改訂新版 世界大百科事典 「徳大寺実則」の意味・わかりやすい解説
徳大寺実則 (とくだいじさねのり)
生没年:1839-1919(天保10-大正8)
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
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明治天皇の侍従長。天保(てんぽう)10年12月6日、右大臣徳大寺公純(きんいと)の長男に生まれる。西園寺公望(さいおんじきんもち)の兄。1862年(文久2)権中納言(ごんちゅうなごん)、国事御用掛となり、翌1863年議奏に進んだが、尊攘(そんじょう)派として活動したために、同年八月十八日の政変によって罷免された。王政復古後の1868年(明治1)新政府の参与、ついで議定となり、内国事務総督などを兼任。1870年の山口藩脱隊騒動の際には宣撫使(せんぶし)として出張した。1871年宮内省に入って侍従長となり、それ以後、一時期(1877年8月~1884年3月)を除いて、明治天皇の死去までその職にあった。この間、宮内卿(くないきょう)、華族局長、内大臣などを兼任。1911年(明治44)公爵となった。大正8年6月4日死去。
[大日方純夫]
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…天皇を頂点とする国家機構が整備されてくるのにともない,明治政府は皇室の経済的基礎を確立する必要に迫られた。1876年木戸孝允の建言をはじめ,79年には宮内卿徳大寺実則が官有林の一部を皇室財産に編入すべき提議をおこなったが,その動きが本格化したのは自由民権運動の高揚した81年ころである。すなわち81年10月国会開設の詔を機に民権運動が高揚すると,憲法実施前に皇室財産を設定せよとの建議があいついだ。…
…藤原氏北家閑院流の権大納言公実の男左大臣実能を始祖とする堂上公家。閑院流は歴代の子女が天皇の後宮に入っている。たとえば公成の女茂子は後三条天皇の女御となって白河天皇を生み,実季の女茨(苡)子が堀河天皇の妃となって鳥羽天皇を生み,公実の女璋子は鳥羽天皇の皇后になって,崇徳・後白河両天皇を生んでいる。特に院政を行った白河・鳥羽・後白河3上皇がすべてこの流からでているので,院政期に勢力があり,公実の3子,すなわち実行が三条家を,通季が西園寺家を,実能が徳大寺家を起こし,いずれも摂関家につぐ清華という家格となった。…
※「徳大寺実則」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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