悪者小説(読み)わるものしょうせつ(英語表記)novela picaresca; picaresque novel

精選版 日本国語大辞典 「悪者小説」の意味・読み・例文・類語

わるもの‐しょうせつ ‥セウセツ【悪者小説】

※現実拒否の文学(1956)〈大井広介〉二「ゴオゴリの『死せる魂』は現われるべくして現われたロシヤの悪者小説である」

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「悪者小説」の意味・わかりやすい解説

悪者小説
わるものしょうせつ
novela picaresca; picaresque novel

悪漢小説ピカレスク小説ともいう。下層階級出身の悪漢的冒険者 (スペイン語でピカロ picaro) が,各地を放浪して,さまざまな社会階級の主人に仕えながらたくましく生きる物語で,社会を風刺的に描く。通常一人称で語られる。挿話的な構造をもつ点で中世の騎士道物語に似ているが,騎士道物語の主人公が理想主義的な遍歴の騎士であるのに対し,悪者小説の主人公ピカロは冷笑的で道徳規準をもたず,わずかでも見込みがあれば高潔な仕事よりも自分の才覚で生きていくことを選ぶ。各地を放浪して,ありとあらゆる階級と職業の人々の間で大胆な行動をとり,すんでのところで嘘,詐欺,盗みに対するとがめを逃れるピカロは,階級にとらわれないアウトサイダーで,現存する社会規範や道徳観に内面を縛られることはないが,自分の目的にかなえば外面はいちおう調子を合せる。ピカロの物語は,結果的に社会の偽善と腐敗を皮肉に描き出し,同時に身分の低い,つつましい暮しの人々についての深い洞察を読者に与える。
最初の悪者小説はスペインの『ラサリーリョ・デ・トルメスの生涯』 (1554) で,貧しいラサロ少年が,偽善の仮面の陰にいかがわしさを隠している7人の商人と聖職者のもとを転々とする物語である。この作品は不遜な機知が受けて,当時非常に幅広く読まれた。次に出版された悪者小説はこのジャンルの原型となった M.アレマンの『グスマン・デ・アルファラチェ』 (99) で,写実主義がスペイン小説の主流となるきっかけの一つになった。破産したジェノバ金貸しの息子の自伝という形式をとるこの作品は,創造性に富み,エピソードも多彩で,『ラサリーリョ・デ・トルメスの生涯』よりも人物がよく描かれている。この作品も驚異的な人気を集めた。『グスマン・デ・アルファラチェ』に続いて現れた多くの短編小説のなかには,M.デ・セルバンテスによる悪者小説風の短編小説『リンコネーテとコルタディーリョ』 (1613) と『犬たちの対話』 (13) がある。 F.L.デ・ウベダの『悪女フスティーナ』 (1605) は,ピカロが主人をだますように,女ピカロが恋人をだます話である。 F.G.デ・ケベド・イ・ビリエガスの『ぺてん師の生涯』 (26) はこのジャンルの代表作で,ぺてん師の心理描写の卓抜な手法と相まって,その背後には道徳的価値に対する深い関心がうかがわれる。この作品ののち,スペインの悪者小説は次第に衰退し,冒険小説にその座を譲った。
16世紀後半に『ラサリーリョ・デ・トルメスの生涯』がフランス語,オランダ語,英語に翻訳されると,ピカロはほかのヨーロッパ諸国の文学に進出した。イギリスにおける最初の悪者小説は T.ナッシュの『不運な旅人』 (1594) である。ドイツでは H.J.C.フォングリンメルスハウゼンの『ジンプリチシムス (阿呆物語) 』 (1669) が代表作である。イギリスでは D.デフォーの『モル・フランダーズ』 (1722) で女ピカロが復活した。 H.フィールディングの『ジョーゼフ・アンドルーズ』 (42) ,『大盗ジョナサン・ワイルド伝』 (43) ,『トム・ジョーンズ』 (49) ,T.G.スモレットの『ロデリック・ランダム』 (48) ,『ペリグリン・ピクルの冒険』 (51) にも悪者小説の要素がみられる。フランスでは,A.R.ル・サージュの『ジル・ブラス物語』 (1715~35) がある。この作品は当初の悪者小説のようにスペインを舞台に,忘れられてしまったスペインの小説から挿話を借用しているが,描かれているピカロはより紳士的で人間的である。
18世紀中頃になると,堅牢で複雑なプロットをもつ写実主義小説が台頭し,悪者小説はいくぶん芸術的に劣るとされて,完全な衰退に向った。けれども悪者小説の特徴である,あらゆる階層の人物が登場するところから生れる風刺,職人や商人のいきいきとした描写,真実味あふれる言葉と細部,態度や道徳に関する皮肉で超然とした観察は,18~19世紀における写実主義小説の発展に寄与した。円熟した写実主義小説のなかにも悪者小説の要素が再び現れているものがある。その例としては,N.ゴーゴリの『死せる魂』 (1842~52) ,M.トウェーンの『ハックルベリー・フィンの冒険』 (84) ,T.マンの『詐欺師フェーリックス・クルルの告白』 (1954) があげられる。

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改訂新版 世界大百科事典 「悪者小説」の意味・わかりやすい解説

