志摩国(読み)シマノクニ

デジタル大辞泉 「志摩国」の意味・読み・例文・類語

しま‐の‐くに【志摩国】

志摩

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日本歴史地名大系 「志摩国」の解説

志摩国
しまのくに

律令制下の東海道一五ヵ国の一で、伊賀・伊勢などとともに近国とされるが、答志とうし英虞あごの二郡のみの小国で、下国とされている(「延喜式」民部省)。国境の変動が激しいが、現鳥羽市・志摩郡、度会わたらい郡のうち南勢なんせい町・南島なんとう町・紀勢きせい町、北牟婁きたむろ郡・尾鷲おわせ市、および熊野市のごく一部にわたる地域の、熊野灘に沿う一帯であった。

「古事記」上巻に「御世、島の速贄献る時に、女君等に給ふなり」とある。この個所について本居宣長「古事記伝」に、志摩はもと伊勢国の内で「島々多くある処を分て一国とはせられし」「然れば此に島とあるも伊勢の海の島にて、即志摩国なり」とみえ、谷川士清「和訓栞」も志摩とは島の義であるという。「国造本紀」には成務天皇のとき出雲笠夜命を「島津国造」としたとある。「日本書紀」持統天皇六年三月一七日条に、伊勢行幸の際車駕の通過した国々の国造に冠位を与えたことが記されるが、そのうちに「志摩の国造」がある。同一九日条は志摩国の八〇歳以上の男女百姓に稲五〇束が与えられたことを記し、ここに「志摩」と表記される。平城宮出土木簡には「島国」「志麻国」「志摩国」などとみえる。

国府は「和名抄」(東急本)国郡部に「在英虞郡、行程上五日、下三日」とあり(ただし「延喜式」主計寮では行程は上六日、下三日)、現志摩郡阿児あご国府こうがその所在地と推定され、国府殿・御屋敷などの小字がある。国司任命の記事の初見は「続日本紀」神護景雲二年(七六八)二月一八日条で、外正五位下敢礒部忍国が志摩守となっている。阿児町国府には国分寺跡もあり、条里制の布かれたことを物語る字名も残る。条里制の遺構は鳥羽市岩倉いわくらの南部、加茂かも川中流の谷平野、志摩郡磯部いそべ町などにもみられる。

平城宮出土木簡の和銅五年(七一二)と思われるもの、養老二年(七一八)四月三日のものなどに「志摩国志摩郡」とみえ、「続日本紀」養老三年四月二八日条に「志摩国塔志郡」の五郷を割いて「佐芸郡」としたとある。また平城宮出土木簡の天平一七年(七四五)のものに「志摩国英虞郡」がみえる。これらから、志摩国は初め志摩一郡で、それが答志郡と改称(→答志郡、同郡から佐芸さき郡が分れたが、佐芸郡はやがて英虞郡と改称したと考えられ(→英虞郡、答志・英虞の二郡となった。「和名抄」高山寺本によれば、答志郡には答志・和具わぐ伊可いじか・伊椎(雑か)の四郷、英虞郡には甲賀こうか名錐なきり船越ふなこし・道浮(潟か)芳草ほうざ二色にしきの六郷があった。

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改訂新版 世界大百科事典 「志摩国」の意味・わかりやすい解説

志摩国 (しまのくに)

旧国名。志州。基本的には現在の三重県鳥羽市と志摩市がある志摩半島,および周辺島嶼からなり,一部は西南の渡会(わたらい)郡と北牟婁(きたむろ)郡におよんでいた。しかし国境はしばしば変動している。

東海道に属する下国(《延喜式》)。《日本書紀》持統紀に〈志摩国造〉がある。国府は現阿児町に推定される。東海道の支路が伊勢国渡会駅から鴨部駅(鳥羽市船津町)と磯部駅(志摩市沓掛)を経て国府に至る。もと答志(とうし)郡のみであったが,719年(養老3)南の5郷を佐芸(さき)郡とし,のち英虞(あご)郡とする。《延喜式》も2郡とする。丘陵が多くて水田に乏しく,725年(神亀2)口分田を伊勢,尾張2国で班給することにした。人口も少なく729年の輸庸帳には課丁1062人とあり,総人口も1万人程度と思われる。一方海産物に富み,古来贄(にえ)として天皇に貢進する重要な地域であり,御食(みけつ)国志摩と称されたのが,一国とされる理由であった。伝統的に内膳司に勤務する高橋氏(古くは膳氏)が国司に任ぜられることが多く,平安時代に入り固定する。伊勢神宮の神戸があり,平安時代に御厨(みくりや)も増し魚貝を貢進した。
執筆者:

