斎藤秀雄(読み)サイトウヒデオ

デジタル大辞泉 「斎藤秀雄」の意味・読み・例文・類語

さいとう‐ひでお〔‐ひでを〕【斎藤秀雄】

[1902~1974]音楽教育家・チェロ奏者・指揮者東京の生まれ。ドイツに二度留学。第二次大戦後後進指導尽力、すぐれた門下生多数育成した。

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改訂新版 世界大百科事典 「斎藤秀雄」の意味・わかりやすい解説

斎藤秀雄 (さいとうひでお)
生没年:1902-74(明治35-昭和49)

指揮者,チェロ奏者,音楽教育者。上智大学を卒業後,1923-27年ライプチヒ音楽院に留学してJ.クレンゲルについてチェロを学ぶ。帰国して新交響楽団(現,NHK交響楽団)首席チェロ奏者となり,30年からベルリン高等音楽学校に留学,2年間フォイアマン師事した。帰国後新交響楽団に復帰したが,41年退団して翌年から指揮者として活動。48年〈子供のための音楽教室〉を開設,55年〈教室〉が桐朋音楽短大(7年後,大学)として開校すると同時に教授に,ついで学長就任,一貫して後進の育成に力を注ぎ,日本音楽界の飛躍的発展の基礎を築いた。
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百科事典マイペディア 「斎藤秀雄」の意味・わかりやすい解説

斎藤秀雄【さいとうひでお】

チェロ奏者,指揮者。東京出身。1923−1927年ライプチヒ音楽院でクレンゲルにチェロを学び,帰国後新交響楽団(現在のNHK交響楽団)首席チェロ奏者を経て,ベルリン高等音楽学校で世界的チェロ奏者のフォイアマンに師事。1942年より指揮者として活躍するが,1948年桐朋学園大学の前身〈子供のための音楽教室〉を開設,のち教授,学長として音楽教育に貢献。1973年文化功労者。著書は《指揮法教程》。
→関連項目潮田益子

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「斎藤秀雄」の意味・わかりやすい解説

斎藤秀雄
さいとうひでお
(1902―1974)

指揮者、チェロ奏者、音楽教育者。東京生まれ。上智(じょうち)大学で学んだのち、1923~27年(大正12~昭和2)ライプツィヒ音楽院でクレンゲルに、30~32年ベルリン音楽大学でフォイアマンにチェロを学び、帰国後は41年まで新交響楽団の首席チェロ奏者を務めた。42年からは指揮者に転じ、日本の作品の初演もしばしば手がけた。第二次世界大戦後は48年(昭和23)に音楽の早期教育を目ざした「子供のための音楽教室」を開設して桐朋(とうほう)学園大学の基礎を築き、72年まで教授・学長として後進の育成に力を注いだ。門下からは指揮の小沢征爾(せいじ)、チェロの堤剛(つよし)、バイオリンの前橋汀子(ていこ)ら多くの音楽家を輩出させた。73年文化功労者。

[川口明子]

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「斎藤秀雄」の解説

斎藤秀雄 さいとう-ひでお

1902-1974 昭和時代のチェロ奏者,指揮者,音楽教育家。
明治35年5月23日生まれ。斎藤秀三郎の子。ドイツに留学後,新交響楽団(現N響)の首席チェロ奏者。昭和16年退団,指揮者に転じる。23年「子供のための音楽教室」を創設,36年桐朋(とうほう)学園大へと発展させ,教授。小沢征爾(せいじ),堤剛(つよし)らをそだてた。48年文化功労者。昭和49年9月18日死去。72歳。東京出身。上智大中退。

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