戦争(war)(読み)せんそう(英語表記)war

翻訳|war

日本大百科全書(ニッポニカ) 「戦争(war)」の意味・わかりやすい解説

戦争(war)
せんそう
war

総説


 戦争を、その実質的意味で定義すれば、政治集団の間、とくに主権国家の間で、相当の期間継続して相当の規模で行われる軍事力の行使を中心とする全面的闘争状態ということになろう。プロイセンの戦略家クラウゼウィッツが、「戦争は、政治関係の継続たるにとどまらず、他の手段による政治の実現である」と規定したように、戦争は高度に政治的な現象であり、その点では、戦争と他の闘争形態――外交、経済的圧力、宣伝、干渉、武力による威嚇、小規模の武力行使など――との差異は相対的であるが、より全面的かつ包括的な闘争関係である点で区別することができる。他方で、戦争をその形式的=法的意味で定義すれば、当事者の戦争開始の意思表示から、合意または一方的征服による戦争終結まで継続する特殊な国際法的状態ということになろう。この意味での戦争は、現実の武力行使が伴われなくても、あるいは武力の行使が全面的に終結したあとでも、なお存在することができる。実質的意味での戦争と形式的意味での戦争は、これまでだいたい一致してきた。しかし、最近では形式的意味での戦争の概念の実際上の機能はしだいに失われつつある。

[石本泰雄]

戦争観念の変遷

オリゲネスやテルトゥリアヌスに代表される初期のキリスト教の教父たちは、およそキリスト教徒たる者が、武器をとり、戦争や軍事的役務に参加することは許されないものと考えている。戦争という殺害行為が理由のいかんを問わず排斥されたのは、当然の帰結であったろう。しかし、キリスト教が現実とかかわる限り、素朴な非戦論が凋落(ちょうらく)するのも必然的であった。現実に生起する戦争を前にして、現実適応的な「正戦論」――すなわち、正当な戦争ならば許容されるという「理論」――が支配するようになったのは当然である。正戦論は、古くはアリストテレスにも漠然とした形で現れ、キケロになるとかなり明確な形をとっているが、しかしいっそう体系化されたのは中世におけるアウグスティヌス、イシドールス、トマス・アクィナスたちによってであった。トマスは、戦争が正当であるためには、第一にそれが君主の命令によって行われること、第二にそれが正当原因に基づいて行われること、そして第三にそれが正当な意図によって行われること、が必要であると説いた。これがいわゆる神学的正戦論の核心である。しかし、そこでは、戦争を2国間の関係として把握する視点が欠落し、もっぱら一方の君主の行為として把握されている。実際に、神学的正戦論は世俗的君主による戦争の精神的=宗教的正当化の役割を担い、君主にとっての聴罪師的機能を果たしたといわれている。

 近世初頭に位置する神学者・法学者はもとより、それに続く17、18世紀の「国際法学の英雄時代」に属する学者たち――ビトリア、スアレス、グロティウスなど――も、中世的正戦論の影響を強く受けた。しかし、正戦論は当時のヨーロッパの国家間戦争において、しだいに現実適応性を失っていった。第一に、交戦国相互間では、戦争遂行のための一定のルール(交戦法規)が成熟してきたが、そのルールは正・不正の区別なく、双方の交戦国に無差別に適用された。第二に、交戦国と第三国との関係では、第三国国民による対敵通商を最大限に許容する中立法規が成熟してきたが、いうまでもなく「中立」の維持のためには交戦国の双方に対する公平性の維持が不可欠の前提であった。そのいずれの点においても、戦時国際法は正戦論からは切り離されている。こうして、18世紀に入って、ボルフ、バッテル、モーゼルなど、正戦論の現実適応性を疑う法学者が相次いで現れたのは当然である。ついに19世紀には、戦争原因のいかんにかかわらず、無差別に戦争を許容する「無差別戦争観」が支配的となっていった。

[石本泰雄]

