徳川慶勝(読み)とくがわ・よしかつ

朝日日本歴史人物事典 「徳川慶勝」の解説

徳川慶勝

没年:明治16.8.1(1883)
生年:文政7.3.15(1824.4.14)
幕末尾張(名古屋)藩主。幼名秀之助。初め義恕。盛斎,月堂,梅柳園とも号す。支藩美濃高須藩主松平義建の次男。母は規姫。弟の茂徳,容保,定敬と共に「高須4兄弟」と称される。当時尾張藩では幕府による押付養子が続いていたため,藩内士民に望まれて嘉永2(1849)年尾張家14代を襲封。擁立の功臣田宮如雲ら金鉄党を用いて人事を刷新,財政再建等の改革を行った。特に同党の伊藤三十郎(茜部相嘉)の海防建白書を評価,西洋砲術の導入,知多半島防衛策,水軍調練を実施。江戸在府時にも国許藩士の訓練状況報告を自ら点検した。徳川斉昭島津斉彬,伊達宗城とも親交を持ち,海外の情報を収集。『和蘭別段風説書』などを書写した。さらに写真術を研究,藩の洋学者や側近の協力で文久年間(1861~64)には撮影に成功。自らの実験ノートや名古屋城,熱田浜御殿,江戸戸山邸など貴重なガラス写真を残す。政局面では一橋派。安政5(1858)年の不時登城事件で井伊直弼を詰問,幕府より隠居を命じられ,戸山邸で謹慎。万延1(1860)年許され,元治1(1864)年征長総督就任長州藩に寛大な処分をとり,一橋(徳川)慶喜に「総督の英気いたって薄く芋(西郷隆盛)に酔い候は酒よりもはなはだし」と評された。征長中,本営の広島城下の写真も写す。王政復古後は議定職となり,藩論尊王に導き,周辺諸藩を勤王誘引して明治維新に一定の役割を果たした。その後は旧臣授産のため北海道八雲村の開拓事業を援助した。<参考文献>岩下哲典「徳川慶勝の写真研究と撮影写真」(『金鯱叢書』18,19輯)

(岩下哲典)

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改訂新版 世界大百科事典 「徳川慶勝」の意味・わかりやすい解説

徳川慶勝 (とくがわよしかつ)
生没年:1824-83(文政7-明治16)

幕末・維新期の大名。尾張藩14代藩主,のち再家督して17代藩主。支藩の美濃高須藩主松平義建(よしたつ)の第2子として江戸に生まれる。初名は義恕(よしくみ),のちに慶恕,慶勝。1849年(嘉永2)に宗家を継いで,藩政改革に実効をあげた。日米通商航海条約の調印をめぐっては鎖国攘夷を唱え,将軍継嗣問題では一橋派にくみし,徳川慶福(よしとみ)(家茂)を推す井伊直弼派と対立した。このため,58年(安政5)隠居謹慎を命ぜられ,家督を弟茂徳(もちなが)に譲った。62年(文久2)罪を許され,16代藩主義宜(よしのり)の後見として藩政の実権を掌中にするとともに,公武合体運動にも重きをなした。64年(元治1)の長州征伐には征長総督として広島に赴き寛大の処置をとったが,つづく再征には出兵を拒否して幕府不信を表明した。67年(慶応3)新政府議定職。70年(明治3)名古屋藩知事となる。諡(おくりな)は文公。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「徳川慶勝」の意味・わかりやすい解説

徳川慶勝
とくがわよしかつ
(1824―1883)

幕末期の尾張(おわり)徳川藩主。公武合体の立場で活躍した。実父は美濃(みの)(岐阜県)高須(たかす)藩主松平義建(よしたつ)。尾張徳川家の養子となり、1849年(嘉永2)封を継ぎ、51年から藩政改革に着手し、人事の刷新、財政整理、禄制(ろくせい)改革などを行い成果をあげた。鎖国攘夷(じょうい)の立場にたち、条約勅許問題では勅許必須(ひっす)論を強硬に主張したので、58年(安政5)幕府は慶勝に退隠を命じ、江戸・戸山(とやま)別邸に幽閉した。62年(文久2)赦免され、その後、朝幕間の斡旋(あっせん)に努めた。64年(元治1)征長総督を命ぜられ、征長の全権が委任され、長州藩の謝罪を受け入れた。67年(慶応3)10月には桑名藩主松平定敬(さだあき)を派して大政奉還を奏上せしめている。王政復古後、議定(ぎじょう)に任ぜられ、70年(明治3)には名古屋藩知事となった。

[林 亮勝]

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「徳川慶勝」の解説

徳川慶勝
とくがわよしかつ

1824.3.15~83.8.1

幕末期の大名。尾張国名古屋藩主。父は支藩高須藩主松平義建(よしたつ)。初名慶恕(よしくみ)。1849年(嘉永2)名古屋藩を相続して藩政改革に着手。徳川斉昭(なりあき)や島津斉彬(なりあきら)らと親交し,西洋事情を研究。58年(安政5)斉昭・慶喜(よしのぶ)父子と不時登城事件をおこし,戸山邸で隠居・謹慎。60年(万延元)ゆるされ,64年(元治元)征長総督となり,萩藩に寛大な処分を行う。68年(明治元)藩論を朝廷方に統一,近隣諸藩を勤王に誘引。明治期は旧臣授産のため北海道八雲(やくも)開拓を援助。また写真術を研究し,弟松平容保(かたもり)や,名古屋城・戸山邸・広島城下などを撮影,貴重な写真を残した。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「徳川慶勝」の解説

徳川慶勝 とくがわ-よしかつ

1824-1883 幕末の大名。
文政7年3月15日生まれ。美濃(みの)(岐阜県)高須藩主松平義建(よしたつ)の次男。嘉永(かえい)2年宗家の尾張(おわり)名古屋藩主徳川家14代となり,藩政改革を実行。日米修好通商条約の調印に反対,将軍徳川家定(いえさだ)の継嗣問題でも井伊直弼(なおすけ)と対立し隠居謹慎。のちゆるされ,公武合体運動に尽力。明治16年8月1日死去。60歳。初名は義恕(よしくみ),慶恕。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「徳川慶勝」の意味・わかりやすい解説

徳川慶勝
とくがわよしかつ

[生]文政7(1824).3.15. 美濃
[没]1883.8.1. 東京
幕末の尾張藩主。松平義建の子。初名は慶恕 (よしくみ) 。公武合体運動の中心として幕末に活躍。第1次長州征伐のときは征長総督となったが,第2次の征長には出兵を拒否した。廃藩当時は名古屋藩知事となった。

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世界大百科事典(旧版)内の徳川慶勝の言及

【長州征伐】より


[第1次]
 1864年(元治1)7月18日の禁門の変(蛤御門の変ともいう)による長州軍の皇居内への発砲は,7月23日の長州追討の朝命となり,翌日,幕府は中国・四国・九州の21藩に出兵を命じ,また,その他の諸藩には京畿守備を命じた。そして,幕府は征長総督徳川慶勝(前尾州藩主)の指揮のもとに諸大名の部署を決め,征長軍を進めようとした。しかし,その足並みは必ずしもそろわなかった。…

※「徳川慶勝」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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