徳島(読み)トクシマ

デジタル大辞泉 「徳島」の意味・読み・例文・類語

とくしま【徳島】

四国地方南東部の県。もとの阿波国にあたる。人口78.6万(2010)。
徳島県北東部の市。県庁所在地。もと蜂須賀はちすか氏の城下町。かつてはの集散地。8月には阿波踊りでにぎわう。阿波浄瑠璃人形芝居の伝承地。重化学・木工業が盛ん。人口26.5万(2010)。

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精選版 日本国語大辞典 「徳島」の意味・読み・例文・類語

とくしま【徳島】

[一] 徳島県北東部の地名。県庁所在地。天正一四年(一五八六蜂須賀家政が猪山に築城の際付近の地を徳島と命名。吉野川河口に発達。江戸時代は蜂須賀氏二五万七千石の城下町。藍玉の生産で知られた。染色・木工業などが行なわれ、八月の阿波踊りは有名。明治二二年(一八八九)市制。渭津(いのつ)

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改訂新版 世界大百科事典 「徳島」の意味・わかりやすい解説

徳島[県] (とくしま)

基本情報
面積=4146.67km2(全国36位) 
人口(2010)=78万5491人(全国44位) 
人口密度(2010)=189.4人/km2(全国33位) 
市町村(2011.10)=8市15町1村 
県庁所在地=徳島市(人口=26万4548人) 
県花=スダチ 
県木ヤマモモ 
県鳥=シラサギ

四国の東部を占める県。北は香川県,西は愛媛県,高知県に接し,東は紀伊水道,南は太平洋に面する。面積,人口,経済がともに全国の100分の1を占めるため,〈100分の1県〉と呼ばれてきたが,高度経済成長にともなう地域格差の拡大によって,近年は100分の1の水準の維持も困難になってきている。

県域はかつての阿波国全域にあたり,江戸時代は淡路国とともに徳島藩蜂須賀氏の所領であった。1871年(明治4)廃藩置県によって徳島藩は徳島県となり,同じく阿波・淡路両国を管轄した。同年名東(みようどう)県と改称。73年香川県を併合して讃岐国も管轄下に置いたが,75年香川県の再置により分離した。翌76年名東県は廃されて阿波は高知県に,淡路は兵庫県に編入されたが,80年高知県から阿波が分離して徳島県が再置され,現在に至っている。

徳島県の遺跡は吉野川流域に集中する。先土器・縄文時代の遺跡は比較的調査が進んでいないが,縄文早~後期の加茂谷遺跡(三好郡東みよし町)や森崎貝塚(鳴門市)などが知られている。弥生時代では,2個の銅鐸と1本の大型細身銅剣とが伴出した源田(げんだ)遺跡(徳島市)をはじめとして,いずれも偶然の発見ではあるが,銅鐸の出土例が多い。また高川原(たかがわはら)遺跡(名西郡石井町)では珍しい銅鐸形土製品がほぼ完形のまま出土している。足代(あしろ)東原遺跡(三好郡東みよし町)は弥生後期から古墳時代前期ころの積石墓群からなる。こうした積石墓の伝統はやがて前方後円状の積石塚へと発展するらしい。この墓群に接近して積石塚があるし,萩原遺跡(鳴門市)ではそうした古墳時代前期の積石墳墓が調査されている。主体部の竪穴式石室周辺からは弥生式的な色彩の濃い古式土師器や画文帯神獣鏡が出土している。なお,ここでは箱式石棺墓,土壙墓,石蓋土壙墓,竪穴式石室墓など古墳時代全般にわたる墓が,多くは積石を伴って存在している。丹田(たんだ)古墳(三好郡東みよし町)や八人塚(徳島市)も同様の積石塚である。このように吉野川流域はとりわけ積石塚の盛行した地帯である。積石塚は長崎県対馬から中部地方まで分布するが,香川県とともに本県は特に集中度が高く,〈阿讃積石塚分布圏〉などと呼ばれるゆえんである。

