文治政治
ぶんちせいじ
江戸中期,4代将軍徳川家綱から5代綱吉・6代家宣 (いえのぶ) ・7代家継までの儒教的徳治主義に基づいた幕府の政治体制
幕府創設期の武力を背景に大名らを制圧する武断政治に対する語。家綱の襲職は1651年で,すでに関ケ原の戦いから50年が経過し,世代の交代で戦国の遺風も薄れ,武士も文官的要素が重んじられるなど時代の転換期を迎えていた。このような中で新生活倫理として儒教の徳治主義が登場,武断政治で強化された将軍権力を文治政治の権威づけでいっそう高揚することになった。慶安事件後の処置として牢人の再就職斡旋をとりあげ,末期 (まつご) 養子の禁を緩和している。大名の改易が激減し,殉死を禁じたのもその現れである。綱吉も儒学奨励策で将軍の権威づけにつとめ,家宣・家継の正徳の治では新井白石が参政,最高潮に達したが,形式主義に陥り8代吉宗の享保の改革で武断的傾向に復帰した。
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文治政治【ぶんちせいじ】
武力で圧伏する武断(ぶだん)政治に対応する政治手法。日本史上では4代将軍徳川家綱(いえつな)の時,幕藩支配体制の安定期に入り,儒教的徳治主義をとる文治政治に転換したとされ,朝幕関係の融和,大名の改易の減少,法令・制度の整備,学芸の振興策などがとられた。
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ぶんちせいじ【文治政治】
儀礼,法制,教化などの整備充実を通じて社会秩序の安定を維持しようとする政治。武力,権謀による強圧を主軸とする武断政治と対蹠的に用いられる。語句としては古く《礼記(らいき)》にも見えるが,日本ではとくに17世紀中ごろ,江戸幕藩政治が武断から文治へ転換したというのが通説的見解である。その指標としては朝幕関係の融和,大名の改易の減少,法令・制度の整備,儀礼の尊重,人民教化の重視,学芸の振興,政治における儒教の影響の進展などがあげられている。
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