御用金(読み)ゴヨウキン

デジタル大辞泉 「御用金」の意味・読み・例文・類語

ごよう‐きん【御用金】

江戸時代、幕府・諸藩が財政の不足を補うため、臨時に御用商人などに課した賦課金。

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精選版 日本国語大辞典 「御用金」の意味・読み・例文・類語

ごよう‐きん【御用金】

〘名〙
① 江戸時代、幕府・諸大名が、国費不足のため、富豪町人、支配村方などに課した一種の公債。なかば強制的に割り当てられた。明治新政府も、町人に命じたことがある。用金。御用銀。
※浮世草子・けいせい伝受紙子(1710)四「師直公の御用金(ヤウキン)とござりまして、政右衛門殿御取次で先年二千両御用に立おきまして」
② 江戸時代、二条城その他に貯蔵されていた幕府の備金。二条城城内には寛永年間(一六二四‐四四)から積み立てられ、明和二年(一七六五)には一万六千五百両あった。
※財政経済史料‐五・財政・貯蓄・貯金・明和八年(1771)月日「二条御城内御用金之事 一、金一万六千五百両 右御用金之儀、寛永年中銀にて三輪七蔵へ御預被仰渡
③ 江戸時代、作事奉行などのつかさどる工事を請負った御用達町人に与えられた資金。
随筆半日閑話(1823頃)六「右御用金被仰付有旨御請申上候」
④ 江戸時代、諸大名のお手もと金。
※歌舞伎・毛抜(1742)「此上は身が了簡つけふ。其御用金(ゴようきん)をもて」
⑤ 江戸後期、蝦夷地との交易のため、箱館その他蝦夷各地へ赴任した役人が持参した資金。
※財政経済史料‐一〇・属島之部・蝦夷地・文政六年(1823)八月「寛政十一未年より文政元未年迄蝦夷地御用金元払仕訳書」

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改訂新版 世界大百科事典 「御用金」の意味・わかりやすい解説

御用金 (ごようきん)

江戸時代,幕府・諸藩が財政上の不足を補うため,町人・農民らに対し臨時に上納を命じた金銀をいう。御用金は献金とは異なり,本来は利子付きで年賦返済する借上金である。もっとも,利子は年利2~3%という超低利で,返済は長期の年賦返済であった。幕末には利子はもちろん元金もほとんど償還されなかったので,半強制的な献金の性格をもつにいたった。

 幕府の御用金令は1761年(宝暦11)を初見とし,おもなものだけでも1806年(文化3),09年,13年,37年(天保8),39年,43年,53年(嘉永6),54年(安政1),60年(万延1),64年(元治1),65年(慶応1),66年など,幕府財政の悪化に伴って幕末に近づくほど頻繁に発令された。発令の名目は,幕府財政融通をはじめ米価調節費,江戸城再建費,海防費,長州征伐軍費の調達など,さまざまである。なお,御買米令と米価引上げのための御用金令とは,米穀の流通量を減少させることで米価の引上げをはかる点で,ほぼ同じ内容のものであった。ただし,前者は富裕町人らが幕府から指示された量の米を購入・保有するのに対し,後者は町人・農民から徴収した御用金を使って幕府みずからが米の買上げを行うという,手続上の違いがある。

 御用金は当初,大坂・江戸の豪商に対して課せられたが,のちには堺・兵庫・西宮などの富裕町人や,大坂・江戸の一般町人,さらには農村の富裕層にも命じられるようになった。たとえば米価調節のため1806,09,13年の3回にわたり徴収した御用金は,総額約125万両(ほかに献金16万両余)にもなったが,その内訳は江戸町人約36万両,大坂・兵庫・西宮・堺の町人約60万両,天領の富裕農民約29万両である。この文化年間の御用金は,その後30年ほどの間に元金の56%の約70万両が返済され,1843年現在の未返済残高は約55万両であった。また年利3%の利子分の未払高は37万両余にも達し,利子が支払われたのは最初の数年間のみで,以後はほとんど支払われなかったとみられる。町人・農民らは命じられる御用金の負担をできるだけ軽くするため,八方手をつくして減額嘆願を行い,このため幕府の指定高と町人・農民の出金請高との間には,しばしば相当大きな差があった。町人・農民らはそれなりの抵抗をしていたのである。なお幕府の御用金は天領に課せられたので,御用金上納者の村が天領から私領に変わった場合は全額返済された。幕府といえども,大名領旗本領領民に御用金を課すことは知行権を侵すことになるので,できなかった。

