慶長の役(読み)けいちょうのえき

精選版 日本国語大辞典 「慶長の役」の意味・読み・例文・類語

けいちょう【慶長】 の 役(えき)

豊臣秀吉文祿の役で明と和議を約した後に、明使の渡来朝鮮王子の来朝を求めたが、明使のもたらした表文の無礼を怒って、慶長二年(一五九七)正月ふたたび朝鮮に出兵した戦役秀吉の死を契機に、翌三年一二月には朝鮮から撤兵した。

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デジタル大辞泉 「慶長の役」の意味・読み・例文・類語

けいちょう‐の‐えき〔ケイチヤウ‐〕【慶長の役】

豊臣秀吉文禄の役でと和議をしたのち、明使のもたらした表文をめぐって再び慶長2年(1597)正月に朝鮮に出兵した戦役。翌年秀吉の死後に撤兵した。→文禄ぶんろくの役

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「慶長の役」の解説

慶長の役
けいちょうのえき

1597年(慶長2)2月~98年11月の豊臣秀吉の第2次朝鮮侵略。朝鮮側では丁酉(ていゆう)の倭乱とよぶ。秀吉は日明講和交渉で,明皇帝の皇女を日本の天皇の后にすること,日明間の勘合を復活し官船・商船を往来させること,朝鮮南4道の日本割譲など和議条件7カ条を提示したがいれられず,明皇帝からは「茲(ここ)に爾(なんじ)を封(ほう)じて日本国王と為す」との誥命(こうめい)のみで,講和交渉は破綻。秀吉は朝鮮南4道を実力で奪うため,97年朝鮮に約14万を再派兵。7月,日本軍は慶尚道巨済島で元均(げんきん)の率いる朝鮮水軍を破り,8月全羅道南原城を陥れた。これに対し明・朝鮮側も反撃の態勢を固め,12月蔚山(ウルサン)新城包囲(蔚山の戦),翌98年10月泗川(しせん)新城の攻撃を行った。結局同年8月の秀吉の死を機に日本軍は10月から朝鮮撤退を始めたが,この侵略で朝鮮抗日組織指導者の惨殺,朝鮮民衆の鼻切りなどの残虐行為のほか,農民・陶工・朱子学者など朝鮮人捕虜の日本強制連行を行った。

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百科事典マイペディア 「慶長の役」の意味・わかりやすい解説

慶長の役【けいちょうのえき】

文禄・慶長の役

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旺文社日本史事典 三訂版 「慶長の役」の解説

慶長の役
けいちょうのえき

1597(慶長2)年,豊臣秀吉の2度目の朝鮮出兵(〜'98)。

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世界大百科事典(旧版)内の慶長の役の言及

【徳川家康】より

…90年,秀吉の小田原征伐に従軍,後北条氏滅亡後その旧領に移封されて江戸城に入った(相模,伊豆,武蔵,下総,上野などで約250万石)。92年(文禄1)の文禄の役では秀吉に従って肥前名護屋に赴いたが,97年(慶長2)の慶長の役でもみずから朝鮮に渡ることはまぬかれた。1596年内大臣。…

【文禄・慶長の役】より

…ことの次第は96年(慶長1)大坂城での明使引見の際に明るみに出,秀吉は激怒して再征となった。 97年(慶長2)の再征=慶長の役は,偽りの講和交渉がもたらしたものであるから,出兵を強いられた将兵はもとより,兵粮米を負担せねばならない農民の苦痛は大きかった。中世以来不課の原則がとられて来た田の裏作麦の収穫高の1/3を徴収して兵粮米を確保するという非常手段もとられたが,翌年8月の秀吉の死によって,この法令は撤回された。…

※「慶長の役」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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