 前期古墳では,星河内(ほしこうち)丸山古墳(徳島市)がある。これは竪穴式石室をもつ大型の円墳で,鏡,鍬形石,車輪石,石釧(いしくしろ),大刀などの副葬品から4世紀後半と考えられている。中期古墳としては恵解山(えげやま)古墳群(徳島市)がある。約10基の円墳からなり,内部主体は箱式石棺のものと横穴式石室のものとがある。5~6世紀であろう。後期古墳では段の塚穴古墳(美馬市)がある。太鼓塚と棚塚という二つの円墳からなる。いずれも石積みのドーム形天井をもつ玄室を備えている。6世紀後半~7世紀初めであろう。鳴門市の大毛島では本州四国連絡橋の大鳴門橋の建設と,これと関連する国道28号線の建設工事が進められて,多くの遺跡が明らかにされつつあるが,この中には製塩址かと思われる集石遺構が多く発見されている。

 歴史時代では,石井廃寺(名西郡石井町)が挙げられる。法起寺式伽藍配置をもち,出土した古瓦には天平期(729-749)から平安中期に及ぶ各時期のものがある。
阿波国
執筆者:

徳島県は山地が大部分を占め,平地は全面積のわずか15%を占めるにすぎない。中央構造線が県北を東西に走り,これに沿って東流する吉野川をはさんで,北側に讃岐山脈,南側に四国山地剣(つるぎ)山地,海部(かいふ)山地がいずれも東西方向にのび,東にいくに従って低くなっている。讃岐山脈は浸食されやすい和泉砂岩層からなる平均標高500mほどの山脈で,吉野川に面した南麓に典型的な扇状地や段丘を形成する。天然記念物の〈阿波の土柱〉は,この土砂の堆積物が浸食をうけて形成された地形である。四国,剣,海部の3山地は,讃岐山脈に比較するといずれも標高1000~2000mの高峻な壮年期の地形を示す。四国山地は結晶片岩からなり,吉野川上流が山地を横断して横谷をなし,大歩危(おおぼけ)・小歩危(こぼけ),祖谷渓(いやだに)などの景勝地をつくっている。剣山地は県内で最高の標高をもつ山地で,県を南北に分ける主分水界をなす。その北斜面は吉野川の流域に含まれ,その中・下流低地が徳島平野であり,〈北方(きたがた)〉という。南斜面は勝浦・那賀両川流域に含まれ,その下流低地を中心とした地区は〈南方(みなみがた)〉とよばれる。地形上,剣山地北斜面は山腹に平たん面が多いため,山地集落の発達が目だつが,南斜面は急傾斜地をなし,山腹の平たん面も少なく,川は穿入(せんにゆう)曲流をなして深い峡谷を形成している。海岸線は阿南市の橘湾以北は単調な砂浜海岸,以南は岩石海岸となっている。

 気候は,北部では瀬戸内式気候に近く,年降水量は1300mmに達しない。南部は夏季多雨の南海型を示し,年降水量は2000mm以上に達する。夏から秋にかけて台風による風水害が多い。

