往来物(読み)おうらいもの

精選版 日本国語大辞典 「往来物」の意味・読み・例文・類語

おうらい‐もの ワウライ‥【往来物】

〘名〙 (「往来」は「消息往来」の意) 鎌倉時代から明治初期にかけて初等教育教科書副読本として編まれた書物の総称。
※随筆・折たく柴の記(1716頃)上「物よむ師などすべき人なかりしかば、ただ往来物の類などをよみならふのみなりき」
[語誌]古く平安時代には手紙文の模範文例集であったが、鎌倉時代以降、作文のための短句・単語集や文案・文例集となり、さらに社会常識、実用知識なども盛りこむとともに、手習、喫茶、地理などと内容的に分化されたものも現われた。「明衡往来」「東山(とうざん)往来」「庭訓(ていきん)往来」「千字文」「商売往来」などその種類は多く、庶民教化に果たした役割は大きい。

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デジタル大辞泉 「往来物」の意味・読み・例文・類語

おうらい‐もの〔ワウライ‐〕【往来物】

平安末期から明治初期にかけて編集・使用された、一種の初歩教科書の総称。「明衡往来めいごうおうらい」に始まり、初めは手紙の模範文例集であったが、近世では項目も多様化し、寺子屋の教科書となった。

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改訂新版 世界大百科事典 「往来物」の意味・わかりやすい解説

往来物 (おうらいもの)

平安後期から明治初期まで,ひろく使用された初等教科書の一群を総称していう。往来ということばは,手紙,とくに往復書簡を意味したが,平安後期に,文筆に携わる公家が,初等教科書として往復書簡集の形をとる書簡文例集を作るようになったのにはじまり,初等教科書をさすことになった。鎌倉時代に入ると,数々の往来が作られる中で書簡集形式をとらないものでも,往来の名を称するものがあらわれ,室町時代には武家や僧侶の間で用いられるものも作られ,内容・形式の多様化が進んだ。さらに江戸時代に入って,教育が普及しはじめると,時期・階層・地域に応じてさまざまな往来が作られ,その数は数千種に及び,往来物といえば初等教科書一般を意味するようにもなった。

 近代以前の社会では世界に例を見ない往来物の普及と多様化は,そのまま日本における初等教育の発達の跡を示すもので,往来物の調査・分類などを通じて,日本教育史の基礎の一部を明らかにすることができる。また,往来物は教育史の資料であるのみにとどまらず,そこにあらわれる語彙・文体などは,日本語の歴史を知るための貴重な資料となり,収められた手紙の形式・文体は,古文書学の基本的な資料でもある。また初等教科書としての往来物は,政治・法制などの歴史史料と異なり,日常生活を送るうえで必要な実用的知識を網羅的に記すという性格を持っているため,社会や文化の歴史を知るための資料として,他に代えがたい価値を持っている。

 数多い往来物の中で,近世以前に作られたものを,一般に古往来と呼ぶ。現在40種が知られる古往来の中で,もっとも古いものとされるのは《明衡(めいごう)往来》であり,11世紀に文章博士,大学頭などを歴任した藤原明衡(あきひら)によって作られた。200余通の書簡を集め,正月から12月まで月を追って配列したこの書簡集は,《雲州往来》《雲州消息》などとも呼ばれ,文例集として広く用いられた。同じころに作られたと考えられるものに,近年紹介され,《高山寺本古往来》と名づけられた往来がある。この56通の書簡集は,平安後期の中・下級貴族,在庁官人の生活を具体的に伝えるものとして,興味深い内容を持っている。また,《東山往来》《和泉(かせん)往来》なども初期の往来として知られるが,宗教的な文献や歴史書などではなく,日常的・実用的な書簡文例集が初等教科書として作られ,後の時代まで主流として用い続けられたところに,日本における教育のあり方があらわれている。鎌倉時代に入ると,《十二月往来》があらわれた。この往来は,新年から歳暮まで毎月の往復書簡,計24通を並べたもので,季節の変化や年中行事に合わせて,生活の知識を書きこんだ模範文例集としての往来物の定型を作った。さらに鎌倉中期には,手紙を書くうえで必要な雑知識,慣用語句などを集めた《雑筆往来》も作られた。ついで南北朝・室町時代初期に作られた《庭訓(ていきん)往来》は,《十二月往来》の形式によりながら(8月が3通になっているために全25通から成る),室町初期の武家社会の諸行事に託して,書簡文作製のための基礎知識と,武家の生活に必要な諸知識を網羅的に収めることに成功している。そのため,これは古往来の代表として江戸時代を通じて寺子屋などで広く使用され,単独のものだけでも170回以上板行された。同じく室町初期には,1193年(建久4)に行われた富士野の巻狩りに材をとって,普通の書簡文以外のさまざまな文書の書式も収めた《富士野往来》があらわれた。これは書簡文形式をとらないもので〈往来〉と呼ばれた嚆矢(こうし)である。室町時代には文化の普及にともなって,往来物の多様化が進み,《尺素(せきそ)往来》のように類聚形式で数多くの単語を集めたものや,軍記物との折衷形式のものなど,さまざまな形式がみられ,内容も公家・武家・僧侶の各階層に応じて,種々の分野にわたるようになった。

