康慶(読み)コウケイ

デジタル大辞泉 「康慶」の意味・読み・例文・類語

こうけい〔カウケイ〕【康慶】

平安末期・鎌倉初期の仏師。運慶の父。快慶の師。慶派発展の基礎を築いた。作品に興福寺南円堂不空羂索観音ふくうけんじゃくかんのん四天王法相六祖像東大寺伎楽面など。生没年未詳。

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精選版 日本国語大辞典 「康慶」の意味・読み・例文・類語

こうけい カウケイ【康慶】

平安末期、鎌倉初期の仏師。康助の子。運慶の父。東大寺、興福寺の復興造像に従事伝統を踏まえ、新鮮な写実様式を開花させ、鎌倉彫刻新風をそそぐとともに、慶派一門興隆の基礎を築いた。代表作に、興福寺南円堂の不空羂索(ふくうけんじゃく)観音像・四天王像・法相六祖(ほっそうろくそ)像や、東大寺の伎楽面がある。生没年未詳。

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百科事典マイペディア 「康慶」の意味・わかりやすい解説

康慶【こうけい】

平安末・鎌倉初めの南都仏師。運慶の父。初め院尊明円京都派の仏師におされていたが,1180年東大寺興福寺の復興造像に運慶とともに腕を振るい慶派の発展を導いた。1189年完成の興福寺南円堂不空羂索観音・法相六祖・四天王像は現存する彼の遺作で,藤原期風を完全に脱した力強い写実的な鎌倉期様式を示している。
→関連項目快慶定慶奈良仏師

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改訂新版 世界大百科事典 「康慶」の意味・わかりやすい解説

康慶 (こうけい)

平安後期から鎌倉初期にかけて活躍した慶派の仏師。生没年不詳。藤原期の大仏師定朝5代目の康朝の弟子と考えられ運慶の父,快慶の師に当たる。12世紀末に院派仏師や円派仏師といった旧勢力に圧せられていた慶派一門を率いて,その勢力を挽回させ,南都の東大寺,興福寺の復興事業に当たっては運慶や快慶らとともに手腕をふるい,のちの慶派発展の基礎を築いた。1152年(仁平2)高さ5尺の吉祥天を造ったというのが記録上の最初の事蹟で,77年(治承1)蓮華王院五重塔の造仏の功で法橋となる。88年(文治4)から翌年にかけて興福寺南円堂の本尊不空羂索観音像をはじめ四天王像,法相六祖像を造り,92年(建久3)ごろ蓮華王院不動三尊を制作した。その後96年には東大寺大仏殿の増長天,また運慶と協力して大仏の脇侍虚空蔵菩薩などを造像した。彼の作風は興福寺南円堂にのこる諸像によってうかがうことができる。これらの諸像には藤原時代の仏像が示す典雅で調和のとれた表現は影をひそめ,康慶が天平彫刻の古様に学んでそれをとり入れながら,新鮮ではつらつとした新しい様式を目指したことがうかがえる。法相六祖像の個性的風貌や力強い衣文の彫り口は,前代にはみられないもので,鎌倉様式の萌芽というべきだろう。こうした作風は次代の運慶に受け継がれ,さらに高い完成をみる。
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朝日日本歴史人物事典 「康慶」の解説

康慶

生年:生没年不詳
平安末・鎌倉初期の奈良仏師。康朝の弟子で運慶の父,快慶の師に当たる。記録では仁平2(1152)年に高さ5尺の吉祥天像の造立が伝えられ,また治承1(1177)年蓮華王院五重塔供養の際には法橋に叙せられた。この間,安元2(1176)年作の円成寺大日如来像の銘文に「大仏師康慶実弟子運慶」と記され,その制作に当たって運慶を指導したと思われるほか,近年発見された治承1年作の静岡・瑞林寺地蔵菩薩像の銘文にみえる「法橋□慶」は,康慶の可能性が強い。康慶の主な事跡としては,治承4年の平重衡による南都焼討ち後,東大寺や興福寺の復興造像に運慶,快慶などの一門を率いて造仏に当たり,院派や円派の仏師に並ぶ活躍をしたことがあげられる。そして文治4(1188)年から翌年にかけて行われた興福寺南円堂諸像の造仏では,本尊の不空羂索観音像をはじめ,四天王像,法相六祖像などの制作を主宰し,天平彫刻の古典にならって新たな写実的作風を提示した。また,これらの復興事業を通じて多くの弟子たちを育て,鎌倉様式の基礎を確立するとともに,以後の慶派の隆盛を築いた。なお康慶は建久5(1194)年には,すでに法眼位に上っていたとみられ,翌6年の東大寺大仏殿の供養に際して,それを運慶に譲位している。さらに同7年4月7日の銘がある伎楽面(東大寺,神童寺に現存)を造り,同年,東大寺大仏殿脇侍および四天王像を運慶,快慶と共に造ったのが最後の事跡として知られている。<参考文献>小林剛「大仏師法眼康慶」(『日本彫刻作家研究』),松島健「南円堂旧本尊と鎌倉再興像」(『名宝日本の美術』5巻),田中嗣人「治承元年在銘の瑞林寺地蔵菩薩坐像」(『日本古代仏師の研究』)