中世になると当国の境界は不明確となる。すなわち答志郡では泊浦(とまりのうら)(鳥羽)がしばしば伊勢国と称され,英虞郡では現在度会郡に属する地域で,すでに鎌倉中期に錦島御厨(大紀町),吉津御厨(南伊勢町)が伊勢国とされ,内瀬御園(南伊勢町)にも伊勢,志摩二通りの記載がみられる。とくに室町時代に北畠氏の勢力がこの地域に浸透するとこの傾向が促進され,やがてこれらの御厨等は度会郡に編入されてしまった。またさらに天正年間(1573-92)新宮(現,和歌山県)の堀氏の進出とともに,現在の南・北牟婁郡が紀伊国に編入された。

鎌倉時代になると荘園,御厨の増加が著しい。伊勢神宮領としては平安時代からみられる国崎・慥柄(たしから)・伊雑(いぞう)神戸,伊志賀(石鏡)・坂手御厨のほかに,神島,菅島,切原,奈井瀬(内瀬)など多数の御厨,園が《神鳳抄》に記載されている。皇室・権門勢家領も平安時代の内膳司領畔乗(あのり),近衛家領甲賀荘,斎宮寮領麻生浦(おうのうら)のほか,七条院領錦島・吉津御厨,室町院領奈波利御厨(志摩市の旧浜島町),摂関家渡領和具荘(同市の旧志摩町),青蓮院領名切荘(同市の旧大王町波切)があり,鎌倉末期には相差(おうさつ)・畔蛸(あだこ)(鳥羽市)が北条氏領であった。また南北朝~室町時代,答志が青蓮院領,泊浦が醍醐寺領となっている。これら荘園,御厨からは,年貢として魚貝類,海藻類がおもに貢進されており,古代の御食国としての特徴を継承している。またその所在地はいずれも天然の良港をかかえていたため,海運業の発達がみられ,これを支配する海賊的領主の根拠地ともなっている。鎌倉時代の1203年(建仁3)国崎船を拿捕し国崎神人より訴えられた麻生浦住人壱志守房,二見,泊浦,麻生浦や駿河国江尻に一族や蔵を置き東国との交易に携わった阿久志(鳥羽市)の住人阿久志藤内左衛門入道道妙は,その典型的例である。このほか68年(文永5),1324年(正中1)に国崎を襲った者の中に伊良湖,大吹島出身の者がおり,志摩半島を中心に広い範囲での海上活動がみられる。南北朝時代には南朝方として活躍した五箇所の愛洲(あいす)氏,古和浦の古和一族,相賀の木本一族,吉津の加藤氏があり,室町時代には泊浦,名切,答志を本拠地とした九鬼(くき)氏(泊氏),的矢の的屋氏,安楽島(あらしま)(鳥羽市)の安楽島氏,甲賀の甲賀氏,和具の和具(青山)氏,相差の相差氏などがいる。彼らは室町中期には,〈島衆〉として結束し,領主間の紛争調停や廻船,漁業の支配にあたっており,近世に〈島七党〉とよばれる伝承の母体となった。

志摩守護は伊勢守護との兼任で,鎌倉末期には北条氏一門金沢氏が補任されているが,室町幕府下では1336年(延元1・建武3)の畠山高国以下頻繁に交替する。南北朝期には泊浦に守護所が置かれ,南伊勢の南朝勢力攻略の拠点となった。そのため正平年間(1346-70)には2度にわたり,南朝方の外宮禰宜度会家行の来襲をうけた。泊浦はこの時期醍醐寺領になっていたが,15世紀初めには九鬼氏が代官となり,近世に至るまで,同氏の本拠地となった。1452年(享徳1)にはこの代官職をめぐって,九鬼愛如意丸と守護一色義直とが争い,文明年間(1469-87)には守護一色義春が泊浦,答志などに水上関を設け,海運支配の強化をはかったため,九鬼氏をはじめ伊勢・志摩の廻船業者の抵抗にあい,廻船が途絶する事態が発生している。伊勢神宮は年貢米輸送を海運に多くよっていたため一色氏に抗議し,水上関は廃止されるに至った。

