新田荘遺跡(読み)にったのしょういせき

国指定史跡ガイド 「新田荘遺跡」の解説

にったのしょういせき【新田荘遺跡】


群馬県太田市にある荘園跡。新田荘は平安時代末期の12世紀中ごろに成立。源義国(源義家の子)を父とする義重が、現在の太田市西部の早川流域・石田川流域を再開発して19郷を支配下に置き、その後さらに39郷を開発して荘園化した。新田義貞は義重から数えて8代目にあたり、この地には1333年(元弘3)に義貞が後醍醐(ごだいご)天皇の命を受けて鎌倉幕府を滅ぼすために兵を挙げたとされる生品(いくしな)神社があり、1934年(昭和9)に義貞挙兵600年を記念して「新田義貞挙兵伝説地」として国の史跡に指定された。2000年(平成12)に史跡「新田荘遺跡」として、新田荘に関わる館跡を中心とした円福寺境内別所町)、十二所神社境内(別所町)、総持寺境内(世良田町)、長楽寺境内(世良田町)、東照宮境内(世良田町)、明王院境内(安養寺町)、生品神社境内(新田市野井町)、江田館跡(新田上江田町)、反町館跡(新田反町町)、重殿(じゅうどの)水源(新田市野井町)、矢太神(やだいじん)水源(新田大根町)の11の遺跡が指定し直された。円福寺は新田氏4代政義が開いたと伝えられ、境内には一族の墓と伝わる凝灰岩製の五輪塔が20基ほど残っている。円福寺本堂の西側にある十二所神社は、創建年代は不明だが、本殿に安置される一木造りの神像16体のうち、5体には1259年(正元1)の銘がある。総持寺は新田館跡の一角に建てられた寺で、中世の堀や掘立柱建物、井戸などの跡が検出され、有力者の居館跡とみられている。長楽寺新田義重の子、世良田(せらだ)義季(よしすえ)を開基とし、栄西の高弟開山として1221年(承久3)に創建された、東日本最初の禅寺。江戸時代には徳川家康が祖先の寺として重視し、天海僧正を住職とした。その天海の発願で日光から境内に勧請されたのが、東照宮で、拝殿と本殿は重要文化財。明王院は新田義貞の居館跡とも推定され、不動堂に納められる小さな白金製の不動明王像は、鎌倉攻めのとき、山伏に化身して越後方面の一族にそのことを触れまわったという伝承がある。反町館は、義貞が居住したともいわれ、堀に水をたたえかつての館の面影を残す。江田館は鎌倉攻めでも活躍した江田行義の館と伝えられる。重殿水源は現在、東西10m、南北23mほどの池になっているが、大間々(おおまま)扇状地の涌水の一つで、この水源をめぐる鎌倉時代末期の争いが記録されている。矢太神水源も同様の湧水で、荘園の開発に利用された水源である。東武鉄道伊勢崎線ほか太田駅から太田市営バス。

出典 講談社国指定史跡ガイドについて 情報

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