懐徳堂(読み)かいとくどう

精選版 日本国語大辞典 「懐徳堂」の意味・読み・例文・類語

かいとく‐どう クヮイトクダウ【懐徳堂】

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デジタル大辞泉 「懐徳堂」の意味・読み・例文・類語

かいとく‐どう〔クワイトクダウ〕【懐徳堂】

享保9年(1724)、大坂町人が中井甃庵なかいしゅうあん中心として開設した私塾。享保11年(1726)幕府認可をうけた。庶民が多く学び、富永仲基山片蟠桃やまがたばんとうなどの町人学者が輩出した。明治2年(1869)廃校懐徳書院

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百科事典マイペディア 「懐徳堂」の意味・わかりやすい解説

懐徳堂【かいとくどう】

1726年将軍徳川吉宗と,三星屋武右衛門ら町家五人衆との援助で,中井甃庵(しゅうあん)が大阪尼崎町に建てた半官半民の学校。三宅石庵を学主とし,五井蘭洲らを助講として開き,全国の子弟武士・庶民の別なく入学させ,主に朱子学を教育した。甃庵の2子,中井竹山中井履軒のとき最盛となり,天下に有名であった。富永仲基山片蟠桃はこの学校の受講生。
→関連項目草間直方菅野兼山土橋友直

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「懐徳堂」の意味・わかりやすい解説

懐徳堂
かいとくどう

1724年(享保9)大坂に設立された町人出資の学校。町人出資の学校としては、すでに大坂・平野郷に私塾含翠堂(がんすいどう)があったが、これに倣って、大坂の代表的豪商三星屋武右衛門、道明寺屋(どうみょうじや)吉左衛門、舟橋屋四郎右衛門、備前屋(びぜんや)吉兵衛、鴻池屋(こうのいけや)又四郎ら(五同志)が首唱者となって、尼崎(あまがさき)の道明寺屋の隠宅で開校したのが懐徳堂である。当初は漢学の私塾であったが、8代将軍徳川吉宗(よしむね)の学問奨励策のもと、1726年には官許を受けて半官立となり、学校の規模も拡大した。1792年(寛政4)の大火全焼、4年後に再建。初代学主三宅石庵(みやけせきあん)は程朱(ていしゅ)、陸王(りくおう)、古学(こがく)を折衷した柔軟な学問教育を行った。世に「鵺(ぬえ)学問」とよばれた石庵の学風は、実質的、現実的な大坂商人が自らの手で築いた学校によく符合していた。2代学主中井甃庵(しゅうあん)、3代学主三宅春楼(しゅんろう)にも石庵の学風は受け継がれたが、4代学主中井竹山(ちくざん)の時代には弟履軒(りけん)とともに独自の学風を形成し、懐徳堂の最盛期を迎えた。以後、1869年(明治2)の廃校に至るまで大坂庶民の学校として存続した。受講生のなかからは富永仲基(なかもと)、山片蟠桃(やまがたばんとう)らを輩出している。旧懐徳堂の蔵書および関係資料は、現在豊中(とよなか)市の大阪大学附属図書館の懐徳堂文庫に収められ、最近中井家などの資料も追加されている。

[上田 穣]

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改訂新版 世界大百科事典 「懐徳堂」の意味・わかりやすい解説

懐徳堂 (かいとくどう)

江戸時代の大坂にあった学校。1724年(享保9)大坂町人の三星屋武右衛門,道明寺屋吉左衛門,舟橋屋四郎右衛門,備前屋吉兵衛,鴻池又四郎の5同志が儒者中井甃庵と謀って,彼らの師三宅石庵を学主に迎え,尼崎町1丁目(東区今橋4丁目)に開設。26年幕府官許の学問所となり,石庵のもとに五井蘭洲らが助講,甃庵が学問所預人,5同志が財政運営を担当した。自由な学風で,程朱の学を本としたが,陸王の書なども講じ,町人にふさわしい教育に重きを置いた。学主(教授)は石庵から甃庵,三宅春楼,中井竹山,中井履軒,中井碩果,並河寒泉と継ぎ,1869年(明治2)廃校。竹山の時代(18世紀末ごろ)は全盛で,懐徳堂の名は天下に高かった。富永仲基,山片蟠桃らはこの学校の受講生であった。なお1913年財団法人懐徳堂記念会が設立され,16年東区豊後町に新懐徳堂を建てたが,第2次大戦で45年焼失。戦後大阪大学に蔵書を寄付し,文化講座を続けている。
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山川 日本史小辞典 改訂新版 「懐徳堂」の解説