 磯部(志摩市の旧磯部町)には伊勢神宮神人のほかに,蔵人所供御人の身分を得て活動する住人がいた。1353年(正平8・文和2)供御人正憲の遺産をめぐって相論が生じているが,98年(応永5)には神人や島々の悪党が供御人の財物を奪取,彼らを磯部より追却する事件が起きている。15世紀中葉の磯部は〈磯部七郷〉といわれ〈老若〉=自治組織を持つ郷村として発達し,しばしば伊勢神宮に年貢の減免を求め,抵抗している。1466年(文正1)には北畠氏と対立し,内宮の支援を請うているが,同年には土岐氏の所領となるなど,波乱が生じている。戦国時代末に志摩半島はほぼ九鬼氏の支配下に入り,同氏が織田信長に服すると,かつての島衆は九鬼氏の下で織田水軍を構成することになり,長島一向一揆の鎮圧,大坂石山本願寺の攻略に参加,近世武士に転身していった。1574年(天正2)の伊勢国大湊の〈船々取帳〉には,相差,菅島,神島,答志,浜島,尾鷲,鳥羽,築地からの廻船が入港しており,海運の盛況さを物語っている。
執筆者:

戦国時代からこの地を拠点とした九鬼氏は文禄・慶長の役にも出軍した。関ヶ原の戦で東軍に属した九鬼守隆は,1601年(慶長6)所領を安堵されて鳥羽藩主となった(5万5000石)。その後鳥羽藩は内藤忠重,菰野藩預り,土井利益,松平乗邑,板倉重治,松平光慈,幕府直轄,稲垣昭賢と藩主の交替をみ,譜代藩として明治に至った。志摩には漁村が多く,農村でも山稼ぎや漁稼ぎで生活を補っていた。漁村は共有の漁場をもち,漁業者を差配する漁師頭がいて,それを鳥羽藩の海産方役人が支配した。漁獲物の分配には,共同漁労での働きぶりと年齢が重視された。網が使用できず,海女が潜水して働く岩礁の海域では,貧富や身分の差があまりひらかなかった。漁獲物にはクジラ,イワシ,カツオ,ボラ,タイ,コノシロ,ムツ,イセエビ,ウニなどのほか,アワビ,サザエ,シンジュガイ,ツブなどの貝類,ワカメ,ヒジキ,フノリ,テングサなどの海藻類があり,塩辛や鰹節なども製造された。アワビなどは俵物として清国との貿易に用いられ,また国崎(くざき)からは熨斗鮑(のしあわび)が伊勢神宮へ奉納された。民俗慣行も漁業地帯らしく独自のものが発達した。石鏡(いじか)では,元旦未明に海女が海中で水垢離(みずごり)をとる禊(みそぎ)神事があり,神島のゲーター祭も豊漁を祈願するものであった。弓引神事,獅子舞も志摩には多い。このような漁獲に頼る地帯は収益が流動的であるため,鳥羽藩は家相応に上納させる役家(やくや)(本役,半役など)制度をとって藩財政を安定させようとしたが,役家も変動するので,17世紀後半以降は課税額を固定する〈定成(じようなり)〉の制度にきりかえられた。幕末の海岸防備には伊勢湾沿岸の各藩が苦心したが,志摩でも鳥羽藩が領内の各岬に砲台を築いて備えている。
執筆者:

