弘前(読み)ひろさき

精選版 日本国語大辞典 「弘前」の意味・読み・例文・類語

ひろさき【弘前】

青森県南西部の地名岩木川支流が網目状に広がる津軽平野南部にあり、北西方に岩木山を望む。江戸時代は津軽氏十万石の城下町として発達。明治以後第二次世界大戦までは旧日本陸軍第八師団司令部所在地。現在は弘前大学などのある学園都市。米作地帯と日本第一のリンゴ産地とを控えた農産物の大集散地。津軽塗・こぎん刺し・津軽焼特産。明治二二年(一八八九市制

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デジタル大辞泉 「弘前」の意味・読み・例文・類語

ひろさき【弘前】

青森県南西部の市。もと津軽氏の城下町。第二次大戦前は第八師団が設置された。リンゴ栽培が盛ん。津軽塗こぎん刺しの産地。夏には、ねぷた祭りが行われる。平成18年(2006)2月岩木町相馬村合併。人口18.4万(2010)。

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改訂新版 世界大百科事典 「弘前」の意味・わかりやすい解説

弘前[市] (ひろさき)

青森県南西部の市。2006年2月旧弘前市と岩木(いわき)町,相馬(そうま)村が合体して成立した。人口18万3473(2010)。

弘前市北西部の旧町。旧中津軽郡所属。人口1万1982(2005)。旧弘前市の西にあり,岩木山とそのすそ野を占め,東部は津軽平野にかかる。中心の賀田(よした)は津軽藩の祖といわれる大浦光信が1502年(文亀2)大浦城を築いた地で,大浦氏(津軽氏)による津軽平定の拠点であった。沖積平野には水田,岩木山東麓の標高300m以下にはリンゴ園が多く,町の中心産業となっている。岩木山麓一帯では1962年から国営開拓パイロット事業として酪農化がすすめられ,百沢地区には岩木実験農場が置かれたが,経営不振のため8年目には解散した。岩木山南麓には百沢,嶽,湯段などの温泉や岩木山百沢スキー場があり,八合目までは津軽岩木スカイラインが通じ,観光客も多い。百沢には岩木山神社,津軽氏4代信政らを祭る高照神社がある。

弘前市南西部の旧村。旧中津軽郡所属。人口3840(2005)。岩木川の支流相馬川流域を占め,白神山地の堂九郎坊森,長慶森などを境に秋田県と接する。国有林を主とする山林が村域の80%以上を占める山村。水田は相馬川下流や岩木川との合流点近くの中心集落五所周辺にわずかにあるのみで,丘陵部ではリンゴ栽培が行われ,村の基幹産業となっている。1933年に亜鉛鉱を主とする舟打鉱山操業を始めたが,63年に廃山となった。78年に峰越林道田代・相馬線が開通し,秋田県田代町(現,大館市)と結ばれた。紙漉(かみすき)沢は南朝3代長慶天皇終焉地との伝説をもつ。
執筆者:

弘前市東部の旧市で,津軽平野南部の中心地。1889年市制。人口17万3221(2005)。秋田県境に源を発する岩木川が市街地の西部を北流し,支流の土淵川が市街地を貫流している。市街地は洪積台地の末端に築かれた弘前城を中心として台地上に展開し,一部は沖積平野にもおよんでいる。弘前藩2代藩主津軽信枚(のぶひら)が築城してから城下町として発展し,津軽地方の政治・経済・軍事の中心となってきた。明治以後は県庁が青森市に移ったことで一時衰退したが,1894年の青森~弘前間の奥羽本線開通や,96年の陸軍第8師団司令部の設置で活気をとり戻し,第2次大戦終結までは軍都として栄えた。戦災を受けなかったため,被災した青森師範,青森医専が戦後,青森から移転して,旧制弘前高校と統合,国立弘前大学が創立され,文教都市としてよみがえった。JR奥羽本線,国道7号,102号線が通じるほか,弘南鉄道が走り,この地方の交通の要衝となっている。市域一帯は津軽平野南部の穀倉地帯で,日本一のリンゴ産地でもあり,市はその一大集散地となっている。また商業の中心地として広い商圏をもっている。地場産業として,リンゴ加工や酒,みそ,しょうゆなどの食品工業があり,名産の津軽塗をはじめ,津軽焼,津軽こぎん(小衣),アケビづる細工などの伝統工芸も盛んである。春に弘前城跡の公園を中心に催される桜祭と夏に津軽地方一円で行われるねぷた祭(ねぶた)は最大の年中行事として全国に知られる。
執筆者:

陸奥国弘前藩の城下町。《信枚君一代之自記》によれば,1628年(寛永5)8月20日から弘前と称したという。それ以前は高岡,鷹ヶ岡,古くは二ッ石と呼んだ。町屋の建設は,1603年(慶長8)に藩祖津軽為信の命によって行われ,移住者には扶持を支給した。城下町の本格的な建設は,10年に2代藩主津軽信枚が弘前城の築城にとりかかったときからで,翌年には城下町の体裁を整えた。46年(正保3)の絵図によれば,城を中心に城北は八幡宮のほか歩行(かち),若党,小人(こびと)などの下級武士と禰宜(ねぎ)が居住し,城東には町屋,寺院,侍屋敷,東照宮などがあった。城南には町屋,足軽屋敷のほか津軽氏の菩提寺長勝寺を中心とする寺院町(長勝寺構),城西は町屋,馬屋,鷹匠町,侍屋敷が岩木川を挟んで配置され,城下の町域は四つに区分されている。岩木川は当時天守の下を流れ,2筋に分かれていた。城内にも三の丸,四の郭に侍屋敷と侍町がおかれた。職人は職種ごとに集住して,鞘師町,鍛冶町,桶屋町,銅屋町,紺屋町などをつくり,現在もそれらの町名は残っている。城下の景観は,藩政時代に幾度も変更を余儀なくされた。1649年(慶安2)の寺町大火によって,城東の寺院町が城南に移転し,その跡に町屋が設けられた。また,74年(延宝2)と82年(天和2)の岩若木川掘替え,元禄(1688-1704)と宝永(1704-11)の2回にわたる城内からの家中屋敷の移転,寛政改革による藩士土着と城下への復帰があった。19世紀初頭以後明治維新に至るまでは,町端に新町つくられたほかは大きな移動はない。

 1681年の町人法度によって町方支配の概要は定まり,町奉行,町年寄,町名主,月行事の支配機構も固まった。町役には,地子銀,出人足,時鐘茂合銭,木戸番,伊勢太々神楽料があって,それらの徴収が行われた。このうち屋敷地に賦課された地子銀と出人足は町役の基幹を成すものであるとともに,表裏一体の関係にあった。79年に人足役が定まり,1701年に地子銀納へと変わり,13年(正徳3)には再度人足役へと移って維新に至った。

 城下の人口は,1764年(明和1)の藩律によれば,武家は1万4600人余,商家は1万6600人余であった。産業には津軽塗や弘前蠟燭(ろうそく)などがあり,年中行事ではねぷた,盆踊,八幡宮の祭礼が特に盛んであった。
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