藩政時代はアイ,タバコ,塩の三大特産物を背景に豊かな経済力を誇り,城下町徳島は四国最大の都市として栄えた。しかし,明治末年ころから化学染料の出現によりアイの栽培が急速に衰微するとともに経済力を失い,近代工業の立地も遅れた。1995年の産業別就業人口の割合をみると,第1次産業12.2%,第2次産業30.6%,第3次産業56.8%で,第1次産業の比率は全国平均の6.0%に比べるとかなり高く,四国4県では高知県に次ぎ愛媛県と並ぶ高い比率を占め,農業県的性格が比較的強いことを示している。しかし,農業県的性格が強いとはいうものの,耕地面積は県総面積の8.8%(1996)にすぎず,しかも販売農家戸数約3万戸のうち専業農家は21%,第2種兼業農家が61%を占める。近世には徳島平野一帯の〈北方〉は,商品作物アイの栽培を主とした畑作地帯で,商業地域として早くから開け,勝浦・那賀両川の下流域低地を中心とした〈南方〉は低湿な水田地帯とは好対照をなした。徳島平野は下流部を除くと一般に高燥で,アイ作の衰えた明治以降は桑園化が進み,大正期および第2次大戦後に灌漑用水が整備されてからは急速に水田化され,最近は施設園芸,畜産も盛んとなった。下流部はダイコンホウレンソウ,れんこんなど阪神市場向けの野菜の特産地となり,特にれんこんは茨城県に次いで全国2位(1995)の生産を上げている。一方,那賀・勝浦両川流域は下流部では水田が卓越するが,最近中流部ではハウスミカン,スダチなどの果樹やたけのこなど商品作物の栽培が盛んになってきている。那賀川上流域は年3000mm以上と降水量が多く,木頭(きとう)と呼ばれる林業地域で,河口の阿南市に製材工場が集中している。海面漁業は,橘湾以北では経営規模が小さくイワシ,アジ,タチウオなどを対象とする沿岸漁業が中心であるが,近年は不振である。代わって水産養殖が盛んとなり,ハマチワカメ,ノリなどが養殖されている。これに対して橘湾以南では,かつてはマグロ,カツオなど遠洋漁業を中心としたが,現在は沿岸漁業や釣客相手の遊漁が主流となっている。

 県東部の臨海地域は,1964年新産業都市に指定され,工業化が進んでいるものの,軽工業,重化学工業別にみると,軽工業が工場数の81%,製造品出荷額の61%を占め(1995),木工,食品,窯業などを中心とする軽工業が依然として大きな比重を占めており,農業とともに停滞的色彩が強い。

 徳島県の経済活動における特色の一つは,その地理的位置から阪神指向性の強いことである。花卉や生鮮野菜を中心とする農産物の約8割が阪神市場に出荷され,徳島県産のものは阪神市場では,野菜が約4割,花卉が5割以上を占め,とくに最近はスダチの出荷が急速に伸びている。人口移動においても,大学生の就学移動のみならず就職移動を含めて阪神圏をその移動先としている。本州四国連絡橋明石~鳴門ルートは,1985年に大鳴門橋が開通し,98年春には明石海峡大橋が開通した。徳島県の阪神指向性をさらに強めるとともに,経済的な停滞を脱却する切札として大きな期待が寄せられている。

 観光資源としては,鳴門の渦潮,阿波踊,四国八十八ヵ所の霊場(第1~23番と第66番),大歩危・小歩危,祖谷渓を含む剣山国定公園,南国的な景観を見せる室戸阿南海岸国定公園などがあるが,交通機関の整備,施設の充実など解決すべき余地を大きく残している。鉄道は1899年に徳島~鴨島間が開通し,1914年に徳島本線(現,徳島線)が全通した。さらに高徳本線(現,高徳線)と土讃本線(現,土讃線)の開通により高松および高知と結ばれた。県南部の鉄道開通は遅れ,73年にようやく牟岐(むぎ)線が海部(かいふ)まで延長され,92年には第三セクター方式による阿佐海岸鉄道が高知県東洋町甲浦(かんのうら)まで開通した。他方,94年には徳島自動車道が部分開通し,2000年までに四国縦貫・横断道路と結ばれた。阪神方面との連絡は,1910年の国鉄宇高連絡船の就航により高松にとって代わられるまでは鳴門が四国の玄関口としての機能を果たしていた。近年は徳島・小松島両港を連絡港としてフェリーや高速船が就航してきたが,明石海峡大橋の完成により再編が迫られた。

