抜歯(読み)ばっし(英語表記)exodontia

精選版 日本国語大辞典 「抜歯」の意味・読み・例文・類語

ばっ‐し【抜歯】

〘名〙
① 歯を抜くこと。
※ぼらのへそ(1956‐57)〈中野好夫〉肉親のある肖像画「何本か抜歯してブリッジをするよりほかないという」
② 縄文中期から彌生期にわたり行なわれた歯牙変形の一つ。成人式などの通過儀礼として、切歯・犬歯などの前歯の抜去を行なったもの。

ぬけ‐ば【抜歯】

〘名〙 抜け落ちた歯。また、あちこち抜けて欠けている歯。
西洋道中膝栗毛(1870‐76)〈仮名垣魯文〉六「ヲヤこりゃアうらがぬけ歯」

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デジタル大辞泉 「抜歯」の意味・読み・例文・類語

ばっ‐し【抜歯】

[名](スル)
治療のため、歯を抜くこと。
成人として認められるため、あるいは服喪などの目的で、口をあけると見える範囲の歯を抜く風習。日本では縄文時代後半から弥生時代前半に盛行。

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改訂新版 世界大百科事典 「抜歯」の意味・わかりやすい解説

抜歯 (ばっし)
exodontia

歯を歯槽から抜去すること,およびその操作を抜歯という。

世界には,抜歯を慣習として行う民族もある。歯を削る尖歯や研歯とともに,歯牙変工の一技法であり,広くは身体変工の一種とも考えられる。抜歯は成年式儀礼の一部として行われるのが一般的である。すべての歯が抜歯されるわけではなく,前歯の中の特定の歯が対象となり,各民族ごとにどの歯を抜くかが伝統的に定められている。石などで歯をたたき倒して抜くため,かなりの苦痛を伴い,これが子どもから大人に移行するうえで耐えねばならない試練の意味をもつ。そして,抜歯を施されているということは,社会の正式な一員として認められているということを示す指標となる。この成年式に伴う抜歯の慣習は,アフリカ,東南アジア,アボリジニー,アメリカ・インディアンなどにみられる。一方ポリネシアでは,近親者の死の哀悼の意味で抜歯が行われている。
身体変工
執筆者:

抜歯の習俗は,おそらく新石器時代には世界の各地で多元的に発生・普及した。そのうち長期にわたって盛行したのは,アフリカ,中国,日本である。なかんずく縄文・弥生時代の日本列島ではその発達の極に達した。

最古の抜歯は旧石器時代後期の沖縄県港川遺跡(港川人)のもので,九州以北では縄文時代前・中期からみられる。これらはいずれも下顎の中切歯2本を抜いたもので,例数はきわめて少ないが,出土遺跡は北海道から九州に至るまで点在している。抜歯が普及しはじめるのは,縄文中期末の仙台湾周辺からで,後期になると北海道,関東地方にも広がる。抜く歯は上顎の左または右の側切歯,ときに両側切歯である。また成人男女のほとんど全員が抜歯している。縄文後期の後半になると,抜く歯は上顎の左右犬歯に変わり,さらに下顎の犬歯や上・下顎の第1小臼歯もその対象となる。西日本に普及するのはこの時期である。そして縄文晩期になると,愛知県から岡山県にかけて抜歯の風習は極度の発達を遂げる。成人男女の抜歯率は90%を超え,上顎は犬歯を中心に側切歯,第1小臼歯を,下顎は切歯,犬歯を中心に第1小臼歯まで抜き,1人で10本以上抜去することもまれではない。一方,静岡県以東では,上・下顎の犬歯を中心に抜去し,ときとして側切歯や第1小臼歯を抜いたにすぎない。北海道ではこの時期ごくまれに側切歯を抜くだけである。

