慶良間島(読み)きらまじま

日本歴史地名大系 「慶良間島」の解説

慶良間島
きらまじま

沖縄島の南西にある島々の総称。慶良間という名の特定の島はなく、慶良間けらま海峡を境にして置かれた渡嘉敷とうかしち間切と座間味じやまん間切を含む全体を行政単位として慶良間島という。史料上は計羅摩島や花羅摩(薩摩文書)、渓頼末(夏子陽「使琉球録」)・景満(「琉球神道記」巻五)と記されるほか、「ふれしま」(「おもろさうし」巻一の四一)馬歯山ばしざん(「歴代宝案」第二集巻九)もも島とも称する。「球陽」英祖王五年(一二六四)条に「慶良間」島などが初めて入貢したとあり、同時代の史料がなく、その具体相は明らかではないが、英祖の威名を慕って慶良間も中山の支配下に入ったことが知られる。「海東諸国紀」の琉球国之図に計羅婆島すなわち百島と記されるが、慶良間諸島が無数の無人島を抱えていることから百島の表記を当てられているのだろう。慶長一六年(一六一一)二月三日、竿奉行の伊地知重房ら一行は那覇より海路七里の計羅摩島に至り、四日辰刻に慶良間島を出帆して五日戌刻に宮古みやーく島方面に着岸している(南聘紀考)。なお雍正一一年(一七三三)渡嘉敷間切に朝鮮人船が漂着、この報告を受けた薩摩鹿児島藩は報告文書の作成のため、「上り絵図並郷村帳」で調べたところ計羅摩島とあるので、公儀には計羅摩島の表記で報告し、今後も絵図郷村帳に従う旨を琉球王国に通達している(「御条書写」評定所文書)。この表記は正保・元禄・天保の各国絵図でも踏襲されている。

〔行政単位としての慶良間島〕

寛永六年(一六二九)の琉球国之内知行高目録写(里積記)では計羅摩として高一八八石余であるが、同一二年朱印高不足による目録改があり、前竿高一八八石余のほか、盛増高一三石九斗余・上木高二斗余で計二〇三石余となっている(里積記)正保国絵図では琉球国のうち「計羅摩けらま嶋」とみえ、高二〇三石。慶良間島廻二九町とあるほか、座間味島・あか(現座間味村)前慶良間めーぎらま島・くる(現渡嘉敷村)などが記される。絵図郷村帳では「計羅摩島 慶良間島」とあり、この場合の慶良間島は行政単位であろう。また八ヵ島と、行政単位として三ヵ村・五ヵ島が記される。琉球国高究帳に計羅摩島とあり、五ヵ村・三ヵ島で高二〇三石で、うち田一六三石余・畠三九石余。寛文八年(一六六八)の琉球国郷帳に琉球国のうち「計羅摩島」とあり、「前けらま島」「座間味島」「赤島」「こは島」「けるま島」の五ヵ島を「斗羅摩とらま島」(誤記か)として、高二〇三石のうち田一六三石余・畠三八石余、桑二斗余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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