政友本党(読み)セイユウホントウ

デジタル大辞泉 「政友本党」の意味・読み・例文・類語

せいゆう‐ほんとう〔セイイウホンタウ〕【政友本党】

大正13年(1924)立憲政友会から分裂して成立した政党。普通選挙法案に反対し、階級調和を綱領に掲げる。昭和2年(1927)立憲民政党に合流。

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精選版 日本国語大辞典 「政友本党」の意味・読み・例文・類語

せいゆう‐ほんとう セイイウホンタウ【政友本党】

大正一三年(一九二四)立憲政友会から清浦内閣を支持する派が分かれて結成した政党。総務委員は山本達雄元田肇、床次竹二郎ら。昭和二年(一九二七田中義一が政友会内閣を結成した際、憲政会と合同して立憲民政党組織

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改訂新版 世界大百科事典 「政友本党」の意味・わかりやすい解説

政友本党 (せいゆうほんとう)

立憲政友会(政友会)から分裂した政党。1921年11月原敬暗殺後,政友会内は,第1次大戦後の不況や普選運動の高揚に対応して財政緊縮や普選問題の解決を企図する高橋是清総裁,横田千之助ら改造派(のち非改革派)と,積極財政・普選反対等の従来の政友会路線を維持しようとする床次(とこなみ)竹二郎,中橋徳五郎ら非改造派(のち改革派)の対立が激化した。24年1月清浦奎吾(けいご)内閣の成立を契機に,前者は憲政会,革新俱楽部と結び普選等をスローガンに第2次護憲運動を起こし,後者は脱党して政友本党を組織し清浦内閣の与党となった。しかし政友本党は5月の総選挙で当選109名と護憲三派に大敗し,6月に床次が総裁になるが,政友会復帰の動きや憲政会との提携の動きが出るなど党内のまとまりは弱く党勢は振るわなかった。これは20年代前半から第2次護憲運動期をとおして,政友本党が期待した大地主を中心とした従来の政友会の地方基盤が変容したこと,および20年代後半に政友会(積極財政,強硬外交)と憲政会・民政党緊縮財政協調外交)の二大政党制が形成されるが,床次のリーダーシップの欠如もあり政友本党が独自の路線を形成することができず,政権獲得のための術策に終始したことによる。27年4月田中義一が政友会内閣を組織すると憲政会との合同運動が積極化し,6月両党が合同して立憲民政党を組織した。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「政友本党」の意味・わかりやすい解説

政友本党
せいゆうほんとう

1924年(大正13)1月29日立憲政友会床次竹二郎(とこなみたけじろう)派が結成した保守政党。1921年11月原敬(はらたかし)首相暗殺後の政友会は、高橋是清(これきよ)総裁らの高橋派と床次・中橋徳五郎(なかはしとくごろう)・元田肇(もとだはじめ)らの床次派との内部対立が激化していた。24年1月清浦奎吾(きようらけいご)内閣が成立すると、高橋派は憲政会、革新倶楽部(くらぶ)と提携して第二次憲政擁護運動に立ち上がったが、床次派は普通選挙反対を唱えて清浦内閣を支持し、149名が脱党して政友本党を結成した(床次の総裁就任は同年6月24日)。残留組の政友会は129名で第二党となる。しかし同年5月の総選挙で109名と護憲三派に惨敗し、第一次加藤高明(たかあき)内閣のもとで少数野党に転落した。第二次加藤、若槻礼次郎(わかつきれいじろう)両憲政会内閣時代には一時政友会と提携したが、27年4月田中義一(ぎいち)政友会内閣が成立すると、これに対抗するため、6月1日解党と同時に憲政会と合同し、立憲民政党を結成した。その結果、政友会、民政党による保守二大政党対立時代が出現した。

[木坂順一郎]

『升味準之輔著『日本政党史論 第五巻』(1979・東京大学出版会)』

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百科事典マイペディア 「政友本党」の意味・わかりやすい解説