戦争の違法化

「無差別戦争観」は20世紀に入って国際条約によって動揺するに至った。国際連盟規約は、重大な紛争はすべて連盟機関または国際裁判に付託することを義務づけ、連盟機関の勧告や国際裁判所の判決に服する国に対して戦争に訴えることを禁止した(第13条4、第15条6)。1928年に64か国によって署名された不戦条約は、国際紛争解決のために戦争に訴えることを禁止し、国家の政策の手段としての戦争を放棄することを宣言した。国際連合憲章は加盟国および国連の行動原則として、「国際関係において、武力による威嚇又は武力の行使を、いかなる国の領土保全又は政治的独立に対するものも、また、国際連合の目的と両立しない他のいかなる方法によるものも慎まなければならない」と規定している(第2条4)。このように今日では一般的な条約によってすくなくとも攻撃戦争は違法化されているのであるが、それだけではなく普遍的な慣習法でも戦争の違法性は確立しているといわねばならない。もっとも、最近では、かつて力の支配によって構築された植民地体制や、人種差別体制への抵抗と解放のための戦争の正当性が認められるに至っている。

[石本泰雄]

戦争の歴史


 戦争の政治的・社会的性格は時代とともに変化する。戦争がその時代の国際社会ないし国内社会の政治的・社会的構造を反映しているからである。

 戦争は、組織化された集団間の武力による流血的な闘争であるが、その武力は、武器弾薬等の物的要素と戦闘兵員等の人的要素で構成されている。武器弾薬等の量的・質的(軍事技術的)要素は経済的生産の所産であり、戦闘兵員等の人的要素の量・質の問題も、終局的には、経済的条件およびそれによって規定される政治的・文化的条件に依存している。こうして、戦争の性格は変化してきた。

[林 茂夫]

古代の戦争

原始社会では、戦争とよばれる事態がなかったことを多くの記録は明らかにしている。もっとも好戦的な種族でも数人が殺傷されれば、それで終結という程度のものであった。戦争が人類社会に現れたのは、私有財産の発生、奴隷制度の成立以後である。戦争は富を蓄積するために必要な手段となり、戦争のための組織が社会的に重要な機能となった。

 ユーラシア大陸の東西両端部(中国・東南アジア、ヨーロッパ)の農耕地帯に形成された農耕民族社会では、都市国家、大小の王国、それらを征服支配した諸帝国が興亡した。同大陸の中央部(北・中央・西アジア、南部ロシア)の草原地帯に形成された遊牧民族社会では、当初オアシス地域を中心にオアシス都市国家が発達した。オアシスから分離した遊牧民の社会的・政治的単位は小さなものにすぎなかったが、騎馬の発明はそれを飛躍的に拡大することを可能にし、氏・部族や部族連合体の遊牧国家、それらを服属・帰属させた支配氏族を中核とする氏・部族連合国家が形成された。その結果、広大な草原地帯において、隊商交易を中心に商工業の発達したオアシス都市をバックにしたオアシス勢力(ペルシアサラセンなど)と、良好な牧地と略奪の獲物を求めて移動する草原勢力(匈奴(きょうど)、突厥(とっけつ)、モンゴルなど)とが覇を争い、それぞれの大小王国、諸帝国が古代、中世にわたって興亡の歴史を繰り返した。

 土地と奴隷の私的所有のうえにたっていた古代奴隷制社会では、都市国家間(ペロポネソス戦争)、大小国家間の戦争(ポエニ戦争ペルシア戦争)も、それらを征服支配した諸帝国間の戦争(ローマ対ペルシア、ペルシア対匈奴、匈奴対秦(しん)・漢)も、すべて奴隷所有者階級が土地・奴隷・貢納の獲得のために行った征服と略奪の戦争であった。戦争捕虜や住民の一部は奴隷にされ、「ものいう道具」として、農場や牧場、鉱山、小規模の工場で酷使された。征服された領土の最良の土地・財産・鉱山などは没収され、恩賞として将軍に与えられたり、政治家や金融資本家に貸与された。遊牧民族の場合は領土占領には執着せず、財宝・奴隷・貢納獲得の戦争目的が達成されれば引き揚げ、人質をとるなどして間接統治を敷いた。