 明治政府も,維新当初は財政窮乏に対処して京都・大阪・東京などの豪商らから多額の御用金をしばしば徴した。この御用金が維新創業期の財政に果たした役割はきわめて大きいが,一時しのぎの手段にすぎないので,政府は1869年(明治2)4月,御用金の制度を廃止し,国債制度に切り替えた。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「御用金」の意味・わかりやすい解説

御用金
ごようきん

幕府・諸藩が財政金融政策遂行に必要な資金を得るため、富裕な町人、百姓に強制的に賦課し、利息を交付し、元金を償還する予定の借用金。幕府の御用金は、元禄(げんろく)期(1688~1704)以来の福井藩、水戸(みと)藩御用金と享保(きょうほう)期(1716~36)の幕府御買米の存在を前提として、1761年(宝暦11)米価引立てのため、約170万両を大坂町人に課し、買米を命じるとともに、拝借金を町に渡して貸付金としたが、結局は難儀により中止に至ったのが始まりである。ほかに、大名財政救済のための公金貸付、江戸城修復、幕府財政補填(ほてん)、窮民救済、海防費、外国事件、長州征伐軍資金などの御用を目的として賦課され、その償還・利息(手当金)はしばしば長期にわたった。対象は、十人両替、融通方などの大坂町人を中心に、江戸御用達(ごようたし)、札差(ふださし)など江戸町人を主とするが、諸国寺社、山伏、幕領百姓、さらに幕末には京、堺(さかい)、兵庫、西宮(にしのみや)の商人にも拡大され、1866年(慶応2)には金高も最高の700万両に達する。江戸では同年三井家の御用金が150万両という巨額に達していた。

[川上 雅]

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百科事典マイペディア 「御用金」の意味・わかりやすい解説

御用金【ごようきん】

調達金,用達金,御頼金,才覚金等とも。江戸時代に幕府・諸藩が財政上の不足を補うために御用商人をはじめとする町人や百姓に課した臨時賦課金。幕末に至るほどひんぱんに行われた。最高指定金額は第2次長州征伐の時,幕府が大坂,兵庫,西宮の商人に課した700万両。
→関連項目御用達幕府札

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「御用金」の解説

御用金
ごようきん

江戸時代,幕府・諸藩が財政上の目的で,なかば強制的に町人や農民から取り立てた借入金。利子つきで償還を約束した点が献金・上納金と異なる。幕府は1761年(宝暦11)以来,米穀買上げ,江戸城修復,海防,長州戦争の戦費などの名目で十数回にわたって行った。上方町人に110万両を課した1843年(天保14)の例では,返済の条件は20年賦,繰延べ・借換えなどの措置はあったが,幕府倒壊まで償還の原則は貫かれている。明治政府も当初は財政確保のために御用金を命じたが,69年(明治2)廃止,国債に引き継いだ。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「御用金」の意味・わかりやすい解説

御用金
ごようきん

江戸時代,幕府,諸藩が財政難に対処するため,御用商人などを指名して臨時に募集した金銭。幕府では宝暦 11 (1761) 年から慶応2 (1866) 年までに 17回賦課した。償還がたてまえであったが償還できないこともあった。

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旺文社日本史事典 三訂版 「御用金」の解説

御用金
ごようきん

江戸時代,幕府・諸藩が財政の窮乏を補うため,御用商人らに臨時に賦課した金銭
宝暦年間(1751〜64)に住友吉左衛門ら三都の商人に命じたのが幕府御用金の最初という。本来,年賦償還されるものであるが献金となった場合が多い。明治政府も初めは同様に賦課した。

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デジタル大辞泉プラス 「御用金」の解説

御用金

1969年公開の日本映画。監督・脚本:五社英雄、脚本:田坂啓、撮影:岡崎宏三、美術:小島基司。出演:仲代達矢、中村錦之助、丹波哲郎、司葉子、浅丘ルリ子、夏八木勲、樋浦勉、西村晃ほか。第24回毎日映画コンクール撮影賞、美術賞受賞。

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