 弥生時代になると,北九州から濃尾地方の範囲では前代のやり方のほかに,上顎または上・下顎の側切歯を抜去している。同時代の中国,朝鮮の状況は明らかでないが,大陸から伝わった抜き方の可能性もある。これに対して西九州では,弥生中期まで縄文晩期の抜き方が残り,まもなく消滅する。ただし長崎県や大分県の家船生活者のあいだでは,近代まで成女式の折に抜歯していたというから,弥生時代後期以降も特定の集団には残有していたのかもしれない。東日本では,弥生時代になると突然,西日本縄文晩期の抜歯様式が広がる。同じ時期に愛知県東部の土器が運ばれたり影響を与えていることから,人の集団的移動と関係していると考えられる。しかしこの地域でも,弥生中期のうちに抜歯風習は急速に衰退する。古墳時代では,古墳の棺内から被葬者のものではない歯が1本見つかることがあり,わずかながら抜歯の風習は残っていたようである。

抜歯が行われた機会を確定できるのは,近代の成女式と古墳の棺内から出土する抜歯例だけである。後者は遺族の一人が自分の分身として歯を副葬したものと考えられる。では,このほかの多くの事例は何を物語るのだろうか。

 縄文晩期の西日本では,上顎犬歯2本を抜いた後に下顎の犬歯2本または切歯4本を抜いており,しかも上顎犬歯2本は90%以上の成人が抜いている。抜歯を施したもっとも若い例は14,15歳であるので,これが成年式のときの抜歯と推定される。下顎の抜歯については,岡山県の津雲貝塚など西の地方では男性が犬歯,女性が切歯を抜くことが多い。ところが愛知県の吉胡貝塚などでは,その割合は男女ほぼ同数である。そして,貝製の腕飾や鹿角製の腰飾を着装したり,上顎の切歯4本に刻み目(叉状研歯)をいれた人物は,切歯を抜いた者に集中している。縄文時代に,集団構成員を二分する原理としては,しかもそれらが成年式をすでに終えたものであれば,血縁関係の有無以外に考えにくい。だとすれば,下顎の切歯,犬歯の抜去は婚姻儀礼の一環としてなされ,切歯の場合はその土地の出身者に,犬歯の場合は他集団からの婚入者に対してなされたと推定される。すなわち,切歯と犬歯の抜歯にみられる男女比の地方差は,婚姻後の居住集団の地方色を示すことになる。一方この時期の東日本では,下顎の犬歯を抜くのは女性に多く,大部分の男性は上顎の犬歯を抜いているだけである。西日本の場合を参考にすれば,東日本では下顎の犬歯は婚入者だけが抜かれていたことになる。また縄文中・後期の側切歯抜去は,晩期のあり方からすると婚姻関係成立時に左右を抜き分けた可能性がある。
執筆者:

医療としての抜歯は,日本では名古屋玄医の著した《医方問余》(1679)に記載されており,ある薬剤を歯肉に用い,歯を弛緩させて脱落させたという。一方,西欧では,古代ギリシアですでに抜歯鉗子が用いられており,てこ(梃子)は11世紀ころから用いられ,16世紀ころの抜歯鉗子とてこは現代のものと大差がない。抜歯は,局所麻酔あるいは全身麻酔により〈てこ〉および抜歯鉗子を用いて歯を脱臼させて摘出する。歯根の形態の異常や歯槽骨と癒着している場合には歯槽骨を削ったり,歯根を分割して抜去することがある。

抜歯するには,歯やその周囲組織に病変がある場合,あるいは歯は健全であるが抜歯せざるをえない理由のある場合があり,これらを抜歯の適応症という。乳歯抜去の適応症には,次のような場合がある。すなわち,(1)歯根が吸収されて歯が動揺し十分咀嚼(そしやく)ができない場合,(2)乳歯がいつまでも残っているために後継の永久歯が萌出できない場合,(3)永久歯の萌出により乳歯根が圧排されて歯肉粘膜に褥瘡(じよくそう)(一種の炎症性硬結)をつくる場合,などである。永久歯抜去の適応症には,次のような場合がある。すなわち,(1)歯槽骨の吸収が激しくて歯の動揺が強く,保存できない場合,(2)根尖に病巣があり,保存的療法あるいは外科的療法でも治療が困難な場合,(3)顎骨または口腔軟組織の炎症の誘因となる場合,(4)外傷などで歯根が破折した場合,(5)顎骨骨折線上の歯で,動揺が激しく感染の危険がある場合,(6)歯根の吸収が激しく,動揺のために咀嚼の障害となる場合,などである。