 江戸時代に入ると,各地に自生的にあらわれた寺子屋で,読み書きの教科書として往来物が用いられるようになった。寺子屋では《庭訓往来》をはじめとする古典的なものも使用されたが,寺子屋が開かれた地域や,集まる子弟の階層に応じて,さまざまなものが作られた。古典的な往来物をはじめとして,板行されたものは数百種にのぼるが,寺子屋の教師は手書きの教科書を子弟に与えることが一般であったから,江戸時代を通じて各地で作られ,改修された往来物の数を把握することは容易ではない。その中で主なものをあげると,《田舎往来》《農業往来》《百姓往来》などは農事暦を中心に,農業の基本的な知識をまとめており,町人の間で用いられたものとしては,往来物の中でもっとも多くの人々に使用されたものとされている《商売往来》をはじめとして,《問屋往来》《呉服往来》《万祥廻船(ばんしようかいせん)往来》などがある。また《日本国尽》《都名所往来》《浪花往来》など,地理風俗を記した往来も早くから作られ,江戸後期には《中仙道往来》のように各地の風物を記述するものもあらわれ,明治初頭の《世界風俗往来》に及んでいる。実業や地理などを主題とする往来の他に,道徳的,教訓的なものや,歴史など古典にかかわるものなども数多く作られたことはいうまでもない。また板行された往来物の中には,種々の趣向をこらした挿絵が加えられているものも多く,往来物の普及の一面を伝えている。

 江戸時代の往来物の多様さは,当時の社会全般にみられる教育への強い要求に支えられたものであるが,近代日本の前提となった江戸時代の日本人の基礎的な知識の性格があらわれている。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「往来物」の意味・わかりやすい解説

往来物
おうらいもの

平安後期から明治初期にかけて用いられた初等教科書の総称。単に「往来」ともいう。往来とは最初、往復一対の手紙文をいくつも集めて編まれた形式に由来する名称であったが、近世ではおよそ初等教科書として用いられるものをすべて往来物とよぶようになった。平安後期から室町時代にかけての往来を「古往来」と総称する。その代表的なものを編纂(へんさん)形式によって例示すれば、種々さまざまな往復一対の手紙文を収録した『明衡(めいごう)往来』(平安時代。書状27通)、1か月往復2通、1年で24通の模範的手紙文を集めた『十二月(じゅうにげつ)往来』(鎌倉時代)、手紙文に用いられる語句を多数集めて、手紙文学習の基礎を与えることを意図した『雑筆(ぞうひつ)往来』(鎌倉時代。33条目453句)、手紙文とそれについての詳細な解説とを交互に配列して学習の便を図った『庭訓(ていきん)往来』(室町時代。書状12か月25通)、手紙文以外のさまざまな文型からなる『富士野(ふじの)往来』(室町時代)などがある。このように古往来はしだいに初等教科書としての形式・内容を整えていき、その対象も当初の貴族・僧侶(そうりょ)の子弟に加えて、中世以降、武士の子弟も含まれるようになり、実用的色彩を強めていく。また『庭訓往来』をはじめとして、近世の寺子屋においても引き続き用いられた例も少なくない(江戸時代刊行の『庭訓往来』は約170種類)。

 江戸時代になると、庶民教育機関としての寺子屋の普及と学習人口の増加によって、往来物の種類も出版部数も飛躍的に増加し、内容にも学習上のくふうが加えられ多様化していく。次にそれらを内容(教科)によって大まかに分類し、代表的なものを例示する。

(1)国語科 「字尽(じつくし)」や「名寄(なよせ)」と総称される往来は、日常生活や生産活動に関係深い語彙(ごい)(漢字)の学習を目的とするもので、『七ツいろは』、『弘法(こうぼう)字尽』『童学萬用(どうがくまんよう)字尽』『百官名尽(ひゃっかんなつくし)』『万花(よろずはな)つくし』『名字(みょうじ)往来』などさまざまなものがあった。日常生活に多用される実用的な短文を集めた『伊呂波(いろは)文章』などのほか、武家用文章や庶民用文章の模範を集めた往来もあり、また『消息(しょうそく)往来』、『風月往来』のように種々の手紙文の範型を編集したものもあった。

(2)教訓科 『実語教・童子(どうじ)教』『今川状』『孝行往来』『寺子教訓書』など。

(3)地理科 全国の国名を列挙した『日本国尽(くにつくし)』、街道とその宿駅の知識を与える『東海道往来』『中山道(なかせんどう)往来』などのほか、『江戸往来』『都名所往来』『竜田詣(たつたもうで)』『鎌倉詣』などがあった。

(4)産業科 都市の寺子屋向けに『商売往来』『問屋(といや)往来』『八百屋(やおや)往来』『本屋往来』『大工番匠(ばんしょう)往来』、農漁村の寺子屋向けに『田舎(でんしゃ)往来』『農業往来』『船方(ふなかた)往来』、そのほか『諸職往来』『質屋往来』から『娼家(しょうか)往来』などに至るまで、職業ごとの需要に応じた諸種の往来が用意されていた。