政友本党【せいゆうほんとう】

1924年1月清浦奎吾内閣に対する賛否をめぐって立憲政友会が分裂した時,清浦を支持する床次(とこなみ)竹二郎らの保守派が結成した政党。〈階級調和〉〈世界平和〉を掲げたが,5月の総選挙で護憲三派に大敗し,また政友・憲政両党間に動揺して独自の路線を打出せず,1927年田中義一政友会内閣が成立するや6月憲政会と合同して立憲民政党を結成。
→関連項目加藤高明内閣朴烈事件若槻礼次郎内閣

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「政友本党」の意味・わかりやすい解説

政友本党
せいゆうほんとう

日本の政党。 1924年に清浦奎吾内閣の成立にあたって,立憲政友会を脱党した清浦支持派である床次竹二郎一派が結成した。政友会に残留した 129人に対し,149人を擁して第1党となり,唯一の与党として,護憲三派と対立。総務委員に床次 (6月以後,総裁) ,山本達雄,元田肇,杉田定一,中橋徳五郎がなり,鳩山一郎,波多野承五郎が参加した。6月に護憲三派による加藤高明内閣が生れると,床次は政友会の田中義一総裁と両党合同の申合せを行なったが実現せず,合同派の中橋,鳩山ら 22人が政友会へ走った。 26年憲政会による若槻礼次郎内閣の成立時には政友会と提携したが,27年田中義一内閣の誕生とともに,憲政会と合同して立憲民政党を結成するにいたった。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「政友本党」の解説

政友本党
せいゆうほんとう

大正末~昭和初期の政党。1924年(大正13)1月に立憲政友会を脱党した床次(とこなみ)竹二郎らが結成。原敬の死後,内紛が続いていた政友会では,同年1月の清浦内閣成立に際して,憲政会・革新倶楽部と提携して清浦内閣に反対しようとする高橋是清総裁派と,内閣支持を主張する床次派の対立が激化。床次派は脱党して政友本党を組織,清浦内閣の与党として護憲三派に対抗した。第48議会解散時は149議席を占め第1党だったが,5月の総選挙で第2党に転落,加藤高明護憲三派内閣の野党になる。まもなく政友会との合同運動がおこり,鳩山一郎ら二十数人が政友会に復帰し勢力はさらに後退。27年(昭和2)6月憲政会と合同して立憲民政党を組織した。

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旺文社日本史事典 三訂版 「政友本党」の解説

政友本党
せいゆうほんとう

1924年1月,立憲政友会から分裂してできた政党(〜'27)
第2次護憲運動に際し,政友会で清浦奎吾内閣を支持して成立。床次 (とこなみ) 竹二郎・山本達雄・鳩山一郎らが中心となり護憲三派に対抗した。1927年6月,憲政会と合同し立憲民政党を結成。

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世界大百科事典(旧版)内の政友本党の言及

【政友会】より

…政友会は,次の加藤友三郎内閣には与党としてこれを支持したが,1923年9月に成立した第2次山本内閣には野党の立場をとり,続く清浦奎吾内閣が貴族院議員を中心に組閣されると,24年高橋総裁ら主流派は憲政会,革新俱楽部とともに護憲三派を形成して第2次護憲運動をおこした。そのため,床次(とこなみ)竹二郎ら反主流派が分裂して政友本党を結成したため,政友会は過半数政党の条件を失い,解散後の総選挙でも議席を減らすことになって政局運用のリーダーシップを失った。その結果,憲政会総裁加藤高明を内閣首班とする護憲三派内閣に高橋ら2名を入閣させ,25年公約の普選法案などを成立させると,高橋は政局打開の見通しを失って辞任し,政友会は陸軍大将田中義一を後継総裁に迎え,さらに革新俱楽部を吸収した。…

【床次竹二郎】より

…その間,内務省社会局,協調会を設置し,民力涵養運動を推進して社会運動に対抗し,さらに郡制の廃止を断行した。原の没後,政権担当への願望を強め,24年清浦奎吾内閣を支持して政友会を分裂せしめて政友本党を結成し総裁に就任した。27年,発足した立憲民政党の顧問となったが翌年脱党して新党俱楽部を組織し,さらに政友会に復帰した。…

※「政友本党」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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