恵林寺(読み)えりんじ

精選版 日本国語大辞典 「恵林寺」の意味・読み・例文・類語

えりん‐じ ヱリン‥【恵林寺】

山梨県塩山市小屋敷にある臨済宗妙心寺派の寺。山号乾徳(けんとく)山。元徳二年(一三三〇二階堂道蘊(どううん)の創立、夢窓疎石の開山。武田信玄菩提所。天正一〇年(一五八二織田信長の兵が火を放ち、快川(かいせん)紹喜以下一〇〇余人が三門楼上で焼死した。のち徳川家康が復興。

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デジタル大辞泉 「恵林寺」の意味・読み・例文・類語

えりん‐じ〔ヱリン‐〕【恵林寺】

山梨県甲州市にある臨済宗妙心寺派の寺。山号は乾徳けんとく山。開創は元徳2年(1330)、開山は夢窓疎石むそうそせき、開基は二階堂道蘊。武田信玄柳沢吉保の墓がある。天正10年(1582)織田信長勢の焼き打ちにあったとき、住職快川紹喜かいせんじょうきが「心頭を滅却すれば火もまた涼し」の言葉を残し、火中に死んだことで有名。

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日本歴史地名大系 「恵林寺」の解説

恵林寺
えりんじ

[現在地名]塩山市小屋敷

小屋敷おやしきの北方にある。乾徳山と号し、臨済宗妙心寺派。本尊は釈迦如来。寺名は慧林寺とも記される。元徳二年(一三三〇)秋、まき庄領主二階堂出羽守貞藤(道蘊)により同庄内に創建され、夢窓疎石が鎌倉から招請されて開山となった(夢窓国師年譜・夢窓国師碑銘)。山号は寺の乾にあたる徳和とくわ(現三富村)乾徳けんとく山でかつて夢窓が修行をしたことにちなむともいわれ(「恵林寺旧記」当寺蔵など)、また「易林」の一節から乾徳の乾は天の意であるとして天子の徳と解釈され、君主の徳をたたえて山号としたともいわれる。寺名は知恵の恵、叢林の林をもって恵林寺としたという。夢窓は元弘元年(一三三一)二月鎌倉瑞泉ずいせん寺に帰り、翌二年春当寺を再度訪れている(前掲年譜)。夢窓のあとは法嗣の満翁明道が当寺二世となり(絶海録)、その後は高山省哲、古先印元(暦応二年入寺)明叟斉哲、青山慈永(康永二年入寺)、龍湫周沢、絶海中津(康暦二年入寺、至徳元年隠栖)らが住持となった(「恵林寺歴世列祖過去帳」当寺蔵など)。とくに絶海中津が康暦二年(一三八〇)一〇月八日入寺すると「凡在京師相州有名之英衲雲集」して寺屋に満ち、禅宴の余暇に請われて法華・楞厳・円覚等を講ずると「緇素聴衆汎溢矣」という有様であったという(翊聖国師年譜)。室町時代中期にかけての当寺については不明の点が多いが、「蔭涼軒日録」寛正五年(一四六四)四月二九日条には「甲斐国恵林寺円亀首座」の名がみえている。

永正一三年(一五一六)九月二八日、武田信虎は扇山での駿河勢との合戦に敗れて恵林寺に引籠り、翌月帰陣した(高白斎記)。武田晴信(のち信玄)は当寺再興のため名僧の招聘に努めた。快川紹喜(大通智勝国師)は天文二二年(一五五三)頃「甲州大守」の招きで同門の天桂玄長が住持であった当寺に下向、その後住持となって弘治二年(一五五六)頃美濃崇福そうふく(現岐阜市)に帰住した(「明叔録」など)。同年七月二三日、武田晴信から恵林寺領・継統けいとう院領内の竹木伐採が免除され、さらに仏宇・僧盧修造のときは貴賤を選ばず用次第に伐採することが許可された。また当住被官一七人らに対し川除普請を除く押立夫公事が免除された(「武田晴信判物」恵林寺文書)。同年一〇月頃には策彦周良が住持として下向するが、翌年には帰洛(「葵庵法号記」南松院蔵など)。永禄二年(一五五九)頃と推定される年未詳一二月一四日の武田信玄書状(山城妙智院文書)によれば、信玄は策彦周良の甲斐下向を「近日令剃髪候、弥早速御発足簡要候」と心待ちにし、恵林・継統・長興ちようこうの三ヵ寺を任せるうえ、甲府に一寺を建立することを約束している。

恵林寺
けいりんじ

[現在地名]弘前市西茂森町一丁目

西茂森にししげもり町禅林街三十三ヵ寺の一つ。宗徳そうとく寺を主座とする下寺のなかにある。常源じようげん寺の南西に位置。梅峰山と号し、曹洞宗。本尊は釈迦如来。もと常源寺末寺。

長勝寺並寺院開山世代調(長勝寺蔵)によれば、文禄元年(一五九二)小比内さんぴない村に創立されたとある。開山は常源寺二代体岩義道。

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改訂新版 世界大百科事典 「恵林寺」の意味・わかりやすい解説

恵林寺 (えりんじ)

