志布志(市)(読み)しぶし

日本大百科全書(ニッポニカ) 「志布志(市)」の意味・わかりやすい解説

志布志(市)
しぶし

鹿児島県、大隅半島(おおすみはんとう)の東部に位置する市。2006年(平成18)曽於(そお)郡松山町(まつやまちょう)、志布志町、有明町(ありあけちょう)が合併して市制施行、志布志市となった。北部は起伏の多い山陵、中央部から南部にかけてはシラス台地が広がる。南は志布志湾に臨み、南方沖合に枇榔(びろう)島が浮かぶ。志布志湾に注ぐ前(まえ)川、安楽(あんらく)川、菱田(ひしだ)川の流域に低平地が開ける。中心は前川河口の志布志町志布志で、JR日南線(にちなんせん)、国道220号が通じ、大阪、志布志を結ぶ大型フェリーボートが運航する。志布志の地名は、天智天皇が薩摩国頴娃(えい)への往路・帰路の途次に当地を訪れ、女性たちが贈った手布を賞されたことにちなむといい、枇榔島の枇榔神社、国指定重要文化財の銅鏡(和鏡)を所蔵する山宮神社(やまみやじんじゃ)、志布志の大クス(国指定天然記念物)などには、それぞれ天智天皇にまつわる伝承が残される。

 大隅(おおすみ)国に属し、平安末期からは救二院(くにいん)に含まれた。志布志津は海陸の交通の要衝、島津荘の要港として発展。在来領主は救二院氏であったが、鎌倉時代になると島津忠久、次いで北条氏が支配し、北条氏によって宝満寺(ほうまんじ)(跡地は県指定史跡)が西大寺流律宗寺院として再興されたとみられる。南北朝期には志布志に松尾(まつお)城や内(うち)城が築かれ、南北両朝勢力攻防戦の場となった。当初は松尾城が、のち内城が志布志城とよばれ、志布志城の城主は楡井氏―新納(にいろ)氏―島津氏―肝付(きもつき)氏―薩摩藩島津氏と変遷、江戸初期に廃城となった(跡地は国指定史跡)。志布志津は室町時代以降も引き続いて国内外航路の要津として栄え、中国の『籌海図編』にも薩摩・大隅の主要港湾の一つと記される。南北朝期に楡井氏が創建したという褝宗の大慈寺(だいじじ)の歴代住持は、外交に精通した五山系禅僧で、1609年(慶長14)島津氏の琉球侵攻の際には、使節として同行している。江戸時代、海外との交易禁止後も志布志湊は琉球・大坂方面への物資の中継地、蔵米の集積地として繁栄、また志布志は鹿児島城下と結ぶ志布志筋沿いの町場となり、志布志千軒町といわれるほどの賑わいをみせた。明治、大正、昭和にかけて、シラス台地の水田化が図られ、蓬原新田(ふつはらしんでん)や野井倉新田(のいくらしんでん)などが誕生している。

 現在の基幹産業は農業で、米作のほか、サツマイモ、ピーマン、茶やイチゴ、メロンなどの果物の栽培、畜産も盛ん。チリメンジャコなどの沿岸漁業も行われ、水産加工品、焼酎などが特産品として知られる。枇榔島の亜熱帯性植物群落は国指定特別天然記念物。海岸部一帯は日南海岸国定公園に含まれる。面積290.28平方キロメートル、人口2万9329(2020)。

[編集部]


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