憲宗
けんそう
(778―820)
中国、唐朝第11代の皇帝(在位805~820)。姓名は李純(りじゅん)。病父順宗を弑(しい)し宦官(かんがん)倶文珍(ぐぶんちん)らに擁立されて即位した。安史の乱後、藩鎮の勢力が強まり中央の威令の行われぬ状態を改めるのに精励し、直轄の禁軍を強化し、裴
(はいき)の税制改革などによって軍費の充実を図り、西川、河東、淮西(わいせい)以下諸藩を平定して帝の統制に服せしめ、中興の英主とうたわれた。その治世は韓愈(かんゆ)、白居易ら文人の活躍で、元和の盛世として知られる。後嗣争いにより宦官陳弘志(ちんこうし)らに暗殺された。
[池田 温]
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憲宗
けんそう
778〜820
唐第11代皇帝(在位805〜820)
名は純。順宗の長子。彼は当時割拠していた藩鎮(節度使)の制御,支配体制の再建に精励し,中興の英主とされた。晩年,不老長寿の服薬に熱中して政治も乱れ,ついに820年宦官に暗殺された。彼の時代の元和中興 (げんなちゆうこう) は古い支配体制が崩れ,その後の政争と混乱に向かう転換期であった。
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デジタル大辞泉
「憲宗」の意味・読み・例文・類語
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けん‐そう【憲宗】
モンゴル帝国の第四代皇帝(在位
一二五一‐五九)。名は
モンケ。フビライをチベットに派遣し、
フラグを西アジアに遠征させて版図を拡大。のちフビライと対立し、南宋攻撃中に急逝。
モンケ=ハン。(
一二〇八‐五九)
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けんそう【憲宗 Xiàn zōng】
778‐820
中国,唐朝の第11代皇帝。姓名李純。在位805‐820年。安史の乱後,横暴をきわめた藩鎮勢力を弾圧,唐朝の威信回復につとめた。中興の英主と仰がれるように一応の成功はおさめたが,藩鎮の弱体化にともない地方の治安が乱れ,流賊発生の因を招いた。のち不老長生の術に凝り,丹薬の常用により一種の水銀中毒にかかり,動揺した側近は離反し,宦官陳弘志らに毒を盛られて終わった。憲宗の治下は韓愈,柳宗元,白居易等が文学史上活躍した時期でもあった。
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