りした。地方制度では685年に五京・九州制が完成し、州のもとに郡・県・村制度がとられた。新羅には村落共同体が根強く残っていたため、行政単位は自然村落であった。またこれを基盤とした旧貴族勢力も、新羅末まで存続した。そのため、日本のような新興貴族、律令官人層の台頭はみられない。しかし、外位の廃止など畿内(きない)と地方との制度上の差別はいちおう解消した。文化面では仏教、儒教をはじめ歌舞、音曲などの貴族文化が飛躍的に発展した。新羅仏教は国家鎮護を目的にし、国家の庇護(ひご)のもとで多くの名僧が輩出した。7世紀には涅槃(ねはん)宗、戒律宗、華厳(けごん)宗、法性宗、法相宗の五教のほかに浄土教や密教が盛行し、禅宗もしだいに普及した。

 日本との関係は、唐との対立の厳しい7世紀後半には緊密であったが、唐との関係が修復された8世紀には疎遠になった。687年ごろから日本が、上位にたつ国交を行おうとして、新羅と対立し始めた。752年に新羅は王子金泰廉を日本に派遣し、国交の正常化を図ったが、日本が拒否したため、外交関係は断絶した。これには、727年から始まる日本の渤海(ぼっかい)外交とも関係があった。貿易は外交と逆にしだいに活発になった。

[井上秀雄]

王位争奪期(765~825年)

この時期は律令体制推進勢力と貴族体制復帰勢力との対立抗争の時期である。恵恭王代(765~780)には、両派の政策的な対立から六つの内乱が続発した。宣徳、元聖両王代(780~798)は、軍事力、政治力によって王位を奪い、貴族体制を標榜(ひょうぼう)しながら政策的には律令を推進した。809年哀荘(あいそう)王を殺害して王位についた憲徳王は、王畿中心の貴族体制をとったため、地方では反乱が相次ぎ、その総決算として822、825年と金憲昌(きんけんしょう)父子の内乱が起こった。この時期にも儒教、仏教が栄え、五廟(ごびょう)制や官吏登用のため読書三品の制が定められた。

[井上秀雄]

地方自立期(825~935年)

この時期は王畿を基盤とする貴族体制に復帰したため、地方が自立し、9世紀末以降、新羅王朝が地方政権となる後三国時代を迎えた。834年に骨品制による王畿住民の身分序列を設定した。この骨品制は王畿の住民を優遇した制度で、地方住民は律令的収奪の対象にすぎなかった。そのため地方住民は反乱を繰り返し、やがてこのような地方勢力を結集し、892年に甄萱(しんけん)が後百済(ごひゃくさい)国を興し、895年には弓裔(きゅうえい)が後高句麗国を建て、後三国時代となった。918年弓裔の後を受けた王建は高麗(こうらい)国を建てたが、935年には新羅が国をあげて高麗に帰順した。この時期の文化は、時勢を反映して禅宗が仏教界を支配し、地理風水説もおこった。890年ごろには、新羅の歌謡を集めた『三代目(さんだいもく)』が編纂(へんさん)された。また、新羅、日本、唐の貿易、運輸に活躍した張保皐(ちょうほこう)などもいた。

[井上秀雄]

『末松保和著『新羅史の諸問題』(1954・東洋文庫)』『井上秀雄著『新羅史基礎研究』(1974・東出版寧楽社)』『井上秀雄著『古代朝鮮』(NHKブックス)』『井上秀雄訳注『三国史記1』(平凡社・東洋文庫)』『李丙燾著、金思燁訳『韓国古代史』上下(1979・六興出版)』


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