徳島県はその自然的・経済的条件から徳島,西阿波,南阿波の3地域に大別される。

(1)徳島地域 県の北東部,徳島平野およびその周辺の吉野川中・下流域,勝浦川の全流域および那賀川の下流域を占め,徳島市を中心として鳴門,小松島,阿南,阿波,吉野川,美馬(みま)の6市と板野,名東,名西(みようざい),美馬,勝浦の諸郡を含む。県の総面積の半分,総人口の88%(1995)を占め,県内の主要地域を形成している。徳島市を中心とした地区は,〈北方〉と〈南方〉との接点にあたり,また県内各地域の交通の結節点として重要な役割を果たしてきた。徳島市はかつては蜂須賀氏の城下町で藍の取引を背景に経済力を誇ったが,近代化への転換に乗り遅れ,現在は商業的性格の強い中都市である。近世の船大工の伝統を継ぐ木工業が盛んで,なかでも阿波鏡台は全国に市場をもち,地場産業第1位の生産額を占める。また,明治初期に藍と結びついて発明された徳島独特の綿織物阿波しじらがある。近年,吉野川下流部は阪神市場向けの近郊農業地域となり,那賀・勝浦両川流域にも商品作物の導入が進んでいる。そのほか地場産業として,吉野川中・下流域の阿波たくあん,ウリ漬,つるぎ町の旧半田町周辺のそうめんを中心とする食品工業,吉野川市の旧山川町の川田和紙,鳴門市大麻町の大谷焼などがある。徳島,鳴門,小松島,阿南の4市を含む臨海地域は,1964年に新産業都市に指定され,吉野川水系,那賀川水系の豊富な電力と工業用水を背景に化学,繊維,鉄鋼,機械などの近代工業が進出している。

(2)西阿波地域 県の西部,吉野川中流域を占め,三好市と三好郡の全域を含む。県の総面積の2割,総人口の7%を占める。吉野川沿岸低地を除けば平地らしきものはほとんどなく,讃岐山脈南斜面と剣山地北斜面に属する山地が大部分を占める。この地方の中心集落である三好市の旧池田町は,古くから讃岐,土佐と阿波を結ぶ四国の交通の要地で,鉄道開通後は徳島本線,土讃本線の分岐点となり,谷口集落として山地集落で生産されるタバコ,木材,ミツマタなどの集散地としても栄えた。山地集落は,かつては交通上の障害から他地域と隔絶し,自給経済的色彩が強く,焼畑耕作が行われていたが,商品経済の浸透とともに,タバコ,ミツマタ,茶,コンニャクなどの商品作物が栽培されるようになった。とくに〈阿波葉〉と呼ばれる在来種のタバコ栽培は近世以来の歴史をもち,他県のタバコ栽培が副業的性格をもつのに対して専業的性格をもつ。しかし,これらの商品作物も労働生産性はきわめて低く,そのために急激な人口流出が生じている。とくに秘境といわれる祖谷地区は大歩危,祖谷渓を軸とする観光開発の動きはあるものの,相次ぐ挙家離村の結果,深刻な過疎問題をかかえている。

(3)南阿波地域 県の南部,剣山地の南側から太平洋沿岸に至る地域で,海部郡と那賀郡の全域を含む。面積は県の総面積の3割を占めるが,人口は総人口の5%を占めるにすぎない。交通の未発達により辺地的性格が強く,人口減少が続いている。海部郡の沿岸地域は岩石海岸をなし,入江の奥には漁業集落がみられる。かつてはカツオ一本釣り,マグロはえなわ,北九州を根拠地とする以西底引網など遠洋・出稼漁業が盛んであった。海部川や宍喰(ししくい)川流域の山間部では,冬季の温暖な気候を利用して阪神市場向けのキュウリ,トマトなどの栽培が急速に発展している。一方,林業地域を形成する那賀川流域は1951年に国土総合開発法に基づく特定地域に指定され,ダム建設を中心とする電源開発,各種用水の確保,森林資源の開発を重点項目とした事業が展開され,小松島・橘湾臨海工業地域の造成に大きな役割を果たした。南阿波の中心をなす美波町の旧日和佐町は16世紀末に発達した小城下町で,美波町の旧由岐町,牟岐町などとともに日本の遠洋漁業の先駆をなした。天然記念物大ウミガメの上陸地,23番札所薬王寺の所在地としても知られる。
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徳島[市] (とくしま)