 また,歯は健全であるが次の場合には抜歯の適応症となる。(1)正常の位置からずれている転位歯で,隣り合った歯の虫歯の誘因となる場合,(2)萌出できないでいる埋伏歯あるいは正常歯数より多いよけいな過剰歯で,隣り合った歯の歯根を圧迫し,疼痛の原因となる場合,(3)一部しか萌出していない半埋伏知歯で,しばしば急性炎症の原因となる場合,(4)補綴処置または矯正治療のために便宜上抜去せざるをえない場合,(5)口腔癌に絶えず接触して刺激している歯のある場合,(6)強度の上顎前突で咀嚼,発音,審美的な点で抜歯せざるをえない歯のある場合,などである。そのほか,リウマチ性疾患アレルギー性疾患などの全身的原因(歯性病巣感染)となっている歯も抜歯の適応となる。

抜歯により全身的また局所的に重篤な症状を起こす危険のある場合(すなわち抜歯の禁忌症)があるが,医学の進歩とともに今日では絶対的禁忌症はかなり少なくなってきた。しかし歯自体は抜歯の適応であっても,抜歯により全身性疾患を増悪させたり,全身状態に重大な影響を及ぼすような場合が少なくない。つまり,全身的な原因と局所的な原因で抜歯の禁忌症とみなされるものがある。全身症疾患のうち心筋梗塞(こうそく),狭心症,白血病,悪性貧血,再生不良性貧血などは絶対的禁忌症となる。しかし高血圧,糖尿病,血友病などは,状態により,専門医と対診し適切な処置と注意のもとに抜歯が行える。妊娠中は精神的,肉体的に不安定であるので,妊娠3ヵ月以前および8ヵ月以後は避ける。肝臓や腎臓の疾患では,抜歯によりその病気が悪化したり,抜歯後に持続性出血を起こしたりするので,やむをえない場合以外は一時延期して全身状態の回復を待ってから抜歯を行う。月経の場合も精神的不安定および止血困難のため避ける。局所的原因により抜歯の禁忌症となるのは,急性口内炎,急性顎骨炎の場合である。また,悪性腫瘍の病巣内に植立している歯の抜歯も禁忌となる。抜歯の継発症として,異常出血,疼痛,抜歯後感染があり,ドライ・ソケット(抜歯後の歯槽骨炎)にも注意しなければならない。
執筆者:


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日本大百科全書(ニッポニカ) 「抜歯」の意味・わかりやすい解説

抜歯
ばっし

歯は線維によって顎骨(がくこつ)に固定されているが、抜歯とは、この線維を切断し、弛緩(しかん)動揺させ、顎骨から歯を摘出する手術のことである。抜歯の適応となる歯としては次のようなものがある。(1)歯自体の疾患によるもの 歯自体の疾患のために抜歯を行う歯には、高度のう蝕(しょく)(むし歯)に罹患(りかん)し、修復不能な歯、根尖(こんせん)周囲組織に炎症があり、根管治療を行っても保存不可能な歯、高度な歯周疾患により著しく動揺している歯、破折したために修復不能な歯などがある。(2)位置異常によるもの 歯自体には異常はないが、その位置が異常であるためにまったく役にたたず、逆に周囲組織に障害を与える場合は抜歯を行う。具体的には、過剰歯(正常な歯以外の余分な歯)、埋伏歯(歯肉あるいは骨の中に埋没している歯)、転位歯(位置が異常な歯)などのほか、隣接の歯や周囲組織に傷害を与え、正常な咬合(こうごう)を妨げ、義歯の着脱の障害となるような歯があげられる。このほか、永久歯の萌出(ほうしゅつ)を妨げている乳歯を除去するためや、歯列矯正(歯並びをよくする治療)のために抜歯の処置がとられることもある。(3)その他 リウマチ性疾患、アレルギー性疾患などの全身的疾患や、三叉(さんさ)神経痛の原因が歯にある場合には、抜歯の処置を行う。

