念流(読み)ねんりゅう

精選版 日本国語大辞典 「念流」の意味・読み・例文・類語

ねん‐りゅう ‥リウ【念流】

〘名〙
江戸時代剣術の一流派。上坂半左衛門安久の創立したもの。正法念流。
※本朝武芸小伝(1716)六「上坂半左衛門安久、上坂半左衛門安久者始済家禅僧也。好刀術精妙、潜号念流
② 剣術の一流派。応永(一三九四‐一四二八)の頃、相馬四郎義元に始まる。江戸初期の樋口又七郎定次以降、馬庭(まにわ)念流となる。

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デジタル大辞泉 「念流」の意味・読み・例文・類語

ねん‐りゅう〔‐リウ〕【念流】

剣道の流派の一。上坂半左衛門安久の創始。のちに正法念流・奥山念流などに分派
剣道の流派の一。相馬四郎義元の創始。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「念流」の意味・わかりやすい解説

念流
ねんりゅう

新当流、陰(かげ)流と並ぶ中古剣術流派の一つ。流祖は念阿弥慈恩(ねんあみじおん)。念和尚(おしょう)の伝記には種々の説があるが、通説では奥州相馬(そうま)の人、相馬四郎左衛門忠重(ただしげ)の子、俗名義元(よしもと)のこととし、7歳のとき父が非業の死を遂げたため、相州藤沢の遊行上人(ゆぎょうしょうにん)の弟子となり、10歳京都に上って鞍馬(くらま)で剣の手ほどきを受け、16歳鎌倉に下って寿福寺(じゅふくじ)の神僧栄祐(えいゆう)に秘伝を授与され、その後も廻国(かいこく)修行を重ね、筑紫(つくし)の安楽寺(あんらくじ)に至って、ついに剣の奥義を感得したという。2代の赤松三首座慈三(あかまつさんしゅざじさん)は、遠州の人とも慈恩の舎弟ともいい、信州伊那谷(いなだに)の波合(なみあい)で1397年(応永4)5月相伝を受けたと伝える。さらに3代の小笠原東泉坊甲明(おがさわらとうせんぼうこうめい)は、教授の体系を『念流正法兵法未来記(しょうぼうへいほうみらいき)』入門巻・獅子(しし)巻・虎(とら)之巻・象(ぞう)之巻・龍(りゅう)之巻の5巻にまとめ上げた。越えて1578年(天正6)6代小笠原左衛門尉氏重(さえもんのじょううじしげ)の伝を受けた越前(えちぜん)白山(はくさん)の人友松六左衛門氏宗(ともまつろくざえもんうじむね)(清三入道偽庵(せいさんにゅうどうぎあん))は諸国を歴遊中、上州多胡(たご)郡馬庭(まにわ)村(群馬県高崎市)の郷士樋口又七郎定次(ひぐちまたしちろうさだつぐ)に巡り会い、その執心鍛錬に対し、1598年(慶長3)唯授一人の奥秘を伝授している。この定次が馬庭念流の祖で、高崎城下で天流の村上某と試合して勝ち、その名声を高めた。その後、泰平の世で沈滞を続けたが、享保(きょうほう)の改革を機に13代十郎兵衛将定(まささだ)の努力によって再興、14代定嵩(さだたか)のとき江戸・京橋に道場を開き、その実用的な剣技に老中松平定信(さだのぶ)の賞詞を受け、また18代定尹(さだおき)は徳川斉昭(なりあき)に招かれて矢留(やどめ)の秘術を披露し、水戸藩への出入りを許された。

[渡邉一郎]

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百科事典マイペディア 「念流」の意味・わかりやすい解説

念流【ねんりゅう】

剣術流派の一つ。応仁のころ,もと臨済宗の僧上坂半左衛門安久が太刀先に一念をこめる極意に達して創始したとも,また僧慈恩(慈音,俗名相馬四郎義元)が京都鞍馬山で剣術を学び創始したともいう。馬庭念流は現存で,原初的防具を伝える。
→関連項目剣道

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デジタル大辞泉プラス 「念流」の解説

念流

剣術の流派のひとつ。南北朝時代に、奥州相馬出身の念阿弥慈音(ねんなみじおん)(俗名:相馬四郎義元(よしもと))が創始。剣術最古の流派とされる。

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