新撰 芸能人物事典 明治~平成 「斎藤 秀雄」の解説
斎藤 秀雄
サイトウ ヒデオ
- 職業
- 指揮者 音楽教育家 チェロ奏者
- 肩書
- 桐朋学園大学学長
- 生年月日
- 明治35年 5月23日
- 出生地
- 東京都
- 学歴
- 上智大学哲学科〔大正12年〕中退
- 経歴
- 父は英語学者の斎藤秀三郎。大正4年暁星中学に入学し、マンドリン演奏団に所属。また民間のマンドリンクラブの依頼で指揮活動もした。7年から宮内省雅楽部の多基永にチェロを師事。12年上智大学中退後、近衛秀麿に従いドイツに留学、ライプツィヒ音楽院でユリウス・クレンゲルに師事。昭和2年帰国し、新交響楽団(NHK交響楽団)のチェロ奏者となる。3年ヨゼフ・ケーニッヒ、前田璣、辻井富造、池譲と室内楽演奏会を開催、室内楽の重要性を考え始める。新響第30回定期公演で指揮者デビュー。4年最初のチェロ独奏会を開催。5年小松平五郎、箕作秋吉の呼びかけに応じ新興作曲家連盟の結成に参与。また同年再びドイツに赴きベルリン高等音楽院でエマヌエル・フォイアマンにチェロを学び、7年帰国後は演奏と弟子育成のほか、指揮活動も始める。11年ヨーゼフ・ローゼンシュトックの来日時には教えを請い自己の修練にも励んだ。16年新響を退団。17年松竹交響楽団、18年日本放送管弦楽団、20年東京フィルハーモニー交響楽団などの指揮者を歴任。終戦前後から指揮そのものよりも教育と室内楽に心を惹かれるようになり、21年東フィルを辞任、23年井口基成、伊藤武雄、吉田秀和らと子どものための音楽教室を設立。この教室が27年桐朋学園高等音楽科、30年短期大学、36年大学と発展し、30年から47年まで教授、学部長、学長などを断続的に務め、小沢征爾、堤剛、岩崎洸、前橋汀子、藤原真理ら多くの音楽家を育てた。一方で死去するまで指揮活動も継続。この間、27年から1年間のみ京都市立音楽短期大学教授に就任。31年名著として名高い「指揮法教程」を出版。39年桐朋学園弦楽合奏団を結成、入野義朗の引率で渡米公演をし喝采を浴びた。42年日本指揮者協会会長。47年新日本フィルハーモニー交響楽団の指揮者団顧問となった。48年ロン=ティボー国際コンクールの審査員として渡仏。49年8月の桐朋学園オーケストラ合宿に病をおして参加したが、翌月死去した。没後10年を記念したメモリアルコンサートをきっかけに、弟子達を中心にしたサイトウキネンオーケストラが組織され、平成4年からは毎年サイトウキネンフェスティバル松本が開催されている。昭和48年文化功労者。作曲面では管弦楽「お才」が昭和11年のNHK日本現代作曲祭で初演された他、歌曲「芥子の葉」やマンドリン曲なども手がけている。
- 所属団体
- 日本指揮者協会(会長),音楽芸術家協会
- 受賞
- 文化功労者〔昭和48年〕 毎日芸術大賞〔昭和60年〕
- 没年月日
- 昭和49年 9月18日 (1974年)
- 家族
- 父=斎藤 秀三郎(英語学者)
- 伝記
- 人を魅了する演奏代表的日本人吉田秀和全集〈22〉音楽の時間(4)嬉遊曲、鳴りやまず―斉藤秀雄の生涯チェロを生きる松本にブラームスが流れた日―小沢征爾とサイトウ・キネン・オーケストラ小沢征爾とその仲間たち―サイトウ・キネン・オーケストラ欧州を行く語り継ぐ斉藤秀雄のチェロ教育 紙谷 一衞 著斎藤 孝 著吉田 秀和 著中丸 美繪 著堤 剛 著小沢 幹雄 編著木之下 晃 写真・文井上 頼豊,長谷川 武久 編(発行元 角川学芸出版,角川グループパブリッシング〔発売〕筑摩書房白水社新潮社新潮社新潮社音楽之友社音楽之友社 ’09’08’03’02’02’93’88’87発行)
出典 日外アソシエーツ「新撰 芸能人物事典 明治~平成」(2010年刊)新撰 芸能人物事典 明治~平成について 情報