弘道館
こうどうかん
江戸後期の水戸藩校。藩主徳川斉昭(なりあき)が藩政改革の一環として計画し、1841年(天保12)8月仮開館した。総裁青山拙斎(延于(のぶゆき))、会沢安(あいざわやすし)(正志斎(せいしさい))。しかし斉昭が幕命で失脚、1849年(嘉永2)ようやく藩政関与を許されるなどの政変のため、本開館式はやっと1857年(安政4)5月、水戸藩安政(あんせい)改革中に挙行された。藩校は1871年(明治4)廃藩置県まで、およそ30年間続いた。創立を1838年(天保9)とする説があるのは、斉昭の命で家臣の藤田東湖(とうこ)が建学の大意を記した『弘道館記』が同年に完成しているためであるが、実際に水戸城三の丸の重臣らの屋敷をほかに移して、建物がほぼ竣工(しゅんこう)したのは、仮開館の年である。水戸に先行する同名の藩校は佐賀・福山・彦根(ひこね)藩など5校あるが、水戸の弘道館がとくに有名なのは、敷地が5万7000坪にも及ぶ広大なこと、『弘道館記』が水戸学の集中的表現とみなされることである。そして館記の「敬神崇儒」の方針により、敷地内には学館のほか、孔子廟(こうしびょう)とともに鹿島(かしま)神社が祀(まつ)られている点などは、全国的に珍しい。また領民に対する種痘(しゅとう)の本拠となった医学館が併設されたことも注目される。
[瀬谷義彦]
『名越漠然著『水戸弘道館大観』復刻版(1981・常陸書房)』
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弘道館【こうどうかん】
江戸時代の藩校。水戸藩主徳川斉昭(なりあき)が1841年青山延于,会沢正志斎を総裁に水戸に開設した。皇国の道を中心とし,漢学,天文,数学,医薬,歌学,兵学,音楽,礼法などを教えた。15〜40歳の藩士を対象とし,その準備に10歳よりは家塾(かじゅく)に入ることとされ,規模内容からみて代表的な藩校であった。遺構は特別史跡。なお同名の藩校が肥前・佐賀・福山・谷田部(やたべ)・彦根藩等にあった。
→関連項目水戸[市]
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弘道館
こうどうかん
江戸時代末期,水戸藩主徳川斉昭によって創設された学校。天保 12 (1841) 年,青山延于 (のぶゆき) ,会沢安を総裁として開校し,水戸城内に文武2館を設け,15歳から 40歳までの藩士の子弟を教育。実用主義の立場から洋学も取入れ,後期水戸学の尊王攘夷思想を鼓吹した。このほか肥前,福山,谷田部,彦根の各藩校も弘道館と称した。
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弘道館
こうどうかん
江戸末期,水戸藩の藩校
水戸藩には早くから『大日本史』の編修所として江戸に彰考館があり,藩校の設立は遅れたが徳川斉昭 (なりあき) のとき,1841年水戸に弘道館を設立。尊王攘夷の水戸学精神を鼓吹するとともに,洋学の技術をも教授した
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こうどう‐かん コウダウクヮン【弘道館】
[一] 水戸藩の藩校。藩主徳川斉昭の
創建で天保一二年(
一八四一)開校。総裁青山延于・会沢安。尊王攘夷思想を鼓吹し、水戸学のもととなった。元治元年(
一八六四)
大部分が焼失した。
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デジタル大辞泉
「弘道館」の意味・読み・例文・類語
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こうどうかん【弘道館】
水戸藩の藩校。9代藩主徳川斉昭が1841年(天保12)に創立。敷地面積は17万8400m2。正庁,至善堂,文館,武館,医学館,調練場などを設け,15~40歳の藩士子弟を教育。教育精神は,斉昭の《弘道館記》,藤田東湖の《弘道館記述義》に明記されており,水戸学の尊王攘夷思想を鼓吹するとともに,実用主義の立場から西洋医学も取り入れた。1952年,旧弘道館として国の特別史跡に指定。藩学【鈴木 暎一】
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弘道館
こうどうかん
[現在地名]水戸市三の丸一丁目
三の丸の大手橋の西にあり、その西に鹿島神社・孔子廟・八卦堂などが建つ。士風の刷新を目指した徳川斉昭が天保一二年(一八四一)に開設した藩校。
斉昭はすでに同四年頃建設計画を発表したが、設立を推進しようとする藩政改革派とこれに反対する守旧派との対立抗争や、財政難のため準備が停滞していた。しかし同九年建学の由来と教育の方針を示した斉昭自撰の「弘道館記」が完成、翌年の敷地決定(城内三の丸、五万四千坪)と工事開始、同一一年の教授頭取(青山延于・会沢正志斎)発令と進み、同一二年八月一日、仮開館式を挙行した。
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世界大百科事典内の弘道館の言及
【近江国】より
…街道の往来が盛んになると,甲賀郡の信楽焼,売薬製造,愛知郡の挽物,坂田郡の伊吹もぐさなどの需要が増大した。
[文化と学問]
近世中期以降,諸藩で藩校の設立がみられ,1799年(寛政11)彦根藩の稽古館(1830年弘道館と改名),1808年(文化5)膳所藩の遵義堂をはじめ,水口藩の翼輪堂,大溝藩の修身堂,西大路藩の日新館と,つぎつぎに建った。また近江出身の学者では,中江藤樹が高島郡上小川村,崎門派三傑の一人浅見絅斎(けいさい)も高島郡太田村出身で,絅斎の弟子に犬上郡郷士の若林強斎,木下順庵に学んだ伊香郡の雨森芳洲ら儒者がいた。…
【徳川斉昭】より
…これが幕府や諸藩に先駆けた天保改革である。この改革で注目されるのは第1に文教策で,藩校弘道館の建設がその中心であった。建学の方針を示した《弘道館記》は水戸学の原典とされる。…
【彦根藩】より
…中期以降,藩財政の悪化にともない彦根藩も1799年(寛政11)国産方を設置し,特産品の浜縮緬,浜蚊帳,浜天鵞絨(ビロード),高宮布等の保護育成と統制による専売制施行により,商業利潤の追求に乗り出した。一方ではこの時代,藩校の稽古館(のち弘道館,さらに文武館と改称)を開校し,直亮(なおあき),直弼(なおすけ)の代には蔵書数2万部30万巻を蔵したといわれる。1850年(嘉永3)襲封した直弼は,58年(安政5)大老に就任,幕閣に威を張り安政五ヵ国条約や将軍継嗣問題に端を発し,攘夷派を弾圧したため,60年(万延1)3月桜田門外の変で非業の最期をとげた。…
【常陸国】より
…編纂に当たった学者では,前期の安積澹泊(あさかたんぱく),佐々十竹,栗山潜鋒,三宅観瀾,後期の藤田幽谷,藤田東湖,会沢正志斎らが名高い。会沢の《新論》,東湖の《弘道館記述義》の2著は,水戸学の代表的文献で,水戸藩天保改革の思想的裏づけとなり,また幕末尊攘運動の指導理念ともなった。水戸藩校弘道館は,天保改革の一環として設立されたもので,文武医にわたる総合的な教育が行われ,全国最大の規模をもつ。…
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