(浅井和春)

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「康慶」の意味・わかりやすい解説

康慶
こうけい

生没年不詳。平安後期から鎌倉初期にかけての仏師。運慶の父で、慶派正統の成朝(せいちょう)が関東へ下った後を受けて慶派を主宰し、院派の院尊、円派の明円らの京都仏師に圧せられていたのを挽回(ばんかい)させ、奈良の東大寺、興福寺の復興事業にも、運慶や弟子の快慶とともに手腕を振るって、後の慶派全盛の基礎を築いた。その作風は興福寺南円堂の不空羂索観音坐像(ふくうけんさくかんのんざぞう)をはじめ四天王、法相六祖坐像(ほっそうろくそざぞう)などによってうかがうことができる。1189年(文治5)の作であるこれらの像は、前代(藤原時代)の仏像の優雅端麗な姿は影を潜め、変化に富んだ動態、生き生きとした個性的な表情など、力強さをその量感や顔だちに表している。こうした作風はさらに運慶に引き継がれ、運慶様式として完成する。

[佐藤昭夫]

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「康慶」の解説

康慶
こうけい

生没年不詳。平安末~鎌倉初期の仏師。運慶の父。東大寺・興福寺の復興造像で活躍。一門からは運慶・快慶をはじめ有力な仏師を多く輩出した。1188年(文治4)から翌年にかけて造立した興福寺南円堂諸像(不空羂索(ふくうけんじゃく)観音・四天王・法相六祖像が現存。しかし四天王像は現中金堂の像が本来の像とする説が有力)は写実的で力強く,鎌倉新様式の胎動がうかがえる。1177年(治承元)の蓮華王院五重塔の供養で法橋(ほっきょう),94年(建久5)の興福寺総供養時には法眼(ほうげん)であった。96年の東大寺大仏殿の脇侍像と四天王像の造立が最後の事績だが,同年4月7日の銘をもつ伎楽面が東大寺と神童寺(京都府木津川市山城町)に現存する。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「康慶」の意味・わかりやすい解説

康慶
こうけい

平安時代末期の仏師。運慶の父。運慶,快慶などすぐれた仏師を養成し,おもに奈良で活躍,正系仏師団の勢力伸展に寄与した。治承1 (1177) 年蓮華王院五重塔の造仏の賞として法橋に叙せられ,文治4 (88) 年からは興福寺南円堂の『不空羂索観音像』『四天王像』などの制作に従事。興福寺の『法相六祖像』の制作にも関与したと伝えられる。東大寺,神童寺に康慶作銘の伎楽面が伝わる。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「康慶」の解説

康慶 こうけい

?-? 平安後期-鎌倉時代の仏師。
子の運慶,弟子の快慶らと治承(じしょう)4年(1180)の南都(奈良)焼き討ちでやけた東大寺などの復興にあたる。興福寺の不空羂索観音(ふくうけんさくかんのん)坐像や四天王像,東大寺の伎楽(ぎがく)面などをのこし慶派全盛の基礎をきずいた。号は肥前。

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旺文社日本史事典 三訂版 「康慶」の解説

康慶
こうけい

生没年不詳
平安末期・鎌倉初期の仏師
運慶の父。仏師康朝に師事。奈良仏師の中心人物で,治承の兵火で焼失した奈良の興福寺南円堂の諸仏像を再興。京都にも進出して活躍した。南円堂の『不空羂索 (ふくうけんじやく) 観音像』,東大寺の『伎楽 (ぎがく) 面』などの作品がある。

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世界大百科事典(旧版)内の康慶の言及

【鎌倉時代美術】より

…この様式が奈良時代様式への復古なのか,また新しい中国宋代様式の影響なのか議論の分かれるところである。なによりもこの像が鎌倉彫刻を主導する康慶や運慶の様式に通ずる点が重視されよう。1176年(安元2)の奈良円成寺の大日如来像(運慶作)や1177年(治承1)の静岡瑞林寺の地蔵菩薩像(康慶作か)などが遺品として続く。…

※「康慶」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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