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「志摩国」の意味・わかりやすい解説

志摩国
しまのくに

三重県中東部の旧国名。志摩半島の南半部を占める。伊勢(いせ)国の南東にあり、多くの島を擁する。志摩半島は太平洋に臨み、渥美(あつみ)半島と相対し伊勢の海の入口を扼(やく)する。志摩市の阿津里(あづり)貝塚はじめ各地に縄文式土器・石器が発見されており、さらに弥生(やよい)時代遺跡もみられる。答志島(とうしじま)、神島(かみじま)、菅島(すがしま)(以上鳥羽(とば)市)などの離島には古い民俗が多く残存し、民俗学の分野においても注目されている。また志摩市の阿児(あご)、大王(だいおう)、浜島各町には古墳が営まれ、とくに志島(しじま)古墳群(志摩市阿児町志島)、目戸山(めどやま)古墳(志摩市浜島町浜島)は有名。『古事記』には島(しま)の速贄(はやにえ)とか島津国(しまつくに)(島は志摩、津は助辞)とあり、古く志摩国造(くにのみやつこ)が置かれ、志摩市阿児町に国府(こう)の地名が残っている。『延喜式(えんぎしき)』には東海道の一国で近国に属し、初め塔志(とうし)郡の一郡であったが、奈良時代には佐芸(さき)郡を分置、平安時代以降、答志・英虞(あご)の2郡となるとある。当国は低い山々が連なり、耕地狭く穀物は他国に比べきわめて少ないが、海産物は豊富で『延喜主計式』の調(ちょう)には、鰒(あわび)、堅魚(かつお)、熬海鼠(いりこ)、雑魚(ざこ)、紫菜(のり)、海松(みる)、鹿角菜(ふのり)、海藻(め)、海藻根(まなかし)、角俣菜(つのまたのり)、於期菜(おごのり)、滑海藻(あらめ)など、庸(よう)には、鰒、堅魚、鯛(たい)の楚割(すわやり)(細かく割(さ)いた干物)を積み出すことになっていた。国分寺の遺跡は志摩市阿児町国府にあり、当時の瓦(かわら)の破片などが保管されている。当国は伊勢神宮との関係深く答志郡(現志摩市磯部(いそべ)町)に伊勢内宮(ないくう)の別宮で志摩国一宮(いちのみや)であった伊雑宮(いざわのみや)があり、神宮の封戸(ふこ)66戸が置かれ、御厨(みくりや)も定められた。神饌(しんせん)として小浜より鯛、的矢(まとや)より鱸(すずき)を内宮に、立神より牡蠣(かき)を外宮(げくう)に献ずることは明治まで継続され、鰒はいまなお国崎(くざき)で調進され三節祭に供える。当国は港湾が発達しており、中世には答志浦、国崎、的矢などが著名。戦国末期、九鬼嘉隆(くきよしたか)が志摩国一円を手中に収め、文禄(ぶんろく)・慶長(けいちょう)の役では鳥羽水軍の名を高めた。江戸時代には鳥羽藩領で、九鬼氏のあと内藤、土井、松平(大給(おぎゅう))、板倉、松平(戸田)、稲垣の各大名が在封した。幕末、黒船来航の際、鳥羽藩は菅島、坂手島(さかてじま)などの島や的矢浦などの海岸線に砲台を築いて防備に努めた。1871年(明治4)鳥羽県となり、度会(わたらい)県を経て76年三重県に編入、志摩一郡となる。現在は鳥羽市と志摩市よりなる。

[原田好雄]

『『磯部郷土史』(1963・同書刊行会)』『和歌森太郎編『志摩の民俗』(1965・吉川弘文館)』『中岡志州著『志摩国郷土史』(1970・中岡書店)』『荻原秀三郎著『神島』(1973・井場書店)』


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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「志摩国」の意味・わかりやすい解説