懐徳堂
かいとくどう

江戸中期,摂津国尼崎町1丁目(現,大阪市中央区)の道明寺屋(どうみょうじや)吉左衛門隠宅に設置された漢学塾。1724年(享保9)同地の町人5人が出資。三宅石庵(せきあん)を学主とし,庶民教育を目的とした。26年に官許の学問所となる。学風は初期は朱子・陸王・古学の折衷。学主は石庵没後,中井甃庵(しゅうあん)・三宅春楼・中井竹山・同履軒(りけん)・同碩果(せきか)・並河寒泉(なみかわかんせん)と継がれ,五井(ごい)蘭州が基礎確立に努め,三輪執斎(しっさい)・伊藤東涯(とうがい)らも来講。受講生には大坂近郷,西国の人々が多かった。1869年(明治2)閉塾。明治末期に西村時彦らによって財団法人懐徳堂記念会が発足し,1916年(大正5)大阪市中央区豊後町に新堂建設。45年(昭和20)空襲で罹災し,49年に蔵書類は大阪大学に寄贈された。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「懐徳堂」の意味・わかりやすい解説

懐徳堂
かいとくどう

懐徳書院ともいう。江戸時代中期大坂に創立された学校。享保 11 (1726) 年,儒者中井甃庵 (しゅうあん) が,師の三宅石庵を学主に,石庵の門人の豪商らの出資で尼ヶ崎一丁目 (現在の東区今橋4丁目) に設立した私塾である。中井竹山,履軒 (→中井履軒 ) の兄弟が教授として活躍し,庶民の儒学教育を主眼とし,一時は日本一の盛況を呈し,富永仲基山片蟠桃,佐藤一斎らを生んだ。明治2 (1869) 年廃校。

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旺文社日本史事典 三訂版 「懐徳堂」の解説

懐徳堂
かいとくどう

江戸中期,大坂に設けられた郷学
1724年大坂商人道明寺吉左衛門・鴻池又四郎ら5人が,中井甃庵 (しゆうあん) とはかり儒者三宅石庵を学主として設立。朱子学を中心に忠孝や家業に精励すべきことを説いた。準官学の取扱いをうけ,庶民・武士共学,自由な学風で知られ,中井竹山の学主時代には質・量とも官学である昌平坂学問所をしのぐものがあった。門下生に富永仲基・山片蟠桃 (ばんとう) らがいる。

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世界大百科事典(旧版)内の懐徳堂の言及

【大阪[市]】より

…商業仲間の組織がすすみ,町人内部では家法をつくるなど家内部を固めようと考えるようになった。24年大坂町人5名を中心に懐徳堂が設立されたのは,こうした不安定な状況のもとで儒学による生活道徳を町人に教化しようとしたものであった。学主に三宅石庵,中井竹山らの学者があり,関係者に富永仲基,山片蟠桃らがでた。…

【草間直方】より

…肥後熊本藩,豊後府内藩,播磨山崎藩,讃岐多度津藩,陸奥盛岡藩,田安家などと取引した。大坂町人の学問所であった懐徳堂(今橋)に学び,富永仲基・山片蟠桃とならんで懐徳堂から輩出した代表的な町人学者として知られた。1824年(文政7)に家督を三男伊作に譲り隠居。…

【経世済民論】より

…土地の利用,特産物の奨励,藩専売制を唱え,積極的な興利策をとる。一方関西方面では,大坂町人の富強と発言権の高まりを背景として,たとえば懐徳堂に拠る学者たちのように商業資本の立場から従来の価値観を訂正していこうという動きが認められる。中井竹山はその経済策において町人の利益の立場から運上金の廃止などを唱え,交通や社会福祉策のうえで先駆的な主張を行った。…

【中井竹山】より

…竹山,同関子,渫翁(せつおう),雪翁と号した。曾祖父は播州竜野脇坂氏に仕えたが,父甃庵(しゆうあん)は来坂,三宅石庵(万年)の後を受け懐徳堂の2代学主となった。竹山は弟履軒とともに父および五井蘭洲に導かれ,懐徳堂4代学主として堂風を振興した。…

【山片蟠桃】より

…晩年失明。彼は多年懐徳堂の中井竹山・履軒に儒学を学び,麻田剛立(ごうりゆう)に天文学を習った。主著《夢の代(しろ)》(1802‐20成稿)では,西洋文明の実証性への高い評価,地動説に基づく新宇宙論の提唱,神代史の否定,迷信の排撃,卓抜な経済論,徹底した無鬼(無神)論など,封建制下に驚くべき実学的合理的思考を展開した。…

※「懐徳堂」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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