[林 茂夫]

中世の戦争

封建制社会になると、土地の授与と引き換えに主従関係で結ばれた封建領主と武士(騎士)が支配的社会集団となり、武士に土地ごと支配された農民は武装解除されて農奴にされた。封建領主階層は、上は一王国の君主から下は一地方の小領主に至るまでヒエラルキーを形成した。農奴は戦士ではなく、領主の与える軍事的保護のため封建的な貢納賦役を負担した。領主・武士階級を養った人口全体と比べれば、彼らの兵力は小規模であった。

 封建権力の基礎は国王も領主もその直領地にあったから、領主階層は領地を拡張し、各種の収益源の獲得のために、相互に絶えず戦争を行った。だが、その実態は小規模なもので、王国間の総力をあげての対決は少なかった。被征服者の生き残り武士の一部は征服者の家臣となり、征服者は土地と家臣、また収入源となる地位や権利を獲得した。弱小領主は国王または有力な領主の保護を受けねばならなかった。農業生産の向上、商業の復活と発達の結果生まれた中世の都市も、攻撃される危険から保護を求めた。こうして大領主は広大な領地を形成し、しばしば国王と戦うようになった。

 主従関係を政治の組織とする封建制度に大きな変化をもたらしたのは、交換貨幣経済の発達と都市市民階級の増大する経済力であり、それと結合した国王の権力の拡大であった。都市の財政的支援は国王による傭兵(ようへい)部隊の大量使用を可能にし、戦争は、初期の略奪を主とした小規模な戦争と違い、敵集団の撃滅を目ざす大規模な戦争に変わった。王権の拡大を目ざす戦争になったのである(百年戦争、ばら戦争)。

 封建制度はヨーロッパ、日本で典型的に発達したが、インドやイランには存在せず、しいていえば、それに似た分権制があったにすぎない。古代中国の封建時代(前12~前3世紀)は、中世の封建とは違うとされており、それも秦(しん)の統一によって廃止された。秦・漢帝国の制度は封建と郡県制(帝国制)を折衷した制度で、以後、清(しん)朝までほとんど変わらずに続いた。

[林 茂夫]

近世の戦争

封建制末期にヨーロッパでは絶対王制が成立した。封建制社会から資本主義社会への過渡期に生まれた絶対王制は、没落しつつある封建的特権貴族と興隆しつつある地主的・問屋的商業ブルジョアジーとの均衡状態のなかで、国王はそのいずれにも制約されない絶対権力をもっていた。権力の基盤は中央集権的官僚制度と常備軍であり、その財源は地代収入だけでなく、商工業の発達に伴う消費税・関税収入に依存していた。

 国家の富と力を増やすため、国家権力によって経済全般に保護育成策がとられ、なかでも力が入れられたのは、商業ブルジョアジーの南北アメリカ、アフリカ、アジアでの植民地獲得と経営、および植民地貿易に対する保護とその促進であった。そのため各国間では、世界貿易や植民活動の主導権をかけた長期にわたる戦いが行われた。これが、陸の常備軍保持よりはるかに金のかかる専門の海軍が創建された背景である。海軍の任務は自国の植民地貿易を保護し、競争相手国の貿易活動を封鎖・制約することであった。