山梨県甲州市にある臨済宗の寺。山号は乾徳山。1330年(元徳2)甲斐牧ノ庄の領主二階堂貞藤が,夢窓疎石を開山に招いて創建した。夢窓は隠遁を好む傾向があり,当地に隠棲したのである。夢窓は恵林寺在住2年にして鎌倉へ帰るが,後住者には古先(こせん)印元,竜湫(りゆうしゆう)周沢,絶海中津等多くの名僧が歴住したため,甲斐の中心的臨済宗寺院に発展した。室町時代には,五山十刹に次ぐ諸山の寺格を与えられていた。しかし1520年代に荒廃し,のち妙心寺派の明叔(みようしゆく)慶浚によって復興され,臨済宗妙心寺派寺院となった。その後同じ妙心寺派の禅に帰依していた武田信玄が,64年(永禄7)当寺に快川紹喜を招いて住持とした。この時信玄は,当寺を菩提寺にすると共に寺領300貫文を寄せ寺基を固めた。しかし武田氏が滅んだ82年(天正10),快川が織田信長に抗したため,寺は織田軍により焼き払われた。この時快川は山門に逃れたが,当寺に難を避けていた僧や老若100余人と共に焚殺された。炎の中で自若として禅定に入った快川が〈心頭滅却すれば火も自ずから涼し〉と唱え火定(かじよう)したことが伝えられている。武田氏滅亡後,徳川家康は恵林寺の復興を計り,快川の弟子末宗に命じて再興。江戸時代朱印地は59石5斗である。現在,境内には武田氏の遺宝を集めた宝物殿があり,庭園は夢窓疎石の作と伝えられる池泉回遊式の名園。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「恵林寺」の意味・わかりやすい解説

恵林寺
えりんじ

山梨県甲州市塩山(えんざん)小屋敷(おやしき)にある臨済(りんざい)宗妙心寺派の寺。乾徳山(けんとくざん)と号し、1330年(元徳2)甲斐(かい)牧ノ荘(しょう)の領主二階堂貞藤(さだふじ)が自邸を禅院に改め、夢窓疎石(むそうそせき)を招いて開山としたのに始まる。1582年(天正10)この寺が織田信長軍によって焼打ちを受けたとき、武田信玄(しんげん)に招かれて住持をしていた快川紹喜(かいせんしょうき)は、100余人の僧侶(そうりょ)とともに炎に包まれた三門楼上で「安禅不必須山水(あんぜんかならずしもさんすいをもちいず)、滅却心頭火自涼(しんとうをめっきゃくすればひもおのずからすずし)」と唱え、焚死(ふんし)した。そのとき四脚門を残して大部分の堂宇を失ったが、のち徳川家康により再興され、領主柳沢吉保(よしやす)にも保護を受けて復興した。1905年(明治38)ふたたび火災にあって焼失、現在の伽藍(がらん)は1913年(大正2)に再建したもの。境内には両袖(りょうそで)桜、横月梅、恵山水などの恵林十勝や、夢窓疎石作と伝える庭園(国指定名勝)がある。また四脚門(国指定重要文化財)、機山会(柳沢吉保)廟所(びょうしょ)、武田不動尊などのほか、重要文化財の太刀(たち)、短刀など寺宝も多い。

[菅沼 晃]


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百科事典マイペディア 「恵林寺」の意味・わかりやすい解説

恵林寺【えりんじ】

山梨県塩山(えんざん)市(現・甲州市)にある臨済宗妙心寺派の寺。1330年二階堂定藤(さだふじ)が,夢窓疎石(むそうそせき)を開山に招いて創建。甲斐(かい)国の臨済宗の中心寺。武田信玄(たけだしんげん)に招かれて入寺した快川紹喜(かいせんじょうき)は,1582年織田信長(おだのぶなが)に抗して堂塔とともに焚殺されたが,〈心頭滅却すれば火も自ずから涼し〉と唱えたと伝える。徳川家康が再興。庭園は疎石の作と伝える名園。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「恵林寺」の解説

恵林寺
えりんじ

山梨県甲州市塩山にある臨済宗妙心寺派の寺。乾徳山と号す。1330年(元徳2)二階堂貞藤が夢窓疎石(むそうそせき)を開山として建立。後住に絶海中津(ぜっかいちゅうしん)ら名僧があいついだため,甲斐臨済宗の中心として発展した。1564年(永禄7)には,武田信玄が快川紹喜(かいせんしょうき)を招いて菩提寺としている。武田氏滅亡時には,織田軍の攻撃によって快川ら100余人の僧が山門楼上で焼死。のち徳川家康により復興された。安土桃山時代の四脚門は重文。「恵林寺領検地日記」をはじめ,多数の文書を所蔵。

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デジタル大辞泉プラス 「恵林寺」の解説

恵林寺(えりんじ)

山梨県甲州市にある寺院。臨済宗妙心寺派。山号は乾徳(けんとく)山。1330年、夢窓疎石による開創と伝わる。甲斐武田氏の菩提寺として知られる。本堂本尊は釈迦如来。四脚門(通称「赤門」)は国の重要文化財、庭園は国の名勝に指定。明王殿の不動明王像は武田信玄が生前に対面で彫刻させたものと伝えられ、「武田不動尊」と呼ばれる(県指定文化財)。

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世界大百科事典(旧版)内の恵林寺の言及

【甲斐国】より

…中世の甲斐は文化の面でも鎌倉と関係が深く,著名な禅僧が入国したり,日蓮が身延山を開いたりした。臨済宗は13世紀の後半,二度にわたって甲斐に流された鎌倉建長寺開山宋僧蘭渓道隆(らんけいどうりゆう)によって基礎が築かれたが,1330年(元徳2)夢窓疎石が笛吹川上流牧荘に恵林寺(塩山市)を,その半世紀後抜隊得勝(ばつすいとくしよう)が塩山のふもとに向嶽寺(同)を建て,ますます繁栄におもむいた。また日蓮は,1274年(文永11)甲斐源氏の一族波木井実長の招きを受けて身延の地に久遠寺(くおんじ)を建てた。…

※「恵林寺」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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