得地保(読み)とくじほ

日本歴史地名大系 「得地保」の解説

得地保
とくじほ

中世、佐波川流域一帯を領域とした国衙領で、のち東福寺(現京都市東山区)領となった。「徳地」とも記す。はじめ杣山として重視されたらしく、伐採が進むと同時にこの地の開拓も進んだものと思われる。早くから上得地保・下得地保に分割されており、それぞれ得地上保・得地下保ともよばれている。

得地の地名は天福元年(一二三三)五月日石清水八幡宮寺申文(宮寺縁事抄)に「得地庄」としてみえる。同文書によれば得地保は源頼朝によって石清水八幡宮寺(現京都府八幡市)に寄進され荘号をとなえることとなったが、寛喜三年(一二三一)周防国が再び東大寺造営料国となると当荘はとくに「杣之便宜」があるとして、国衙への返還を求められ、下得地を返還している。また上得地についても代替地を与えるというので八幡宮寺側は返還に応じたにもかかわらず、替地がいまだに与えられていないと訴えている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

防府市歴史用語集 「得地保」の解説

得地保

 現在の佐波郡徳地町のことです。平安時代の終わりごろの徳地町は、周防国府[すおうこくふ]の役人がおさめる土地(保[ほ])でした。

出典 ほうふWeb歴史館防府市歴史用語集について 情報

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