徳島県北東部,徳島平野東部にある県庁所在都市。1889年市制。人口26万4548(2010)。市街地は紀伊水道に臨む吉野川河口部南岸の三角州上に位置し,16世紀末に蜂須賀家政が築いた渭山(いのやま)城の城下町から発展した。吉野川流域低地のいわゆる〈北方(きたがた)〉と,南の勝浦川,那賀川下流低地を中心とした〈南方(みなみがた)〉との接点にあたり,県の政治,経済,文化の中心をなし,商業が盛んである。市街地内部には新町川,寺島川,福島川,助任(すけとう)川などの川にはさまれた三角州からなる島状の地形が多く,徳島(徳は美称)の名はこれをよく表しており,明治以降県名にも使われることになった。近世には徳島平野を背景とした阿波藍の取引によって繁栄したが,明治中期以降,藍の衰退とともに経済力を失って近代工業の発達も遅れた。地場産業として,東部では阿波鏡台,仏壇,たんすなどの木工業,西部では醸造,阿波しじらなどの織物業が盛んである。1964年鳴門市,小松島市,阿南市にかけての臨海地域が新産業都市に指定され,化学,繊維,鉄鋼,機械などの近代工業が誘致された。徳島駅は高徳線,徳島線,牟岐(むぎ)線が集まる交通の要衝で,新町川の河口の徳島港は和歌山,東京方面へのフェリー発着場となっている。徳島自動車道のインターチェンジがある。徳島城跡には旧徳島城表御殿庭園(名)が残る。8月中旬に行われる阿波踊は有名。
執筆者:

阿波国徳島藩25万7000石の城下町。1585年(天正13)蜂須賀家政が播州竜野から入国。当初名東(みようどう)郡一宮城に拠ったが,山城のため,鮎喰(あぐい)川支流新町川と園瀬川の三角州地帯渭津(いのつ)の渭山(猪山)に築城,渭津を徳島と改称したのに始まる。徳島は寺島,常三島(じようさんじま),福島,出来島(できじま),住吉島などと並び称せられた州の名で,近世以前は渭山の東にある名東郡富田荘の一寒村にすぎなかった。城下は城山(渭山)を中心に徳島,常三島,福島に武家屋敷を配し,新町川と寺町川に囲まれた内町に重臣を置いた。町屋は新町,八百屋町,紙屋町に,足軽・鉄砲組など下士は北方の撫養(むや)街道口の助任,西の伊予街道口の佐古,蔵本,南の土佐街道口の大道(おおみち),二軒屋に配置された。また眉山(びさん)山麓の寺町に寺院を集中,新町との間を町屋・職人町とした。城下町の建設は,軍事的には領内の要所阿波九城(一宮,岡崎,西条,川島,脇,大西,富岡,丹生(にう),鞆)に家老を配備する支城駐屯制と呼応してすすめられた。