 この時期の戦争は王権拡大のための戦争であり、絶対君主とその所有物の軍隊だけの関心事であった。一般市民の役割は税を払うことであり、戦争への参加は要求されなかった。戦争は、ヨーロッパ大陸では、各国が同盟もしくは敵対しながら、王権の権威と領土拡大あるいは拡大阻止のために行われた(スペイン継承戦争)。常備軍は国王の権威の象徴であり、かつ貴重な政治的財産だったから、戦争は領土の一部割譲程度で和議となり、大規模化したとはいえ、できるだけ兵力の損耗を避けるよう、いわばゲーム的に行われた。しかし海外では様相が異なり、戦争は富の源泉であるとして容赦なく展開された。それは各国間での植民地争奪戦、植民地貿易の略奪戦であり、貿易独占のための海域支配をめぐる海戦であった(イギリス・オランダ戦争)。

[林 茂夫]

フランス革命と国民戦争

一連の市民革命、なかでもフランス革命がフランスおよび全ヨーロッパに引き起こした政治の変化によって、戦争はこれまでの封建諸侯、絶対君主の戦争とは根本的に性格の異なる、国家的統一と国民的(民族的)独立を目ざす新しい国民戦争となった。国家は君主の世襲財産ではなくなり、国民のもの、守るに値するものとなった。軍事力は兵員も軍事費も国民が負担する国民的軍隊となり、戦争はナショナリズムに裏づけられた国民のエネルギーと経済力を活用できるものに変わった。

 フランス革命戦争は、理念的には革命フランスの防衛と封建的専制に苦しむ外国民衆の解放戦争であり、イギリスと結んだ大陸の旧体制勢力とフランス主導下の大陸の新体制要求勢力との、いわば戦争の形をとった国際的な階級闘争でもあった。だが同時に現実的には、支配地・市場の拡大という点で、新興フランス資本主義の政治・経済上の侵略的な性格をあわせもっていた。引き続くナポレオン戦争は、ヨーロッパ市場確保を目ざすフランス資本主義と、それを阻止せんとする先進イギリス資本主義および大陸の旧体制保全勢力との戦争であった。

 市民革命と産業革命、それによる資本主義経済の急速な発達がもたらした政治的、社会的、経済的、科学的な変化に対応して、新しい戦争の手段、戦争のための組織が生み出され、かつ飛躍的に発達した結果、戦争は激烈なものとなった。

 国民を一つに結び付けていた国民国家、国民戦争の理念、目標は、各国で統一的な独立国民国家が実現し、経済を握るブルジョアジーが政治的、社会的に力を増して国家の支配勢力となるにしたがい消滅した。かわって、一方では国家支配が強まり、海外市場拡大のための後進国の植民地・半植民地化を目ざす植民地戦争(アヘン戦争)、さらに他国の植民地争奪戦争(ブーア戦争)が激化した。他方、これに対応して、国家権力の争奪を目ざす革命や内戦(南北戦争太平天国の乱)、民族独立を目ざす反乱(セポイの反乱)や独立戦争が現実化してきた。

[林 茂夫]

帝国主義と世界戦争

資本主義の最高の発展段階の帝国主義時代になると、列強資本主義国によって世界の植民地分割は完了し、直接の軍事手段による以外、新たな経済的拡大は不可能となった。植民地再分割戦争の開始である。植民地再分割戦争は、植民地での民族独立戦争を引き起こしたが、それを利用した勝者は戦争終了後それを鎮圧した(アメリカ・スペイン戦争におけるキューバ、フィリピンの独立戦争など)。第一次世界大戦は、こうした武力的な帝国主義的膨張政策の総決算として起きた。それは植民地再分割のための、植民地争奪と世界支配をめぐる戦争であった。

