弘安の役(読み)こうあんのえき

精選版 日本国語大辞典 「弘安の役」の意味・読み・例文・類語

こうあん【弘安】 の 役(えき)

弘安四年(一二八一)の二度目の蒙古襲来。この年、元のフビライ蒙古高麗などの東路軍四万と旧南宋江南軍一〇万をあわせて約一四万の大軍で攻めた。初め東路軍が対馬壱岐を侵し、のちに江南軍と合して博多湾に侵入したが、暴風雨と幕府軍の反撃によって敗退。→元寇(げんこう)

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デジタル大辞泉 「弘安の役」の意味・読み・例文・類語

こうあん‐の‐えき【弘安の役】

弘安4年(1281)、蒙古軍が文永の役に続き再度博多に来襲した戦役。14万の大軍で迫ったが、日本軍の応戦暴風のために壊滅。→文永の役

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「弘安の役」の解説

弘安の役
こうあんのえき

1281年(弘安4)モンゴル(元)・高麗軍による日本侵攻。文永の役後の1275年(建治元)元は杜世忠(とせいちゅう)を派遣して再度服属を要求したが,鎌倉幕府は杜世忠を鎌倉竜口(たつのくち)で斬殺。79年南宋を滅ぼしたフビライは日本再征を決意し,81年1月に日本遠征出発の命を下した。遠征軍は,忻都(きんと)・洪茶丘(こうさきゅう)が指揮するモンゴル人・漢人3万と金方慶(きんほうけい)が指揮する高麗人1万の計4万人,900隻の東路軍と,アタハイ(阿塔海)・范文虎(はんぶんこ)の指揮下で,南宋の降兵を主体とする10万,3500隻の江南軍の2軍にわけられた。東路軍は5月3日,合浦(がっぽ)(現,韓国慶尚南道馬山)を出発し,対馬・壱岐を攻め,一部は長門を侵攻,主力は6月6日博多湾に進む。しかし,防塁や日本軍の激しい防戦で上陸を阻まれ,壱岐さらに肥前国鷹島に退いた。江南軍は6月18日に浙江(せっこう)南部の慶元(けいげん)(現,寧波(ニンポー))を出発し,7月に平戸島付近で東路軍と合流し,7月27日鷹島に移動。しかし激しい暴風雨にあい,閏7月1日元軍はほぼ壊滅。被征服民が主力の元軍は戦意に乏しいうえ,両軍の連絡が悪く,作戦面の不備がめだった。第3回の遠征も計画されたが,フビライの死により中止。日本の防備体制は鎌倉末期まで異国警固番役が継続し,九州に鎮西(ちんぜい)探題が設けられるなどその後も続いた。

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百科事典マイペディア 「弘安の役」の意味・わかりやすい解説

弘安の役【こうあんのえき】

文永・弘安の役

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「弘安の役」の意味・わかりやすい解説

弘安の役
こうあんのえき

元寇

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旺文社日本史事典 三訂版 「弘安の役」の解説

弘安の役
こうあんのえき

1281(弘安4)年,2度目の蒙古襲来事件。

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世界大百科事典(旧版)内の弘安の役の言及

【江南軍】より

…1281年(弘安4)の弘安の役時に東路軍(蒙古・高麗軍)とともに日本に遠征した,南宋の降兵を主体とした元軍の一派。1279年南宋を滅ぼした元にとって,降伏した旧南宋軍人の処置が緊急の課題となった。…

【高麗】より

…しかし,これらの努力は水泡に帰し,1274年(高麗元宗15∥元至元11∥文永11)には元および元に徴発された高麗軍による第1次日本遠征(文永の役)が決行された。さらに,1281年(高麗忠烈王7∥元至元18∥弘安4)におこなわれた第2次日本遠征(弘安の役)においても,高麗軍はその一翼をになったが,軍兵7592人におよぶ大被害をうけた。 1350年(高麗忠定王2∥正平5∥観応1)以後には,倭寇が朝鮮半島沿岸の各地を襲撃し,官米や人民を略取したが,その惨害は年とともに増大した。…

※「弘安の役」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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