愛知川筋一揆(読み)えちがわすじいっき

世界大百科事典(旧版)内の愛知川筋一揆の言及

【近江国】より

…近江国内では大名,旗本,寺社領などの小所領が錯綜し,かつ飛地や相給が多く,《文政高帳》によれば国内の領主総数は248家,その内訳は宮門跡5家,公卿3家,幕領支配地代官2家,近江在国大名9家,他国大名24家,旗本146家,寺社59家となっている。これら諸藩の財政事情がしだいに悪化し搾取が強化されると,農民の強訴(ごうそ),一揆も頻発し,1761年(宝暦11)の彦根藩における〈積銀仕法〉への愛知川筋一揆,81年(天明1)膳所藩における銀30目の新税への打毀(うちこわし)をともなう全藩一揆,1842年(天保13)幕府の役人市野茂三郎らの新検に対する甲賀,栗太,野洲3郡の農民一揆(三上山騒動)など,大きな騒動がたびたび起こった。
[水運,陸運]
 北国筋の藩米,特産物は寛永年間には越前国敦賀や小浜港に荷揚げされ,山越え荷駄により湖北の海津,塩津,大浦の諸浦に運送され,これらの地より琵琶湖の舟運で大津に回送されていたが,1672年(寛文12)西廻航路の開発で湖上運送は激減した。…

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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」