 戦争の歴史のなかで、第一次世界大戦はこれまでの戦争と異なり、二つの点で特記すべき性格をもっていた。第二次世界大戦はそれをさらに徹底させたものであった。

 第一に、戦争の規模、内容、目的などの点で無制限な全面戦争であり、クラウゼウィッツの「絶対戦争」的様相を呈した。(1)史上未曽有(みぞう)の規模 戦争の地理的範囲、兵力動員数と戦死傷者数、市民の死傷者数、経済・財政の損失は史上未曽有。兵士数が動員可能な成年男子数に近づいた。第一次大戦と比べ第二次大戦は、戦死者2倍、市民の死者4~5倍、経済・財政の損失約5倍である。これらは戦争手段の画期的発達とも関連した。(2)国力の総動員 軍隊とそれへの補給にとどまらず、それらを支える国家の全体的、総合的な能力の総動員。使用される軍需品の量がその国の工業力の最大限の生産量に等しくなった。(3)戦争のイデオロギー化 聖戦イデオロギーの登場と戦争遂行のためのいっさいの政治的、精神的な機関・組織の動員。第二次大戦はまさにファシズム対反ファシズム(自由・民主主義・民族独立)の戦いであった。(4)国の存亡をかける 従来のような軍事戦略は全国家的戦争の一つの部門にすぎなくなり、勝敗は全工業力と戦争努力が要求する負担に耐え忍ぶ国民の意志力と戦意いかんにかかるといわれた。いずれの国家も存亡をかけて戦ったため、毒ガスの使用(第一次大戦)や原爆の使用、都市無差別爆撃、焦土作戦、捕虜や非戦闘員に対する大量虐殺(第二次大戦)が行われた。終戦条件も厳しく、敗戦国は天文学的数字の賠償金(第一次大戦)や無条件降伏(第二次大戦)を強制された。

 第二に、戦争と革命の結合であり、「帝国主義戦争を内乱へ」(レーニン)とした戦争の革命への転化と、革命の国際的な有機的結合に基づく国際的内戦化の現出である。第一次大戦は国家間の戦争として始まったが、ロシア革命とそれに続くドイツ革命、ハンガリー革命という革命的な国際的内戦化で終結した。普仏戦争はパリ・コミューン革命を突発させ、日露戦争は第一次ロシア革命を促したが、いずれも鎮圧された。だがいまや、世界的な帝国主義戦争は帝国主義・資本主義体制を強化せずに、逆にそれとは異質の、資本主義的私的所有を廃止した社会主義体制出現の要因となったのである。第一次大戦では革命はソ連で成功しただけであったが、第二次大戦では東欧、アジアの10を超える国々で勝利した。なかでも中国、ベトナムでは、革命戦争の発展のなかで、帝国主義・植民地主義に対する被抑圧民族階級の解放の戦いの基本的形態として、人民戦争がつくりだされた。それは、戦争は軍隊がするものという常識を覆し、全人民の力で戦うという画期的な新しい戦争形態である。

 ロシア革命の成功は、民族独立運動に、なかでも高揚しつつあるアジアの民族運動に、イデオロギーの違いを超えて強烈な衝撃を与えた。それでも第一次大戦後には、列強資本主義国はまだ他民族の運命をかってに決定することができた。革命ロシアが提案した無併合(他国の土地略奪、他民族の強制合併のない)、無賠償、民族自決権の承認という戦後処理の原則は形式的には受け入れられたが、実際には一部を衛星国化し、大部分の民族運動は無視もしくは鎮圧された。だが、第二次大戦後にはもはや不可能であった。多くの植民地は独立戦争や民族独立運動によって、さらには植民国家の再征服戦争にも打ち勝って、続々と独立を達成した。第二次大戦はドイツ、日本の軍事的敗北で終結したが、その敗北は、諸民族が解放されつつある時代に、それらすべてを従属させ、さらに諸国家をも属国化しようという、時代逆行の征服計画を強行した当然の結果でもあった。

[林 茂夫]

現代の戦争の性格と特徴


 第二次世界大戦後の核時代の開幕と、第三世界の台頭、その国際的スケールでの政治と工業化過程への参加は、北の世界での「平和」(戦争のない状況)と南の世界での「戦争」(社会的、経済的、政治的、文化的な第三世界独自の内発要因を基底にしつつ、権力の正当性をめぐる一国内の内戦を軸とした武力紛争)の多発状況を現出させた。こうして現代は、「絶対戦争」を現実化する核戦争の危険と、地域的に限定されてはいるが「絶対戦争」の本質をもつ内戦の多発という、2種類の「絶対戦争」の可能性を内包した時代である。

