新オスマン人(読み)しんオスマンじん(英語表記)Yeni Osmanlılar

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「新オスマン人」の意味・わかりやすい解説

新オスマン人
しんオスマンじん
Yeni Osmanlılar

オスマン帝国末期,1860年代にヨーロッパに留学して西欧文化を吸収した知識人により展開された自由主義運動とそのにない手たちを呼ぶ。彼らは 1860年に民間新聞"Tercümân-i Ahvâl" (諸情勢の翻訳者) ,62年に"Tasvîr-i Efkâr" (世論注釈) を発刊して運動の口火を切り,さらに 67年にはイブラヒム・シナースィ,ナムク・ケマル,ズィヤ・パシャらを中心に「新オスマン人協会」をつくり,文化・政治活動を通じて,アブドゥル・アジーズ専制を批判し,体制の改革を訴えた。彼らの運動はミトハト・パシャの開明政治と結びつき,76年にトルコ最初の憲法ミトハト憲法』と議会とを生み出した。

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「新オスマン人」の解説

新オスマン人(しんオスマンじん)
Yeni Osmanl&idotless;lar

オスマン帝国立憲運動を推進した人々。ナームク・ケマルら自由主義的・進歩主義的知識人は,帝国再生の道を立憲制に見出し,ムスリムと非ムスリムに「オスマン人」としての共存・協力関係を呼びかけるオスマン主義を唱えた。

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世界大百科事典(旧版)内の新オスマン人の言及

【イスタンブール】より

…一方,西欧化によるスルタンへの権力集中と経済的植民地化とを批判する勢力が,近代的軍人・官僚・知識人の間からも生まれた。1860年代以降の〈新オスマン人〉による自由主義的立憲運動は,1908年の青年トルコ革命に受け継がれた。この革命はまたトルコ人の民族主義運動でもあった。…

【タンジマート】より

…このため,1860年代末以後改革はしだいに後退し,70年代に入ると,スルタン,アブデュルアジーズ(在位1861‐76)は専制化した。これに対してナムク・ケマルミドハト・パシャら〈新オスマン人〉による批判が強まり,76年に〈ミドハト憲法〉が発布されてオスマン帝国は第1次立憲政を迎え,タンジマートは終息した。【永田 雄三】。…

※「新オスマン人」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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