悪者小説 (わるものしょうせつ)
novela picaresca

16,17世紀のスペインで流行した〈悪者〉ピカロpicaroを主人公とする小説の様式で,その後のヨーロッパ・リアリズム小説に大きな影響を与えた。悪漢小説,ピカレスク小説,あるいはピカレスク・ロマンという呼称も一般化している。〈ピカロ〉の語源は諸説あっていまだ定説はない。この語は1525年に〈台所の下働き男〉の意で用いられたのが最初とされているが,〈悪者小説〉における〈ピカロ〉は,貧しくて生活のために悪事を働く,悪知恵にたけた冒険好きのならず者といったほどの意で用いられている。〈悪者小説〉を特徴づける二大要素は,主人公が社会の最下層の出であること,そして自伝体の小説であることである。そして普通は,定職をもたない放浪の主人公がさまざまな主人に仕え,その体験を通して社会の各層をあくまでしんらつに,冷笑的に風刺する。こうした社会風刺は別に16世紀のスペインを待つまでもなく,ローマのペトロニウスの《サテュリコン》をはじめとして,いつの世にもありうるものであり,いわゆる〈悪者小説〉的な作品,あるいはその先駆となるものは数多くあろう。とくに,社会の下層階級の人々をリアルに描く伝統のあったスペイン文学には,J.ルイスの《よき愛の書》やフェルナンド・デ・ロハスの《セレスティーナ》といった,直接的な先駆というべき傑作がすでにあった。しかし厳密な意味での〈悪者小説〉は,1554年に出た作者不詳の《ラサリーリョ・デ・トルメスの生涯》をもってその嚆矢(こうし)とするというのが定説である。この出版を文学史的に位置づけてみると,当時スペイン文学を風靡(ふうび)していたのは騎士道小説や牧人小説であったが,それらのあまりに現実離れした理想主義に対する諧謔的な,そしてしんらつな反動として,この小説が現れたと考えられる。《ラサリーリョ・デ・トルメスの生涯》によってこのジャンルの形式と基本的属性が定められたものの,この小説にはいまだ〈ピカロ〉という言葉は使われていなかった。そしてこの語を最初に用いると同時にこのジャンルを確立したのは,マテオ・アレマンの《悪者グスマン・デ・アルファラーチェの生涯》(第1部1599,第2部1604)であり,その頂点をなすのがケベードの《かたり師,ドン・パブロスの生涯》(1626)である。ほかにロペス・デ・ウベダ《あばずれ女,フスティーナ》,ビセンテ・エスピネルの《従士マルコス・デ・オブレゴンの生涯》,作者不詳の《エステバニーリョ・ゴンサレス》などの傑作を生んだが,17世紀後半には風俗描写に堕していった。しかし〈悪者小説〉は早くからヨーロッパ諸国に翻訳紹介され,その影響は計り知れないほどである。例えば,ドイツのグリンメルスハウゼンの《阿呆物語》(1669),フランスのルサージュの《ジル・ブラース物語》(1715-35),イギリスのデフォーの《モル・フランダース一代記》(1722)などに顕著に見られる。
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百科事典マイペディア 「悪者小説」の意味・わかりやすい解説

悪者小説【わるものしょうせつ】

ピカレスク小説,悪漢小説とも。悪者(スペイン語でピカロ)を主人公としてその生涯を自伝風に描写する小説。16世紀スペインの《ラサリーリョ・デ・トルメスの生涯》を嚆矢とし,17世紀にはヨーロッパ各国で流行。マテオ・アレマンの《グスマン・デ・アルファラーチェの生涯》,ケベードの《ペテン師,ドン・パブロスの生涯》,ルサージュの《ジル・ブラース物語》,デフォーの《モル・フランダーズ》,フィールディングの《ジョウゼフ・アンドルーズ》,グリンメルスハウゼンの《阿呆物語(ジンプリチシムスの冒険)》などの代表作が生まれ,ヨーロッパ・リアリズム小説に大きな影響を与えた。
→関連項目サテュリコン小説スモレットセレスティーナナッシュ

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「悪者小説」の意味・わかりやすい解説

悪者小説
わるものしょうせつ

ピカレスク小説

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世界大百科事典(旧版)内の悪者小説の言及

【スペイン文学】より

…そして〈黄金世紀〉の棹尾(とうび)を飾る巨人がカルデロン・デ・ラ・バルカで,バロック期特有の凝った文体や舞台構成を用いた哲学的な《人生は夢》と平民の名誉を描いた《サラメアの村長》はスペイン演劇の最高峰に位置するものである。
[小説]
 16世紀前半に隆盛をきわめたのは《アマディス・デ・ガウラ》を頂点とする,中世の騎士道を理想化した騎士道物語であるが,こうした理想主義的傾向への反動として現れたのが,〈悪者〉の遍歴を通して社会悪を風刺する〈悪者小説(ピカレスク)〉である。1554年に出版された作者不詳の《ラサリーリョ・デ・トルメスの生涯》がその嚆矢となったが,このジャンルはマテオ・アレマンの《悪者グスマン・デ・アルファラーチェの生涯》を経て,スペイン・バロック期最大の文人フランシスコ・デ・ケベードの《かたり師,ドン・パブロスの生涯》でその極に達した。…

【ラサリーリョ・デ・トルメスの生涯】より

…1554年に出版された作者不詳の小説。16,17世紀のスペインで大流行し,その後のヨーロッパ・リアリズム小説に大きな影響を与えた悪者小説と呼ばれるジャンルの嚆矢(こうし)となった。文学史的には,当時流行していた騎士道小説や牧人小説に見られる極端な理想主義的傾向に対する反動として現れたと考えられる。…

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