ぼようかい【慕容廆 Mù róng Wěi】
269‐333
鮮卑族慕容部の族長。字は弈洛瓌(えきらくかい)。昌黎郡棘城(きよくじよう)(遼寧省錦州)の人。慕容部は代々魏・晋王朝に臣属して中国文化の影響を受けた。慕容廆は同族の宇文部・段部あるいは扶余,高句麗と戦って遼東地方を制覇した。また永嘉の乱による漢族流亡集団を収容・保護し,漢族士大夫を顧問として学問を興すなどのちの燕(前燕)の基礎をきずいた。東晋から都督遼左雑夷流人諸軍事などの官爵を受け,さらに燕王の称号を要求したが,朝議が決しないうちに病没した。
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慕容廆
ぼようかい
(269―333)
中国、五胡(ごこ)十六国時代、鮮卑(せんぴ)族慕容部の部族長で、前燕(ぜんえん)の事実上の開祖。部族民の支持のもとに部族長の地位につくと(285)、遼東(りょうとう)(遼寧省遼陽県)を拠点として、中国の郡県や東方の夫余(ふよ)への侵寇(しんこう)を繰り返したが、これが慕容部における農業生産の発展に寄与したと考えられる。一時西晋(せいしん)に降(くだ)ったが、八王の乱のあと鮮卑大単于(ぜんう)を自称した(307)。さらに永嘉(えいか)の乱によって荒廃した華北から多くの漢人が避難してくると、出身地ごとに郡県をたててこれを収容するとともに、有能な人材を積極的に登用し、中国文化の受容に努めた。対外的には敵対する鮮卑族や高句麗(こうくり)などを破り、東晋を支持した。なお、彼の子慕容皝(ぼようこう)が燕王を自称するのは337年のことである。
[關尾史郎]
『谷川道雄著『隋唐帝国形成史論』(1971・筑摩書房)』
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慕容廆
ぼようかい
Mu-rong Gui; Mu-jung Kuei
[生]晋,泰始5 (269)
[没]東晋,咸和8 (333)
中国,五胡十六国の前燕の始祖。鮮卑の慕容部を率い,その部内の充実をはかりながら勢力を拡大した。ついに遼東から南下して遼西に移り,晋の永嘉1(307)年みずから鮮卑大単于と称した(→八王の乱)。遼西,遼東両地方を手中に収め,部民に農耕を教え,僑郡(→僑郡・僑県)を置いて来投した流亡漢人を登用し,中国文化を吸収し,国家としての体制を整えるのに努め,燕国発展の基礎を築いた。
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