[林 茂夫]

政治目的達成手段としての有効性の減少

戦争は近代国家成立以前は権力者の、成立以後は国家の政治目的達成の決定的手段であった。だが、核・ミサイル兵器の発達によって人類破滅の危険すら予測される事態となったため、戦争は問題(紛争)解決の決定的手段とはなりえなくなり、国の存続さえ危うくするものとなった。さらに、人権や民族権尊重意識の進展に基づく内外世論の動向によっても、無限界的であった軍事力の行使は制約され、その有効性は減少しつつある。

 このような背景から、軍事力行使にかわる軍事力の威嚇的使用(勝利戦略から抑止戦略への転換)が重視されるようになり、一方、軍事力行使の制約状況を緩和するための方策として、戦争は、核戦争と通常戦争、世界戦争と限定戦争・局地戦争、無制限(全面)戦争と制限戦争、さらには特殊戦争(民族運動対処)、低水準戦争(テロ対処)などに分類されるようになった。戦争概念の多様化は、科学技術の発達によって予測される戦争の様相の複雑・多様化のためだけではなく、こうした政治的要因によっても進行している。

 第三世界の戦争でも、イスラエル・アラブ戦争(中東戦争)にみられるように、政治目的達成のための手段ではなくなりつつある。

[林 茂夫]

軍事と外交の一体化

戦争勝利戦略から平時を重視した戦争抑止戦略への転換は、軍備の巨大化を招来したが、同時に、軍事戦略と対外政策の区別を不明確にさせ、戦略の外交化、外交の戦略化といわれるほど軍事と外交の一体化を促進している。その典型が武力戦と外交を結合した段階的抑止戦略である。戦争になっても外交は断絶せず、交渉しつつ戦い、あるいは国際世論をうかがいつつ武力レベルを加減するなど、従来の戦争とは著しく異なる戦争が出現している。宣戦布告なしの戦争、その勝敗も決まらずに休戦となる戦争が一般的である。

 従来、戦略は狭義には軍事戦略を意味し、広義には政治、軍事、外交、経済、心理、思想の全分野にわたる総合戦略を意味するものであったが、今日では後者のみを意味するようになった。かつては戦争勝利のために国力が動員されたが、今日では、資源戦略、食糧戦略、経済的制裁、戦略援助、武器輸出、さらには情報戦、スパイ戦といわれるように、危機管理戦略、総合安全保障戦略のもと、制約された武力行使を補足するために国力が動員されるようになっている。

[林 茂夫]

武力紛争の多発と性格の変化

核兵器の発達と新植民地主義、第三世界の独立と工業化の進展など、第二次大戦後の政治的、経済的、軍事的な条件の画期的変化によって、いまや武力紛争の舞台と当事者は第三世界に移行した。紛争の争点も領土ではなく、政治権力の正当性あるいは体制のあり方をめぐるものに変わり、武力紛争は従来の大部分の戦争とは異なる性格の戦争になった。第二次大戦後の50年間で主要武力紛争は、ベルリン封鎖とハンガリー事件、チェコ事件を除き、すべてが第三世界で起きている。世界の軍事・社会支出調査機関「ワールド・プライオリティーズ」(アメリカの民間機関)によると、1945~88年までに発生した戦争(一つ以上の政府がかかわり、年間1000人以上の死者を出した大規模武力紛争)は129件で、うち国家間紛争は34件、内戦は95件となっている。しかもこれらの紛争の争点は、内戦はもちろん植民地独立戦争、国家間紛争においても、従来の領土ではなく、主として政治権力の正当性をめぐって、あるいはその延長線上の戦争として起こっている。この武力紛争の構造変化は、従来の、処分可能な領土を争点とした戦争の講和終結方式を不可能にし、一時的休戦はあるにしろ、係争中の権力に十分な正当性が認められるまで継続せざるをえなくしている。

