延安(中国)(読み)えんあん

日本大百科全書(ニッポニカ) 「延安(中国)」の意味・わかりやすい解説

延安(中国)
えんあん / イエンアン

中国、陝西(せんせい)省北部の地級市。2市轄区、延長(えんちょう)など11県を管轄する(2016年時点)。常住人口218万7009(2010)。黄河(こうが)の支流延河の中流部、黄土(こうど)高原に形成された小さな河谷の交差地点にあり、中国革命の「革命聖地」として有名。洞(ヤオトン)(穴居)など黄土高原地帯特有の生活様式もよくみられる。

 周辺は降水量も少なく(年約500ミリメートル)乾燥しており、植生や土壌の発達も不良で、農業生産には不利な条件が多い。河谷平野では小麦もつくられるが、耕地の大部分は丘陵斜面に開かれ、主として雑穀を植える。一部では階段状の耕地に果樹の栽培も進められている。工業は市街地に地域の需要を満たす小規模なものがある程度であったが、2008年には軽工業を主とする延安経済技術開発区が設置された。神延線(神木(しんもく)―延安)、西延線(西安(せいあん)―延安)の終点であり、近郊に延安二十里堡(にじゅうりほ)空港がある。

[秋山元秀・編集部 2017年7月19日]

歴史

古代には北方異民族の居住区域で、南北朝期も北朝の支配下にあった。延安県は隋(ずい)代に今日の延長県の地に設けられ、その名も延河一帯の平安を願ったものであった。延安は同名の府路の中心として、万里長城の南における北方異民族の侵入に備える辺境軍事基地で、また関中(かんちゅう)より北方のオルドスモンゴルへ至る交通路の要衝であった。したがって国内的にも反乱の拠点になりやすく、明(みん)代末の農民蜂起(ほうき)の拠点になった。

 1935年、南方解放区を放棄した中国共産党の紅軍(こうぐん)は、長征を成し遂げて陝北(せんほく)地方に到着し、陝甘寧(せんかんねい)辺区の解放区をつくり、1937年延安市をその首府とし、以後1947年に至るまで党中央の所在地であった。この間、野坂参三の日本人反戦同盟など多くの中国共産党指導下の機関が設けられ、中国共産党指導者も、活発に政治活動、著作活動を行った。毛沢東の『矛盾論』『実践論』もこの地で書かれた。

 市には旧城壁も残り、宝塔(ほうとう)山には唐代の九重の宝塔もあるが、鳳凰(ほうおう)山、楊家嶺(ようかれい)、棗園(そうえん)などに残されている解放区時代の党の施設や指導者の洞を革命記念地として訪れる人が多い。市の南部にある南泥湾は「陝北の江南」とよばれるように気候条件の比較的よい所で、共産党の八路軍による大生産活動が行われた。

[秋山元秀 2017年7月19日]

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