志摩国
しまのくに

現在の三重県志摩市。東海道の一国。下国。『旧事本紀』には島津国とあり,国造が置かれたという。『古事記』に「嶋の速贄 (はやにへ) 」,『万葉集』に「御食 (みけ) つ国志麻」とあり,古代における海産物を主とした食料品供給の要地であったことを示す。そのため内膳司 (天皇の食料を調達する役所) の長官である奉膳 (ぶぜん) の高橋氏が国守に任じられるのが例であった。養老2 (718) 年4月3日の『平城宮出土木簡文書』に志摩郡とあるが,ほかに記録がないので詳細は明らかでない。『続日本紀』には答志 (たふし) 郡とあり,同3年には佐芸郡が分割されている。国府,国分寺ともに志摩市阿児町に置かれた。『延喜式』には答志,英虞 (あこ) の2郡があり,『和名抄』には郷 14,田 124町を載せている。水田が狭小であったため,口分田 (くぶんでん) ,公廨料 (くがいりょう) など,伊勢,尾張の諸国によっていた。伊勢神宮に近く,その別宮である伊雑宮 (いざわのみや) が鎮座し,神宮の封戸が 66戸置かれ,御厨 (みくりや) も定められ,神宮の神饌 (しんせん) を供進するなど神宮の勢力が強かった。したがって鎌倉時代には有力な武家の台頭はみられなかったが,室町時代には伊勢の北畠氏が支配し,安土桃山時代にいたり九鬼嘉隆が波切 (なきり) ,鳥羽によって水軍として名を知られ,伊勢,志摩両国で3万石を領した。江戸時代初期には引き続き九鬼氏が支配したが,のち内藤氏,土井氏,松平氏,稲垣氏が領し,鳥羽藩として幕末にいたった。明治4 (1871) 年廃藩置県で,7月に鳥羽県となり,11月に度会 (わたらい) 県に併合され,さらに 1876年,三重県となった。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「志摩国」の解説

志摩国
しまのくに

島国・志麻国とも。東海道の国。現在の三重県南部の志摩半島および周辺の島。「延喜式」の等級は下国。「和名抄」では答志(とうし)・英虞(あご)の2郡からなる。国府と国分寺は英虞郡(現,志摩市阿児町)におかれた。一宮は伊雑宮(いぞうぐう)(現,志摩市磯部町)で,伊勢神宮内宮の別宮でもあり,国内には神戸(かんべ)も多く,神宮祭祀にも重要な役割を占める。「古事記」に「島之速贄(しまのはやにえ)」とみえ,島の多いこの地から,急ぎの便で魚介類が朝廷に届けられたと推定される。2郡で1国とされたのも御食国(みけつくに)としての伝統のためで,「延喜式」では調・庸・中男作物として多様な海産物があげられる。平野部が少なく田数もわずかなため,国衙財政も特異な運用となった。国守は膳臣(かしわでのおみ)との関係から,内膳正(ないぜんのかみ)の高橋氏が世襲。中世には御厨(みくりや)が多くたてられ,鎌倉時代末には金沢氏が守護となり,室町時代には志摩・伊勢両国の守護を兼任。守護所は泊浦(とまりうら)(現,鳥羽市)にあり,ここを本拠に戦国期には九鬼氏が台頭した。近世には鳥羽藩の支配下にあったが,以後藩主の交替は頻繁で,一時幕領となる。1871年(明治4)の廃藩置県で度会(わたらい)県となり,76年三重県となる。

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藩名・旧国名がわかる事典 「志摩国」の解説

しまのくに【志摩国】

現在の三重県 志摩半島を中心とする地域を占めた旧国名。律令(りつりょう)制下で東海道に属す。「延喜式」(三代格式)での格は下国(げこく)で、京からは近国(きんごく)とされた。国府と国分寺はともに現在の志摩市におかれていた。古くから海産物に富み、贄(にえ)として天皇に貢進した。伊勢神宮領が多く、その管理権をもつ武士の力が強かった。中世には九鬼(くき)氏など海を舞台に活躍する豪族が勢力をはった。1601年(慶長(けいちょう)6)に鳥羽(とば)藩が成立、譜代(ふだい)藩として幕末に至った。1871年(明治4)の廃藩置県により鳥羽県となったが、度会(わたらい)県を経て1876年(明治9)に三重県に編入された。◇志州(ししゅう)ともいう。

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百科事典マイペディア 「志摩国」の意味・わかりやすい解説

志摩国【しまのくに】

旧国名。志州とも。東海道の一国。現在の三重県東部,志摩半島。古くから伊勢神宮の勢力下にあり,《延喜式》に下国,2郡。中世には北畠氏,次いで九鬼氏が支配,近世は内藤・稲垣氏らの鳥羽藩。
→関連項目近畿地方熊野街道鳥羽藩三重[県]

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