扶余【ふよ】
韓国,忠清南道南西部の郡,白馬江(錦江)に臨み,流域の内浦平野の中心。付近は高麗ニンジンの産地。また農産物も豊富である。かつては江景などとともに錦江沿いの米の集散地としてにぎわった。郡の中央および北部には残丘状の丘陵地がみられ,金鉱など希少鉱物の埋蔵がみられる。林川金鉱山は古くから開発された歴史をもつ。郡の中心は錦江の左岸に位置する扶余邑,百済(くだら)の都泗耕であり,538年熊津より遷都,以来660年の百済滅亡まで120年間王都であった。多くの遺跡から発掘された遺物は,国立扶余博物館に収められている。百済王朝滅亡時,3000人の官女が投身したという,錦江に臨む扶蘇山の絶壁落花岩などもあり,歴史の町として観光地となっている。扶余邑内に遺存する百済後期の遺跡群には,目をみはるものが多い。錦江東岸に面した独立丘陵に扶蘇山城があり,土塁や軍倉跡なども残る。扶蘇山城の南麓には,王宮跡,宮南池という庭園跡がある。また百済後期の仏教の隆盛を示す,寺院址も多数。伽藍配置は,定林寺址や軍守里廃寺址のように,日本の四天王寺式に共通するものも多い。扶余邑の中心部の東方に,陵山里古墳群があり,そのころの百済王族の墳墓地とされる。定林寺址の国宝平百済塔は,唐・新羅連合軍が百済を滅ぼした際に,塔身に「大唐平百済国」の文字が刻まれ,その名があるが,現在は「定林寺五重塔」と呼ばれている。扶余郡の人口は7万3000人(2005)。
→関連項目忠清南道
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扶余
ふよ
Fu-yu; Fou-yü
夫余とも書く。中国,東北地方に居住したツングース系の一部族。すでに『史記』貨殖列伝に,前2世紀頃漢人との間に交易を行なっていたことが記されている。前1世紀頃に国家を形成,1~3世紀に繁栄したが,3世紀後半から強大となった高句麗,鮮卑に圧迫されて次第に弱化し,494年勿吉 (もっきつ) によって滅ぼされた。その生活様式や文化は,匈奴のそれに似たものであったと伝えられる。
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デジタル大辞泉
「扶余」の意味・読み・例文・類語
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扶余
ふよ
①古代,朝鮮半島南西部にあった百済 (くだら) の旧都
②前1〜後5世紀,中国東北部から朝鮮半島北部にかけて住んだツングース系狩猟農耕民,またその国名
538〜660年間の百済の都城である半月城があった。仏教中心の文化が栄えた。
1〜3世紀が全盛期。5世紀末,支族高句麗に圧迫されて消滅した。
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ふよ【扶余 Puyŏ】
韓国,忠清南道南部の郡。人口15万3817(1980)。錦江中流の広い平野地帯にあり,米作を中心として,ニンジン,カラムシなどの特用作物を栽培する農村地帯である。郡の中央および北部には残丘状の丘陵地がみられ,金鉱など希少鉱物の埋蔵がみられる。特に林川金鉱山は古くから開発された歴史をもつ。郡の中心は錦江の左岸に位置する扶余邑で,人口3万1000(1980)の市街地をもつ。この町は三国時代,百済王朝が首都とした古都泗沘(しひ)であり,多くの遺跡から発掘された遺物は国立扶余博物館に収められている。
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