[土谷尚之]

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百科事典マイペディア 「抜歯」の意味・わかりやすい解説

抜歯【ばっし】

進行した虫歯歯槽(しそう)膿漏などで保存不能な歯の全部を除去する手術。ふつう局所麻酔下に抜歯鉗子(かんし),抜歯てこを使用。なお歯髄を全部除去する手術を抜髄といい,主として歯髄炎に適用する。
→関連項目化粧

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「抜歯」の意味・わかりやすい解説

抜歯
ばっし
extraction of tooth

歯を人工的に,その歯槽内から抜去させることをいう。局所麻酔あるいは全身麻酔下に,器具としてエレベータ(てこの応用),抜歯鉗子(歯をつかんでゆする)を用いて行う。ただし,歯の植立が強固な場合や,歯根の肥大,湾曲あるいは埋伏歯の場合などでは,歯槽骨除去,歯根分離などを行なって抜くことがある。保存できないう蝕(虫歯),動揺歯,転位歯,埋伏歯などが抜歯の対象となるが,歯列矯正や補綴の立場から,健全な歯を抜くこともある。抜歯に伴う事故として,歯の破折残存,歯槽骨骨折,顎骨骨折,顎関節脱臼,隣在歯の損傷,軟組織損傷,上顎洞穿孔,抜歯創の感染などがある。抜歯創の治癒後は,すみやかに補綴物による機能回復をはかる。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「抜歯」の解説

抜歯
ばっし

健常な永久歯を人為的に抜きとる習俗。汎世界的に先史時代から行われ,現代でも未開民族の間でみられる。日本では,縄文中期から始まり,晩期が最も盛んであった。抜歯の対象は,上顎・下顎ともに切歯・犬歯・第1小臼歯で,「口を開いたときに見える部位」に限られるという。一般に成人式と関連した習俗とされるが,性別・時代・地域によって抜歯する部位に差異があり,成人式以外にもさまざまな目的で実施されたらしい。

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旺文社日本史事典 三訂版 「抜歯」の解説

抜歯
ばっし

前歯を抜去する風習
成人や婚姻などの儀礼に関係があるとされる。縄文時代に始まり弥生時代に継承されたが,特に縄文晩期に盛行した。犬歯・第1小臼歯などを左右対称的に抜歯する場合が多い。

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世界大百科事典(旧版)内の抜歯の言及

【身体変工】より

…アンデス文明やマヤ文明での板や添木による頭蓋変工,扁平な頭の形をとって命名されたフラット・ヘッド(平頭)族をはじめとする北アメリカのインディアンの頭蓋変工などが有名だが,そのほか東南アジア,アフリカ,ヨーロッパなど世界各地で頭蓋変工が報告されている。(5)歯牙変工 特定の歯を抜く抜歯と,歯を削ってとがらせたり,刻み目を入れたりする尖歯(せんし),あるいは欠歯がそのおもなものである。成年式儀礼に伴って行われることが多く,アフリカからオセアニアにかけて広く見られる。…

【歯】より

… 縄文時代には成人となる通過儀礼として歯を抜くことが盛行した。健全な切歯や犬歯を抜歯したが,ときに抜き方に男女の性差があった。この習俗は弥生時代中期まで続き,その後衰退した。…

※「抜歯」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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