 領内経済の中核としての機能はアイ生産の発展につれて充足し,新町川沿いの船場には藍商の倉が並び,河口の津田は藍玉の積出しと大坂・堺からの物資の輸入港として繁栄した。城下町支配は仕置(家老)-町奉行(中老)-手代・同心-大年寄-町年寄-五人組-町人の系統で行われた。初期豪商は播州三木城主別所長治を祖とする三木正光(網干屋)をはじめ,尾張・播磨出身の武士の系譜をひく寧楽(なら)屋,魚(とと)屋,天満屋,玉屋などで,城下町建設や初期の経済政策をすすめるうえで重要な役割を果たした。仁木義治(呉服又五郎)は1586年阿波国中の紺屋(こうや)司を命ぜられ,市原三左衛門(寧楽屋)や魚屋道通は96年(慶長1)新田開発に参画し諸役免許を与えられた。1616年(元和2)紙類の販売を紙屋町の銭屋,平田屋など17軒の商人に独占させるなど,藩は特権商人の育成,株仲間の組織化をはかった。1733年(享保18)藍方御用場を設置,藍を専売としたが,56年(宝暦6)名西郡高原村常右衛門らの専売制廃止要求の一揆計画が発覚,処刑される事件が起こった。66年(明和3)10代藩主重喜の藩政改革があり,専売制は廃止となるが,藩・城下町特権商人と在方豪商との結合は強まり,また8軒の大坂藍問屋株の廃止,玉師株の再興などで城下に開設された藍玉売場所は活気を呈した。その後,阿波藍商が全国各地に支店を出すなど販売網は拡大し藍産業の隆盛をみた。アイ作の盛行による城下町の繁栄は,1685年(貞享2)に町屋人口2万5590人を記録するにいたった。幕末期にはシーボルトに師事した眼科医の高(こう)良斎や医師学問所の教授高畠耕斎ら蘭学者を輩出した。また人形浄瑠璃が庶民の間に広まり,竹本越前大掾らの義太夫を生み大坂文楽との関係も密であった。阿波踊は城下をはじめ村方でも行われ,現在にうけつがれている〈よしこの節〉の大流行をみた。
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日本歴史地名大系 「徳島」の解説

徳島
とくしま

[現在地名]徳島市徳島町一―三丁目・中徳島町なかとくしまちよう一―三丁目・徳島本町とくしまほんちよう一―三丁目・新蔵町しんくらちよう一―三丁目・中洲町なかずちよう一―三丁目

徳島城の東に隣接する徳島城下の武家地。北を助任すけとう川、南西を寺島てらしま川、東を福島ふくしま川に囲まれる。徳島城などのある島、徳島の東部を占める。徳島は初め渭津いのつとよばれたが、天正一三年(一五八五)阿波に入国した新領主蜂須賀家政が徳島と改めた。慶安五年(一六五二)渭津の旧号に戻したが(阿淡年表秘録)、延宝六年(一六七八)再び徳島に改めた(元居書抜)。当地は周囲に石垣が築かれ、徳島城の外郭の役割を果した。明暦年間(一六五五―五八)には「渭津惣構」、寛文一二年(一六七二)では「渭津城外郭」とよばれた(寛政元年「御巡見御目附衆御尋有之節御答帳」蜂須賀家文書)。武家地徳島の居住者は享保一七年(一七三二)の御家中屋敷坪数間数改御帳では六一人で、家老長谷川家を筆頭に中老・物頭が七割近くを占めた城下随一の高級武家地であった。屋敷も大きく一軒あたりの平均は九四二坪であった。道幅は徳島本町では三間半余(酒井順蔵「阿波国漫遊記」)と広いが、徳島藩主が参勤のために福島橋東詰で乗船するまでこの道を通行したためと思われる。文化九年(一八一二)の島々丁名改目録ではほん丁・新御蔵しんおくら丁・南浜側・東浜側・北浜側・御厩おうまや丁・裏ノ丁・会所かいしよ丁・余りあまり丁・馬場筋・徳嶋御殿前・御堀縁おほりぶちがみえ、裏ノ丁と余り丁は当時新しく付けられた丁名であった。

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世界大百科事典(旧版)内の徳島の言及

【富田荘】より

…阿波国名東郡(現,徳島市)の荘園。前身は国衙領の南助任保,津田島。…

【新島荘】より

…阿波国名東郡(現,徳島市)の荘園。756年(天平勝宝8),東大寺は西日本各地に多くの荘園を一挙に創設した。…

※「徳島」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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