 第三世界における急速な工業化は伝統的な社会システムの変容に起因する社会紛争を惹起(じゃっき)し、同時にそれは先進国の経済的援助をてこに行われたから、二重の抑圧体制下に置かれた民衆の反乱を必至とする。その意味で第三世界の反乱は政治権力への反乱であると同時に、その権力を上から支える先進国や先進国を中心にした国際体制への反乱という二重の性格をもっている。これが武力紛争多発の背景である。だが、先進国の武力介入は政治的、経済的に制約されており、その下で第三世界の武力紛争は権力の正当性を争点に惹起し続けてきたのである。しかも冷戦後は、冷戦構造の崩壊で、権力を上から支えてきた先進国の経済援助と抑圧がなくなり、武力紛争は一挙に多発・激化するようになった。今日の戦争の9割以上はこのような戦争であり、その内発要因が除去されない限り、終わりなく続くのである。

[林 茂夫]

戦争被害の激増

戦争の犠牲者は激増している。国連の世界社会情勢報告(1985)によると、1945~83年の間におもな武力紛争は103件(ヨーロッパ3件)で、軍人・民間人の死者は約1636万人(ヨーロッパ約18万人)である。「ワールド・プライオリティーズ」の報告書(1993年11月)によると、第二次大戦後92年までに起きた大規模武力紛争は149件に上り、死者総数は2314万2000人に達している。同報告書によれば、この死者数を年間平均すると、それは第一次・第二次大戦の死者数を含んでいないにもかかわらず、19世紀の2倍、18世紀の7倍強という状況である。武力紛争は小規模でも、その性格の違いや頻度の多さによって犠牲者はきわめて多くなっているのである。さらに難民の急増がある。1951年に設置された国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)によると、60年に140万だった難民の数は、83年には1100万人で、冷戦後には地域紛争・民族紛争の続発で「92年には1日当り1万人の難民が発生」(『世界難民白書』93年)したほど、UNHCRによると、1989年に1490万人だった難民の数は、93年には2300万人(別に国内避難民2500万人)に達している。

 民間人の被害が激増していることも特徴的で、第一次大戦では軍人は全死者の95%、民間人は5%だったが、第二次大戦では軍人52%、民間人48%となった。朝鮮戦争ではその比が逆転し、16%対84%、ベトナム戦争では5%対95%となった。しかもその犠牲は社会的弱者である子供や女性に集中している。『子ども白書'95』(国際児童基金unicef94年12月)によると、過去10年の間に戦争で約200万人の子供が殺され、400~500万人の子供が障害を負った。また500万人以上の子供が難民キャンプに追いやられ、1200万人の子供が住む家を失ったと報告されている。

 核戦争による被害については多くの専門家による報告が出されており、この種の戦争には勝者はありえないこと、さらに核戦争後、社会的・経済的復興ができるようになるまでに数十年、数百年もかかることが指摘されている。それだけでなく、地球の環境が大きく変わる、いわゆる「核の冬」の到来も警告されている。

[林 茂夫]

『木村尚三郎・牟田口義郎・森本哲郎企画『世界の戦争』全10巻(1986・講談社)』『三浦一郎・小倉芳彦・樺山紘一監修『世界を変えた戦争・革命・反乱 総解説』(1983・自由国民社)』『G・ブートゥール、R・キャレール著、高柳先男訳『戦争の社会学』(1980・中央大学出版部)』『林茂夫著『Q&Qの時代を生きる』(1995・日本評論社)』『ジョージ・C・コーン著、鈴木主悦訳『世界戦争事典』(1998・河出書房新社)』『張聿法・余起棻編、浦野起央・劉甦朝訳『第二次世界大戦後 戦争全史』(1996・刀水書房)』

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