 このほか年中行事に関するもの、法度(はっと)や触書(ふれがき)を集めたもの、伝記や史詩など、近世の往来物は多種多様であり、とくに地理、産業に関する往来には地域社会の実情に即して編まれたものも少なくない。これらは庶民教育としての近世寺子屋教育の多様で充実した展開を物語っている。また女子用の往来も多数出版されていた。

[小股憲明]

『石川謙・石川松太郎編『日本教科書大系 往来編』(1977・講談社)』


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百科事典マイペディア 「往来物」の意味・わかりやすい解説

往来物【おうらいもの】

平安末期から明治初期まで使われた初等教科書。往来とはもともと往復1組の手紙集のことで,のち単語,文を集めたものもいうようになり,その内容も教訓ものから実学的なものにまで及んだ。平安末期の藤原明衡(あきひら)の《明衡(めいごう)往来》をはじめ,室町初期の《庭訓(ていきん)往来》《富士野往来》など中世までの古往来は数十種残っている。江戸時代には《商売往来》《農業往来》《日本国尽》など数千種に上り,おもに寺子屋の教科書として庶民の間に普及した。
→関連項目教科書消息

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「往来物」の意味・わかりやすい解説

往来物
おうらいもの

平安時代から明治初期にかけてつくられた初歩教科書の総称。往来は手紙のやりとりの意味で,平安時代のものは手紙の模範文例集であった。鎌倉時代になると,手紙を書くのに必要な単語,句,単文などを集めたものもつくられるようになり,教科書的色彩をもつようになった。江戸時代には,寺子屋などで用いる各種の教科書類を往来物と称するようになる。なお,江戸時代以前のものを古往来と呼ぶことがある。現存最古のものは平安後期成立の『明衡 (めいこう) 往来』で,『季綱往来』 (藤原季綱) ,『東山往来』 (清水寺別当定深) などが続くが,古往来のなかでは,室町時代初期と推定される『庭訓往来 (ていきんおうらい) 』が最も普及した。江戸時代になると,庶民の文化と生活の発達,寺子屋の普及に伴い,『商売往来』『百姓往来』『職人往来』などをはじめとする多種多様のものがつくられ,その数は 3000種をこえたといわれる。明治に入り,新制度の学校教科書ができてのちは存在意義をなくした。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「往来物」の解説

往来物
おうらいもの

平安時代~近代前期までに手紙文例集の形態で編纂された初等教科書の総称。往復一対の手紙を編纂した形態をとることからこの名がある。1066年(治暦2)に没した藤原明衡(あきひら)撰の「雲州消息」(「明衡(めいごう)往来」とも)が最古。形態的には,(1)明衡往来型(実際の消息や擬作を集め故実や儀礼に関する知識を与えたもの),(2)十二月往来型(12カ月の月順に時宜折々の消息の模範を示したもの),(3)雑筆往来型(消息に常用される語彙を集めたもの),(4)庭訓往来型(文例集と語彙集とを組合せて諸道の知識を与えたもの),(5)富士野往来型(消息文以外に,種々の文書の書式をあげて武家の教養を目的としたもの)がある。近世には約7000種も出版された。

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旺文社日本史事典 三訂版 「往来物」の解説

往来物
おうらいもの

平安末期から明治初めにかけて広く用いられた初級者用読み・書きの教科書
「往来」の語は書簡を往復する意味から出ており,往復一対の書簡の例文を手本として読み方や書き方を学ぶものである。11世紀ころの成立と思われる『明衡 (めいこう) 往来』はこの形式を残しているが,14〜15世紀ころ成立の『庭訓 (ていきん) 往来』は日常生活に必要な知識を教える画期的なもので,長く教科書として用いられた。江戸期に入り寺子屋の普及とともに,7000種にも及ぶ多種多様な往来物が出版され,庶民教育に利用された。

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世界大百科事典(旧版)内の往来物の言及

【教科書】より

…これは《庭訓往来》の内容を絵で示し,それによってその意味を理解させようとしたものである。教育用に使う往来物だけでなく,民衆の間には絵草紙が普及し,彼らは自らこれを使って学ぶということが多くなった。 いまあげた往来物は,はじめ往復一組の手紙を何通か集めた書物であり,日常生活に必要な手紙文の範とされていたが,江戸時代には初等教科書一般を指し,その内容は地理,実業,教訓など多方面にわたるようになった。…

【新猿楽記】より

…それぞれに生の人間の生活をバラエティゆたかに反映していて興味深い。このように本書は人事百般を部類して,それぞれの項目に属する事物を往来物風に列挙して,職人尽し・物尽しの観を呈し,なかには現在意味不明のものも少なくないが当時の社会生活のくまぐまのディテールを知るうえでの貴重な資料となっている。 ところで,往来物とは,初学者の教育のために広範な実用的知識を列挙して,物尽しの形式で示すものが多く,消息の贈答の形式をとる場合もあるが,明衡は,別に《明衡(めいごう)往来》を著して往来物の祖とされている。…

※「往来物」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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