新(中国の王朝)(読み)しん

日本大百科全書(ニッポニカ) 「新(中国の王朝)」の意味・わかりやすい解説

新(中国の王朝)
しん

中国の王朝(9~23)。王莽(おうもう)が前漢王朝を簒奪(さんだつ)して建てた。王莽は前漢第11代皇帝元帝(げんてい)の外戚(がいせき)王氏一族の一人として頭角を現し、そして最後の皇帝、9歳の平帝(へいてい)の大司馬(だいしば)となり国政を総覧、やがて平帝を毒殺して2歳の劉嬰(りゅうえい)を皇太子にたて、自ら古(いにしえ)の周公をまね摂政(せっしょう)となり実権を握り仮皇帝と称した。そして西暦9年には、「王莽、真天子となれ」と記された符命の出現を盾についに皇帝位につき、国号を新とした。符命とは天帝から下される天意であり、絶対的権威があると当時考えられていた。それは、前漢末期には儒教思想のなかの哲学的側面よりも、社会道徳を強く説く経書に対して、宇宙の真理や予言を示す緯書(いしょ)が出現、儒教がその体系内に讖緯説(しんいせつ)とよばれるその神秘主義を取り入れた結果であった。新王朝15年間に、『周礼(しゅらい)』を中心とする古文学派の復古的儒教思想と神秘思想の下に内政・外交の改革が続々と施行された。しかしたび重なる官制、官名、地名の改変や貨幣の改鋳は人々の不平を招いた。また、前政権以来の社会問題である大土地所有者の増大と商工業者の暴利による、農民の土地喪失と貧窮化を解決しようとして行った土地法令、国家専売制の強化策は、豪族層の反抗を生じてすべて失敗に帰した。対外政策面でも漢代からの安定的な冊封(さくほう)体制を否定することによって匈奴(きょうど)、西域(せいいき)諸国などの離反をよんだ。

 新王朝を短命に終わらせた主因は、疲弊した広範な農民の反乱と、王莽の政策に反対する豪族の反乱であった。前者の代表が山東の赤眉(せきび)の乱、後者が南陽の劉氏一族蜂起(ほうき)であった。23年10月、劉玄(りゅうげん)(更始帝(こうしてい))の軍は長安城内に突入、3日間の白兵戦ののち、王莽は首を切られ、遺体は切り刻まれて兵士たちに食べ尽くされたという。このように新は短命であるが、中国史上最初の無血による政権交代であること、国家の祭祀(さいし)儀礼の改革、儒教の国教化の完成、施策のなかの王道天下的理想主義など、後世の各王朝を規定する儒教主義の出現として非常に注目される。

[春日井明]

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

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